〈16-3〉なんでそんな嫌そうなの
扉の向こうは通路になっていた。通路といっても普通の通路ではない。牢屋のように石でできた、洞窟のような通路だ。
ここはなんだろう――疑問に思っても、ほたるに声を出すことはできない。まだノエの許可がない。周りにひとけはないが、吸血鬼の五感は人間より優れている。ならばその吸血鬼であるノエが問題ないと判断しなければ、周囲に人がいる可能性があるのだ。
閉塞感のある通路を、ノエに連れられゆっくりと進んでいく。通路には時折ドアがあった。見るからに分厚そうな木製のドアだ。
それを何個か過ぎて、何度か曲がって。そうしてあるドアの前まで来ると、ノエが鍵を取り出した。
カチャリと鍵が開く。ノエが押せば、ドアが開く。想像どおりの分厚いドアに、果たして自分はこれを押せるのだろうか、とほたるの胸に不安が過る。
けれどその不安は長くは続かなかった。ドアの先が見えたからだ。明かりがなくて暗いが、廊下の照明の光がほんのりと中にあるものを映し出していた。
ソファに、テーブル。まるで客室のようだと思いながらほたるがそこに足を踏み入れる。後ろでバタンとドアが閉まれば暗闇に包まれたが、すぐにノエが近くの蝋燭に火を付けた。
「明かり付けちゃうからちょっと待ってね」
日本語だ。ほたるはノエの言葉に目を瞬かせたが、すぐに日本語で問い返す勇気はなかった。単にノエが間違えただけかもしれない。ノエ一人なら誤魔化せても、自分まで日本語を使ったら誤魔化しが効かなくなるかもしれない。
そう思いながらノエの行動を目で追い続ければ、彼が動くごとに部屋の中が明るくなっていった。そうして一通りの蝋燭に火が灯されれば部屋はほたるにも見慣れた明るさになって、ノエはテーブルに荷物を置きながらドアの前で固まるほたるに顔を向けた。
「もう喋って大丈夫だよ。ここの音は外に漏れない」
言いながらノエが紙袋の中を漁る。小さな紙袋を出して隅に寄せ、その後で取り出したのはほたるが最初に欲しいと言ったワッフルのようなものだ。それを持ってソファの方へと歩いていく彼に、「ここ、何?」とほたるが尋ねる。するとノエは「宿だよ」と答えて、ソファに腰を下ろした。
「戦争の頃の名残でね、俺らがドアにへばりついても聞き取れないほど防音が効いてる。だからこの中にいる間は好きに喋ってくれて大丈夫」
そう言うとノエはぽんぽんと自分の隣の席を叩いた。ここに座れという意味だと理解して、ほたるも腰掛ける。こんなに近くに座るのは少し気が引けたが、この一脚しかないのだから仕方がない。
「あ、ちなみに俺と同室ね。ベッド二個あるのはさっき見たから、安全のために我慢して」
「……それは別にいいけど」
ほたるが答えれば、ノエは「はい、これ」と持っていたワッフルを手渡した。
「疲れたでしょ? 今日はもう外出ないから好きに過ごしな。水はそこに置いてあるやつがいくらでも飲めるし、食べ物もいっぱいあるから好きなだけどうぞ」
「ノエは?」
「俺はあとで食うよ」
また後か、とほたるは受け取ったワッフルに齧り付いた。中にはハムと野菜が入っていて、さわやかなソースがよく合う。「水飲む?」尋ねてきたノエに「後でいい」と首を振ると、これを買った時のことを思い出した。
「さっきの、ごはん屋さんの人は友達? なんか仲良さそうだったけど」
「顔見知りってだけかな。でもあんま従属種のこと嫌ってない珍しい奴だから、ここにいる間はあそこで食糧調達することになると思う」
なるほど、彼は従属種に悪意を持っていないらしい。それは大歓迎だとほたるは喜びかけたが、ふと店内でのことが頭を過った。
「……毎回くっつくの?」
あの店内でノエはほたるを恋人のように扱った。嫌悪感はないが、異性とやたらめったら触れ合うのは気が進まない。そう思ってほたるが眉間に皺を寄せれば、ノエが「やっぱ嫌だった?」と苦笑をこぼした。
「ごめんね。俺の遊び相手って思われてた方が都合良いんだよ。それにくっついとけば俺の匂いも移るから」
「え」
ほたるの顔が険しくなる。ノエの遊び相手と思われることはまだいい。気乗りはしないが、その方が安全を確保しやすいというのなら仕方がない。
しかし、後半の話が良くなかった。
「なんでそんな嫌そうなの」
「だって……なんかやだ」
スンスン、と自分の腕の匂いを嗅ぐ。今のところまだ大丈夫そうだと安堵すると、「悪いことじゃないよ」とノエが不貞腐れるように言った。
「俺より序列低い奴は寄って来づらくなる素晴らしい匂いなんだから」
「でもただの体臭でしょ」
「体臭ってほどの匂いじゃないよ。ていうかそれだって前に臭くないって言ってたじゃん」
「臭くないけど他人の体臭つくとか嫌だ」
「残念でしたー。もうとっくにほたるには俺の匂い移ってますー」
「嘘……お風呂で落ちるかな」
気付かなかった、ともう一度嗅ぐ。しかし分からない。これは人間には判別できないものなのかとほたるが顔をしかめると、ノエが「落ちたらまた付けるに決まってんじゃん」と口を尖らせた。
「え……なんかばっちぃ」
「ばっ……!?」
あ、初めて見る顔だ――目の前のノエの表情にほたるの溜飲が下がる。しかめっ面のような、衝撃を受けたような顔は、いつもへらへらしているノエには無縁なものだ。
それがなんとなく楽しくて、ほたるはまあいいか、と匂いのことを忘れると、ずっと着たままだったマントに目をやった。
「そういえばこのマントってどうしたの? ていうかこれ屋内では脱ぐべきだよね?」
「寒かったら着てればいいんじゃない? コートと一緒だよ」
「じゃあ脱ぐ」
コートならば屋内では脱がねば、とマントの紐に手を伸ばす。それを脱いでいる途中でそういえばワッフルはどこだろうと気になって見てみれば、ノエの手の中にあった。
いつの間に? ――マントを脱ぎ始める前までは持っていたぞと考えて、脱ぐと決めた時にさり気なく引き取られたのだと気が付いた。
またやられた。本当にこういうところが憎たらしい。ほたるが酸っぱい顔をしていると、「それもペイズリーが買ってきたやつだよ」とノエが質問に答え始めた。
「他の服と雰囲気合ってるでしょ? これだけ先にもらっといたんだよね」
「なんで?」
マントを畳み終え、ノエを見る。
「だって選ぶ必要ないしさ。それにうっかり忘れたら困るなァと思って」
「ノエってうっかり忘れを気を付けようと思えるんだ……」
「なんか急に言うようになったね」
「……ごめん」
「いいよ、遠慮するなって言ったの俺だし。そうやって口に出してもらった方がほたるにとって何が嫌なことかよく分かるから」
柔らかく笑いながらノエがほたるの頭に手を伸ばす。撫でられる――そう気付いても、ほたるはそのまま動かずにいた。
なんとなくノエのこの行動はリリに対するものと近い気がする。子供扱いは嫌だが、ノエにとって自分は子供だ。何百年も年齢差があると知っているから怒る気にもなれず、しかも妙に落ち着いてしまうものだから余計にやめてくれとも言いづらい。
ノエの手は三回ほどゆっくりとほたるの頭を撫で付けると、「あ、待って」という声と共に離れていった。
「今の良くない。今のだとほたるが俺の匂い大嫌いって話になるよね? ちょっとやり直そう」
「過去の発言は取り消せないよ」
至極真剣な顔で何を言っているのか。ほたるが呆れながら見ていると、ノエは「まァまァ」と言って姿勢を正した。
「えーっと……『遠慮するなって言ったの俺だし、そうやってずけずけ言ってくれた方が仲良くなれた感あって楽しいよ』」
「なんで強硬できると思ったの?」
ほたるが問えば、ノエは「言ったもん勝ちだよ」と得意げな顔をした。