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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【前篇】第五章 無自覚の操り人形
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〈17-5〉飲んで

 ノエとはぐれたほたるは、ただただ人に流されることしかできなかった。

 助けを求めたい。ノエの元に戻りたい。しかしろくに足もつかないせいで転ばないようにするのがやっと。更に手ではマントのフードを押さえている。それから、口も。時折出そうになる悲鳴は日本語だから、自分の正体を知られないように必死に押し留める。手も足も使えなければ、ほたるにはどうすることもできるはずがなかった。


 押し潰されるように流されていけば、やがて人の波の端が見えた。あそこに出るしかないともがき、進む。邪魔になるからか、罵倒するような声が聞こえることもあったが、しかし人が多すぎるせいでほたるが妨げになっているとはっきりとは分からないらしい。誰に向けるでもない悪態や罵声に怯えながら、ほたるはどうにか人の波から這い出すことができた。


 そこは大通りの隅。壁にへばりついていなければ、人々と肩がぶつかってしまうくらいの空間。また巻き込まれたらたまらないと、ほたるは壁に這いつくばるようにして広い空間を目指した。でこぼこした壁が当たって痛かったが、それでもどうにか進んでいけば、建物の端に辿り着いた。思わず身を滑り込ませたのは隣の建物との隙間。人一人がやっと通れるくらいの狭い小路だ。


 その小路に立って、混雑を見つめる。ノエの姿を探す。しかし目の前の動く壁はほたるの背丈を優に超えていて、遠くまで見通すことができない。

 ほたるにとってノエは長身だったが、こうして見てみるとそこまででもないのだと気が付いた。身体の大きい外国人の中では、ノエの身長は恐らく平均より少し高いくらいなのだろう。あの目立つ髪色は、今日は隠してしまっていたから見つけられる気がしなかった。


 どうしよう、宿に戻る? それともここで待とうか――不安の中で考える。だがすぐに宿に戻るという案は消えた。部屋の鍵を持っていないからだ。受付に言えばスペアを出してもらえるかもしれないが、あの宿の受付にいるのは従属種を嫌っていそうな者ばかり。言葉も話せないのにそんな相手とコミュニケーションが取れるとは思えない。

 だから、ここで待つしかない。そう思ってほたるは人混みを見続けた。早くノエを見つけたい。こんな見知らぬ人ばかりの場所で待っているのは恐ろしい。


 そんな時だった。ほたるは人混みの中から、自分に向けられる視線があることに気が付いた。


「っ……!」


 目が合った瞬間、ほたるの全身に怖気が走った。相手の好機の眼差しの中に、ほんの少しの狂気を見た気がしたから。


 その人物はスーツのような、綺麗な身なりをしていた。だから恐らく、吸血鬼。しかしその目つきはほたるに絡みつくようにねっとりしていて居心地が悪い。


 自分が従属種の匂いをさせているからだろうか。それとも人間だとバレた?


 考えるだけで恐ろしかった。従属種だと思われていれば罵倒されるだけで済むかもしれないが、人間だと気付かれているなら何をされるか分からない。


 それどころか、もしスヴァインの関係者だとバレていたら? ――そんなことは有り得ないと、考えることはできなかった。


 相手が人混みから、こちらに向かってこようとするのが見えたから。


「ッ――――」


 気付いた時にはもう、ほたるは相手に背を向けて走り出していた。人混みから離れ、狭い小路をひとけのない方へ。

 ノエから離れてしまうだとか、一人の方が危ないだとか、そんなことは考えていられなかった。とにかく恐ろしくて、逃げなければと本能が叫ぶせいで身体が勝手に動くのだ。


 走って。走って走って走って。


 ほたるが足を止めたのは、道が行き止まりになってしまったから。


「はっ……はぁっ……はぁっ……」


 荒い呼吸が袋小路に響く。キョロキョロと辺りを見渡すも、通れそうな道はない。ここは建物同士でできた少し広めの隙間。道になっているのはこれまで走ってきたものだけで、他は建物の壁をよじ登りでもしなければ進める方向はない。

 そこでやっと、ほたるも冷静さを取り戻した。衝動に突き動かされるままここまで走ってきた。例えば水の中で呼吸が苦しくなった時、ひたすら水面を目指すように。そこに自分の思考が入り込む余地はなく、生存本能のままに安全を求めてここまで走ってきた。


 なんて馬鹿なことをしてしまったのかと、思う。ノエから離れすぎてしまったことも、全く知らない場所にいることも。

 早く戻ろう――今度は別の不安を感じて来た道を振り返ったが、その瞬間、ほたるの足が止まった。


▓▓▓▓▓▓(やはり親なしか)


 そこにいたのは、人混みの中で見たあの男。くすんだ色のスーツにマントのような外套を羽織った男が、ほたるの来た道を塞ぐようにして立っていた。


「ッ!?」


 驚きで身体が竦む。

 なんで、どうして――疑問は浮かぶが、言葉にすることができない。日本語を話せないこともそうだが、疑問がいくつもあるせいで頭がまとまらないのだ。


 男は自分を追いかけてきたのだろうか。

 もしそうなら、何故追いかけてきたのか。

 男は自分のことを何だと思っていて、どこまで知っているのか。


 分からない。けれど考えなければならない。何故なら男の笑みは、善意のそれではない。


▓▓▓▓▓▓▓▓(捨てられたんだろう)? ▓▓▓▓▓▓▓(だから一人だった)▓▓▓(違うか)?」


 愉しそうに。嘲笑するように。

 見ているだけでぞわぞわと不快感が肌の下を蠢くのは、一体どうしてだろうか。


▓▓▓▓▓▓▓▓(私が飼ってやろうか)? ▓▓▓▓▓▓▓▓(若い女なら血も美味い)▓▓▓▓▓▓▓▓(それ以外にも楽しめる)


 下卑た笑みだった。その顔が、感情が、ほたるの全身を粟立たせる。


 この人は駄目だ。近くにいてはいけない。悪意なのか、それとも全く違う何かなのか。男を見ているだけで腹の底から嫌悪感が湧き上がって、ほたるの頭の中にけたたましい警鐘を鳴り響かせる。


▓▓(ほら)▓▓▓▓(おいで)


 男がほたるに手を伸ばす。「やっ……!」ほたるが咄嗟に避ければ、男が「▓▓▓(このっ)……!!」と目を吊り上げた。


()っ!?」


 男の手がほたるのフードを乱暴に掴む。ベルベットの生地と一緒に長い髪も引っ張られて、逃げようとしていたほたるは思わず動きを止めた。


 けれど、男は力を緩めない。


 頭皮が引き攣る。このまま骨から剥がされてしまうのではと不安になるくらいに強い力で引っ張られる。やめてくれと叫びたいのに、言葉を使えないせいで男の手からフードを守ることしかできない。これ以上引っ張られないように両手で布を頭に押さえつけ、男の力の方向に合わせて身体の向きを変える。


 痛みから逃れるための当然の行動。……だが、それがいけなかった。


「ぁ……」


 ほたるの身体が相手と向かい合う。そうして目に入ったのは男の顔。その中心より少し上にある、紫色の双眸。そこに美しさはない。こちらへの害意だけが、はっきりと。


 ざわざわする。心よりももっと奥。思考の中心から何かが来る感覚がする。


 ――壊せ


 声が、頭の中心から。低いその声には聞き覚えがある。聞いているだけで心が掻き乱されそうになるその声は。


 ――俺以外に殺されるな


 ほたるから、思考を奪った。


「っ、と……さ……」


 うわ言のように口を動かせば、それを最後にほたるは自由を失った。身体が焼けるように熱くなって、視界が紫色に塗り替わる。まるで白黒映画でも見ているかのような距離感が、視覚と意識の間に横たわる。

 いや、視覚だけではない。音も遠かった。衣服の触れる皮膚の感触も、何もかも。自分の意識がそこから切り離されてしまったかのように、遠く朧げになっていく。


▓▓()……▓▓▓▓▓▓(なんで従属種が)……!?」


 男が顔を驚愕に染める。次に浮かんだのは、怯え。いつか見た従属種の男のように手には長く鋭い爪を、口元には牙を剥き出しにして、必死に威嚇する小動物のように男はほたるに襲いかかった。


 けれど、当たらない。ほたるが避けたからだ。


▓▓▓(クソッ)! ▓▓▓(なんで)……!!」


 男がもう一度爪を振るう。しかし今度はほたるは避けなかった。代わりに右腕を上げて、どうぞここを切れとばかりに前へと伸ばす。


 ザッ……――ほたるの右腕に男の爪が走る。伝わった衝撃にほたるは僅かに体勢を崩したが、すぐにまた動き出した。


「ガッ!?」


 男の口に右腕を突っ込む。想定外の攻撃に狼狽する男に一切構うことなく、傷口が相手の口の中に入るようにぐいと押し込む。


「飲んで」


 男は拒むも、既に流れていた血は止まらない。どくどくどくどく溢れ出して、男の口の中へと流れ込んでいく。


「アァアァアアァアア!?」


 男は悲鳴のような雄叫びを上げると、ほたるの身体をドンッと押し飛ばした。強い力はいとも簡単にほたるを地面に放り出し、土埃を巻き上げる。ほたるがゆっくりと身体を上げるも、その間に男からの追撃はなかった。


 男は苦しんでいた。喉を押さえ、叫び、苦悶に顔を歪めている。

 だがそれも、束の間のこと。男の全身はすぐに真っ黒に染まり上がり、そして……消えた。


「…………」


 その消失を、死を、紫色の瞳が映す。しかし数秒程度でその紫は引いていって、ほたるの瞳は元の黒に戻った。


「……(いた)


 右腕の痛みがほたるの意識を引き戻す。思わず傷口を押さえれば余計に痛みが走る。


 この怪我はなんだ? 一体いつの間に? ――考えれば、記憶を辿るまでもなく実感がほたるを襲った。


「え……?」


 周りに漂う黒い残滓。その意味を、自分は知っている。


 思い出すのはこれまでの行動。男に襲われ、その紫眼を見て――男を、壊そうとした。わざと負った傷口を男の口に突っ込んで、無理矢理この毒血を飲み込ませて。


 自分は故意に、男を殺したのだ。


(ちが)っ……わた、私じゃ……!!」


 いいやお前だと、耳奥で誰かが囁く。


「ちが、違う!! 違う……違う……」


 違わない。あの男を殺したのは――私だ。


「ッ、嫌ぁああああああああ!!」


 叫んでも消えない右腕の痛みが、生々しくほたるに自らの所業を語りかけてくる。自分じゃない。そんなことは知らないと叫びたいのに、はっきりと記憶に残ってしまっているせいで現実が全身に絡みついてくる。


 なんてことをしてしまったのだろう。なんでこんなことをしてしまったのだろう。逃げられればそれで良かったのに、どうして。


 ほたるの叫び声は建物に反響し、逃がしたはずの感情が再びほたるの元へと帰ってくる。何度も、何度も。いくら吐き出しても全身にその感情が纏わりついて、ほたるから冷静さをどんどん奪っていく。


「――ほたる!」


 ノエがほたるの元に辿り着いたのは、そんな時だった。

 一瞬のうちに状況を理解して、ノエが苦しげに眉根を寄せる。その間もほたるの喉からは悲鳴のような叫びが溢れ続けていた。

 絶え間なく涙が流れる目は何も映していない。ノエの存在にすら気付いていない。両手で強く耳を塞ぎ、ひたすら現実を拒み続けているほたるに、ノエの声は届かない。


「ほたる!」


 ノエがその両方を掴んで揺すっても、ほたるがノエを見ることはなかった。


「ほたる、しっかりしろ! もう大丈夫だから!」


 力強く抱き締めてもほたるの状況は変わらない。まるで壊れてしまいそうなほたるの姿に、ノエは険しい表情を浮かべた。


「……ごめん」


 小さくそう謝って。その頼りない腹に拳を叩き込めば、やっと悲鳴は止まった。

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