〈18-2〉そんな約束していいの?
目を開けると同時に天井が見えて、ほたるは自分が寝ていたことを知った。
いつ寝たんだっけ?
記憶を辿る。今日はノエと一緒に外に出て、市場に来た人の多さに驚いて、それで――
「ッ――嫌ぁあああ!!」
脳裏に蘇ったのは人を殺した記憶。飛び起きたのは逃げたかったからか、それとも他の理由からか。ほたるには分からなかった。というより、自分が起き上がったことすら分かっていない。
頭の中を支配するのはあの記憶だけ。襲われ、恐怖し、そして相手を死に至らしめた記憶だけ。
湧き上がる恐怖と罪悪感にほたるが目一杯叫び声を上げれば、隣にいたらしいノエが「ほたる!」とその身体を捕まえた。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて。もうここに怖いものはない」
穏やかな声で言いながら、ノエがほたるの背中を撫でる。その力の強さがほたるの意識を少しだけ現実に引き戻したが、感じかけた安堵はすぐに罪悪感へと変わった。
「で、でも私、人を……っ……わた、私が、あの人を……!!」
「ほたるじゃない。やらせたのは種子だよ」
「違う! わ、私が……! 私がやったの……! あの人に血を飲ませようって、わ、わざと……!!」
唇が震える。なんて恐ろしいことをしてしまったのかと、口にすることすら躊躇われる。それでも必死に言葉にしたのは、黙っていることの方が恐ろしかったからだ。罪がこの胸の中に渦巻いて、そのままどうにかなってしまうのではないかと思えるくらいに怖くてたまらなかったからだ。
何故自分があんなことをしたのかは、分からない。それが余計に怖かった。自分の身体なのに全く制御ができなくて、しかし確かな実感が自分の行動ではないと疑わせてくれない。
ならばあれこそが、己の本性なのではないか。自分は他人を平気で殺してしまう人間なのではないか。襲われた瞬間にそうしなければと強く感じたのは、命を守るためではなくただ殺すことを求めたのではないか。
だから、そうではないと叫びたかった。そうではないと言って欲しかった。そんな自分の思惑に気付いて嫌になる。けれどノエの腕には、ぎゅっと力がこもった。
「でもそれは、ほたるの意思じゃない」
静かな声がほたるの胸に染み込む。求めていた言葉そのものだった。自らの行いを許すかのような言葉が、ほたるを落ち着かせる。
けれど、それでいいのかと。人を殺めた自分が許されていいのかと、疑問が、不安が、ほたるの身体を強張らせる。
「け、けど、私が……」
「ならほたる、今同じ状況になったら同じことしようと思う?」
「ッ、そんなわけない!!」
何を馬鹿なことを、と思わずノエを突き飛ばすように身体を離せば、ノエは「ほら、ほたるの意思じゃないじゃん」と笑った。
「じゃあ、なんで……」
なんで自分はあんなことをしたのだろう。自分の意思でなかったと言われても、この身体が動いたことは事実なのに。
ほたるが泣きそうな顔で問いかければ、「種子のせいだよ」という答えが返ってきた。
「なに、それ……種子は、そんなことまでできるの……?」
この身に流れる血を吸血鬼達にとっての毒にして、傷を負えば尋常ならざる回復力でそれを癒やして、そしてその代償にこの命を食らう――これだけでもとんでもないものだと思っていたのに、更には完全に身体の制御まで奪うのか。
確かに以前、壱政と出遭った時に種子が自分を逃がそうとしたという話は聞いた。けれど、それだけだと思っていた。一瞬だけ身体が知らない動きをするだけで、それ以上はないと。
だが、違うのだ。あの時の自分は一瞬どころか、男に抗っている間ずっと意識と身体が切り離されたかのような感覚を味わっていた。
それが全て、種子の仕業。自分からこの身体を奪って、脅威から逃げるどころかその脅威を殺してしまうだなんて。
なんて恐ろしいものがこの体の中にあるのだろう――教えられた現実に身体が震える。犯した罪への恐怖から、自由を奪われる恐怖へ。
確認するようにノエを見つめても、彼は何も返さない。考えるような面持ちでこちらを見つめるだけで、彼は何も言わない。
「ノエ……?」
ほたるが思わず呼べば、ノエはゆっくりと瞬きをした。
「普通はできないけど、ほたるの状態はちょっと特殊なんだよ。でも大丈夫、種子させ取り除けば全部元通りになるから」
柔らかく微笑んで、ほたるの頬に手を添える。
「本当……?」
「本当だよ。あの男のことは種子がほたるの身体乗っ取ってやらせただけ。ほたるに意識はあったかもしれないけど、実際に身体を動かしてたのは種子であってほたるじゃない。だからほたるは何も悪いことなんてしてない。怖い思いしたことも、種子を取り除いたら全部忘れられる。だから大丈夫だよ」
本当だろうか、とほたるは瞼を伏せた。ノエの話は、自分にとって都合が良すぎる気がする。
この話を信じたい。信じれば楽になれると分かるから。あの時起こったことは悪い夢のようなもので、自分はほとんど関与していないのだと安心することができる。
けれどやはり、それでいいのだろうかという疑問は消えない。自分は間違いなくあの場にいて、この手があの男を殺してしまったのに。いくら種子に操られただけだとしても、ノエの話を受け入れてしまっていいのだろうか。
あの男の死が、軽く扱われてしまうのではないか。
「あの人のこと、どうなるの……?」
尋ねたのは罪悪感からだ。襲われたのは事実だが、殺したかったわけではない。ただ逃げられればよかった。あの男にしたって、狙ったのが自分でなければ今もまだ生きていたかもしれない。
そう思うとどうしても苦しくなる。悪夢だと、現実とは違うのだと逃げることが間違いだと思えてくる。
「今回のことは事故死扱いになるよ。ほたるは従属種のふりをしてたから、気付かず襲って血の毒にやられた。最初の従属種の男にちょっと状況は似てるね」
「……私は、裁かれないの?」
「誰かが裁かれるとしたら、それはほたるじゃない。スヴァインだよ。種子の持ち主だから当然」
その理屈はほたるにもなんとなく分かった。種子は与えた吸血鬼の一部だと聞いたこともある。その種子による行動ならば、持ち主が責任を負うということも理解できる。
しかしそれでも、納得はしきれない。
「なんか、ずるいよ……私、悪いことしたのに……」
「悪いことをしたのはほたるじゃない。っていうかさ、最初にほたる襲ったのって相手の方じゃなかった?」
「そうだけど……それが何?」
「なら悪いのは向こうだよ。多分、ほたるのこと親なしの従属種だと思ったんじゃないかな。他人の従属種に手を出すのは罪だけど、親なしなら罰せられないから。それでそういう従属種を好き勝手しちゃう奴が時々いるんだよね。人間も正当防衛ってあるでしょ? だからそれと一緒」
だから仮に自分自身の意思でも、裁かれる必要はない――ノエの言わんとしていることはほたるにも分かった。
だが、正当防衛とはなんだろうか。何度も聞いたことがあるし、創作物の中ではそれで罪を免れる人も見たことがある。彼らは相手が自分を殺そうとしたから、身を守った。だから罪にはならない。なんとなくそういうものだと思っていたが、いざ自分の身に降りかかると全く違うものに感じられる。
確かに罪には問われないのかもしれない。けれど、やったことには変わりない。人を殺めているのに、それが誰にも罰せられず、あまつさえ正当な行動だったと言われるのは、何とも言い難い気持ち悪さがある。
やってしまったことへの罪悪感だとか、恐怖だとか、そういうものを置き去りにされてしまうような――ほたるが考え込んでいると、ノエが「それから、俺もごめんね」ともう一度頬に触れてきた。
「なんで……? ノエは、何も悪いこと……」
「すぐに探しに行けなかったでしょ。話してた奴らにほたるのこと気付かれたくなかったからなんだけど、こんなことになるならそんなの気にせず追いかければよかった。怖い思いたくさんさせちゃってごめんね。それに、怪我も」
頬に触れていたノエの手が離れて、ほたるの右腕を持ち上げる。軽く痛みが走ったそこには包帯が巻かれており、ほたるはその下の状態を思い出した。
「これ……」
「そんなに深くなかったよ。今のほたるの身体なら、あんまり痕は残らないと思う」
「ノエが、手当てしてくれたの……?」
「他に誰がいるの」
そう言ってノエはおかしそうに笑ったが、その瞬間、ほたるはバッと手を引っ込めた。
「ほたる?」
突然の行動にノエが眉をひそめる。「痛かった?」心配そうに聞いてくる彼から目を逸らし、ほたるはふるふると首を振った。
「……もう、手当てしなくていい。今後怪我しても触らないで欲しい。私の血が毒なら、ノエだって……っ」
あんなふうに死んでしまうかもしれない――浮かんだ光景に怖気が走る。何故今まで気付かなかったのかと自分を殴りたくなる。
ノエに自分の手当てなどさせてはいけないのだ。もし仮にこの血が彼の体内に入ってしまえば、彼もまた死んでしまう。自分を殺そうとしたわけではなく、それどころか助けようとしてくれただけなのに、そんな人を死なせてしまうかもしれない。
それだけは駄目だとほたるがノエから身体を離そうとすれば、ノエは「大丈夫だよ」と言ってほたるを引き止めた。
「ッ、大丈夫じゃない! ノエが死んだらどうするの!? 私の怪我なんて放っといても治るんだから、ノエが危険を冒してまで手当てすることない!!」
「でも治療放棄して、ほたるの血をそこらへんにばら撒かれる方が俺には危ないと思わない?」
「ぁ……」
それもそうだ、とほたるの勢いが萎む。だが、どうすればいいのだろう。治療のために触らせたくないのに、そうしないと余計に危ない状況を作ってしまう。
「手当ては気を付ければ平気だから」
そんなふうに言われてしまえば、もうほたるには何も言い返すことはできなかった。
「傍にいたら怪我させないって言ったのに、守れなくてごめんね」
眉をハの字にして、ノエがほたるの目を覗き込む。
「謝らないでよ……ノエのせいじゃない。私が勝手に遠くに行っちゃって……それで……私が……」
「〝私〟?」
「種子、が……わざと怪我して……」
ほたるが言い直せば、ノエは満足そうに「そうだね」とほたるの頭を撫でた。しかしすぐにその手を止めて、ほたるの前髪を指先で払う。その仕草になんとなくノエの方を見ろと言われている気がしてほたるが顔を上げると、真剣な面持ちのノエと目が合った。
「ほたる、改めて約束させてもらえない?」
「約束……?」
「うん。今まではほたるのこと死なせないって言ってたけど、それじゃ足りなかったなって」
いつになく真面目な、深刻そうとも取れるノエの雰囲気に、ほたるの喉がコクリと鳴る。何を言われるのだろう。何か恐ろしいことなんじゃ――知らず知らずのうちに力が入って、ノエから目を離せない。
いつもであればそんなほたるの緊張を解すような態度を取るノエは、今回は何もしなかった。それまでと同じ真剣な顔のままほたるを見つめて、膝に置いた彼女の手を握り締める。
「もう、ほたるのこと一人にしない。一緒にいる限り絶対に怪我させない。約束する」
それは、ほたるの恐れていたものとは真逆の言葉だった。内容ではない。最後の一言が、ほたるを安心させる。
けれど同時に、苦しくなった。
「そんな約束していいの? だってノエは……」
「約束が守れなくなる命令をされる時もある?」
「それは……大丈夫。ノエがいいならいい。でも……ノエは、仕事じゃん。……そんな約束しちゃ駄目だよ」
そう、ノエは仕事で自分に優しくしているだけなのだ。それなのに約束なんてするものではない。人間の自分とは違って、彼にとっての約束は重すぎる。
いつかノエは自分の意思を奪われるかもしれない。その時は約束を破ることになるかもしれない。それをお互いに理解した上での約束は彼を苦しめるだけではないのか。
そんな大事なものを、自分なんかにしてくれていいのか。
「俺がしたいからする。それでも駄目?」
ほたるは何も言えなかった。代わりに溢れたのは涙だ。ノエのこの態度が本心でも、嘘でも、自分が誰かにとってそれだけの価値があると言われているかのような感覚が、ほたるの目から大粒の涙を押し出す。
「泣くほど嫌だった?」
困ったように言うノエに、ほたるは「ちがっ……」と慌てて首を振った。
「嫌じゃ、ない……嫌じゃないの……」
嫌なわけがない。こんなふうに自分を尊重してもらえて、嫌なわけがない。
ほたるの言葉にノエはほっとしたような息を吐くと、「まァちょっと条件付きなんだけどね」と言って眉尻を下げた。
「約束って言ったけど、俺と一緒にいる方が危ない時は別ね。それだけは流石に例外にさせて。その代わり必ず迎えに行くから」
ほたるの両頬に手を添えて、ノエがその顔を上に向かせる。「それでもいい?」少しだけ困ったように笑うノエを見て、ほたるは「うん」とぎこちなく頷いた。