〈19-3〉そりゃアリでしょ
瞼を突き刺すような紫色の強烈な光と、全身を包む浮遊感。それから臓腑を押し上げられるような気持ち悪さにほたるがノエにしがみつく力を強くした時、全ての感覚が元に戻った。
時間にして、ほんの数秒。閉じた瞼に遮られた目に光は入らず、しかし光の残像がちかちかと残る。気持ち悪さの波は治まって、ほたるの呼吸を楽にする。
いつもどおりの呼吸に戻ったほたるがすうと鼻から息を吸い込めば、いつもとは違う匂いが記憶を刺激した。
「着いたよ。もう下りて平気」
そのノエの声と共に地面に足をつく。浮遊感が残っていたのか一瞬だけふらついたが、すぐにしっかりと立って目を開けた。
「本当に着いた……」
そこは、ほたるの部屋。十八年を過ごした場所。今は深夜なのか、室内は暗い。けれど最後に見た時と寸分違わぬその部屋が、ほたるを呆然とさせる。
本当に帰ってきた。私の部屋だ――少しずつやってくる実感にほたるが身を任せていると、ノエが小さく「あ」とこぼした。
「何?」
「起こしちゃったのかな」
ほたるにはノエの言っていることが分からなかった。だが、それも束の間のこと。
ガチャリと開いたドアが、ほたるに答えを教えた。
「ほたる……?」
「ッ、お母さん!!」
ドアを開けたのはほたるの母、澪だった。その姿を見た瞬間、ほたるが澪に抱き付く。澪は少しばかり驚いたように固まっていたが、すぐに「急にどうしたの?」とほたるを抱き返した。
「友達の家にいるんじゃなかった? しかもこんな時間に……あ! なんで靴なの!!」
「ッ!!」
突如落ちる雷。ほたるはびくりと肩を揺らし、自分の足元を見て、咄嗟に「ご、ごめんなさい!」と謝った。
「あなたもよ、ノエくん! 日本の家は土足禁止!」
「あ、はい」
澪の怒りはノエにまで向いた。当然のように母がノエを受け入れていることにほたるは驚いたが、それよりも。
「……ノエくん?」
「昔から知ってるって設定にしたからかな」
へらりとノエが笑う。いつもどおりのその姿に、ほたるが呆れ顔をする暇はなかった。
「もう! 二人とも靴脱いで! 掃除して! その間に何か作っちゃうから!」
「え?」
母の言葉にほたるの理解が遅れる。自分はゆっくりと久々の再会に浸ろうと思っていたのに、母の様子はそれとは全く違ったからだ。
「だってもう十時過ぎてるよ? こんな時間ならお腹空いてるでしょ? それともどこかで食べてきたばっか?」
「いや、まだだけど……」
「じゃあ掃除しながら待ってて。ああでも、冷蔵庫の中ろくなものない……もう、帰ってくるなら事前に言ってくれなきゃ!」
「……ごめんなさい」
「謝るなら次から気を付けてね。あ、おかえり!」
思い出したように再会の言葉を言い残し、澪がその場を後にする。階段を下りる音は忙しなく、しかし怒りは感じられない。
まるで嵐のようだった――母の姿を見送ったほたるはしばし呆然として、次に「あははっ!」と笑い出した。
「何あれ、すんごい普通!」
「嫌?」
「ううん、良かった。お母さん元気そうで……良かっ……」
笑っているのに、目からは涙が溢れる。母が無事で良かった。寂しがっていなくて良かった。認識を書き換えられていると聞いた時には酷く心配したが、見たところ全く問題なさそうだ。
それら全てが喜びと安心感となって、ほたるは泣き笑いしながらノエを見上げた。
「安心できた?」
ノエがほたるの涙を指で拭いながら問いかける。その問いにほたるがうんうんと頷けば、ノエは何かに気付いたような顔をして手を止めた。
「もしかしてこれ、俺がほたるの母さんに怒られるんじゃないの? ほたるのこと泣かせたって」
「怒られればいいと思う。ちょっと面白そう」
母に叱責されていたノエを思い出し、ほたるの頬が緩む。エルシーやラミアに叱られている時とはまた違う姿には新鮮味があった。しかもよくよく考えればノエの方が母よりずっと年上だ。それなのに子供のように叱られているという絵面はなかなかに滑稽に思える。
「……掃除頑張ったら許してもらえないかな」
「ノエ、掃除できるの?」
「ほたるは俺をなんだと思ってるの?」
心外だと言わんばかりにノエが顔をしかめる。その表情がまた情けなく見えて、ほたるはとうとう笑いが止まらなくなった。
§ § §
靴を脱ぎ、掃除をし、ほたるとノエはリビングで食事を取っていた。澪はあまり食材がないと言っていたが、自分用の常備菜はあったらしい。それとちょっとした炒め物が並べられれば食卓は十分に埋まって、ほたるは久々の母の手料理に終始笑顔で舌鼓を打っていた。
ただし、一点だけ不満なことがあったが。
「ノエくん、これも食べて。ご近所さんにもらった明太子なんだけどね、ほたるってば辛いの駄目だから」
「ありがと、澪ちゃん」
これだ。食事が始まってからというもの、ノエは母とまるで友達のように話す。ノエが小声で言ってきたことにはそういう設定にしてしまっていたかららしいが、ほたるとしては非常に居心地が悪い。
「……ノエって、老若男女いけるんだよね」
「ん? 急にどうしたの」
母がキッチンに立ったタイミングを見計らい、ほたるがじとっとノエを見つめる。
「お母さんは、アリ?」
「そりゃアリでしょ」
「……子持ちでも?」
「当然。つーか澪ちゃん、全然子持ちに見えなくない?」
「それはありがとう」
母が褒められるのは悪い気はしないが、ほたるの気持ちは晴れなかった。自分の母が見た目だけは若い男とどうこうなるなどと想像したくもない。
そう思ってほたるがうんと顔をしかめていると、キッチンから戻ってきた澪が「どうしたの?」と首を傾げた。
「いや、澪ちゃん相変わらず可愛いねって話してた」
「……ノエ」
「あらあら、ありがとうノエくん。でも私はパパ一筋だから」
「だよね。なのにほたるってば妬いちゃって」
「ちょっとノエ!?」
何を言い出すんだとほたるが声を荒らげる。しかし返ってきたのはニヤリとした笑みで、それをノエだけでなく母からも向けられるものだから、ほたるはぐぬぬと押し黙った。
「そ、そういえばお父さんいないんだね」
早く話題を変えなければ、とほたるが口を開く。
「しばらく私がいないって、連絡してないの?」
「してないよ? 仕事が忙しいみたいだから」
思わぬ母の返答に、ほたるは「そうなんだ……」と視線を落とした。机の上にある料理は確かに母の好物ばかり。父が帰ってきていれば違っていたであろうそれを見て、もう一度母に目を向ける。
「寂しくないの?」
問いかければ、「寂しいけど……」と澪は表情を曇らせた。
「だけど、急に連絡したら迷惑になっちゃうから」
「……もしかして、仲悪いの?」
「ううん? 仲良しだよ?」
けろりと答える母に、ほたるは「んん?」と怪訝な声を漏らした。寂しいけれど連絡はしない。でも仲は良い――どういうことだろうとほたるが考えていると、ノエが「旦那さん、何してる人だっけ」と澪に問いかけた。
「普通のサラリーマンよ。ずっとあちこち単身赴任してるけど」
「連絡先は?」
「……ノエ?」
何故そんなことを聞くのだろう。ノエの意図が分からず、ほたるの首が傾く。
「どこだったかな。どこかにしまってあるはずなんだけど……」
「澪ちゃん、もしかして一度も連絡したことないの?」
「そうなのよ。忙しい人だからいきなり連絡すると迷惑になっちゃうから」
「今連絡しちゃいなよ」
「ちょっと、ノエ!」
それは流石に違うのではないか。母が控えているのだからノエがせっつくのはおかしいのではないか。
そう思ってほたるが声を上げれば、ノエは「ほたるは連絡したくないの?」と不思議そうな顔をした。
「あ……そういうこと。いいよ、お父さんとは話さなくて。お母さんも連絡してないなら私がするのも変だし」
「でも話しておいた方がいいんじゃないの?」
ノエの言いたいことはほたるにも分かった。二度と会えないかもしれないと母に会うことを求めたのだから、父にも同じ気持ちを持っているのではないか――彼が言いたいのはきっとそういうことだ。
確かにそうかもしれない。母ほどではないけれど、父とも一度くらいは話してみてもいいかもしれない。
そこまで考えた時、ほたるは頭がぼうっとするのを感じた。
「…………」
ほたるの動きが止まる。ぼんやりと一点を見つめて、微動だにしない。
「ほたる?」
ノエが呼べば、ほたるははっとしたように目を瞬かせた。
「話さなくていいよ、忙しいもん」
そうほたるは答えたが、ノエは自分を見つめたまま。一体どうしたのだろう、とほたるが声をかけようとした時、「そうだ」という母の声が聞こえた。
「二人とも、今日は泊まってくでしょ?」
「あ……」
当然とばかりに澪が言う。ほたるは思わず頷きかけて、今の状況を思い出した。今はあくまで母に会いたいという我儘を叶えてもらっているだけ。そんなに長居してもいいかどうか、まだノエと話していない。
だから答えを求めるようにノエは見れば、ノエはいつもの笑みで「いいよ」と頷いた。
「お風呂も入るでしょ?」
「入る!」
「じゃあ沸かし直さなきゃ」
久々の自宅の風呂だ――ほたるは懐かしい生活に心を弾ませながら、残りの料理を食べ進めた。