〈16-2〉どれがいい?
街に着いた頃にはもう、空は赤から青に変わっていた。青い月明かりに照らされた街はほたるが想像していたよりもずっと大きく、映画で見るような石造りの路面や建物が立ち並んでいる。街灯はこれまで見た建物の中と同じく赤くゆらめく炎の明かり。見慣れない構造の建物とその明かりで、街は幻想的な雰囲気を放っていた。
道を歩く人は、少ない。けれどあまり現代的な服装をしている人はいないように見える。そこまで現代の服装とかけ離れているわけではないのに、どことなく異国情緒が漂うのは使われている素材の違いだろうか。ほたるは不思議に思ったが、もう聞くことはできなかった。ここから先はノエが指示するまで日本語を使ってはいけないと言われているからだ。
馬車を降り、街の中に入り、少し歩いたところでノエがほたるの方を見た。
「《ご飯買おうか》」
かけられた言葉を理解して、ほたるがこくりと頷く。吸血鬼達の言語だったが、ここに来るまでにノエにいくつか教えられたのだ。主にノエが今後よく言うであろうフレーズが中心だったから会話はできないが、全く意思疎通ができないよりはずっといい。
ノエに手を引かれながら、見知らぬ街の中を歩く。この数時間ですっかり手を繋ぐことが当たり前になってしまった。気恥ずかしさを感じないのは、最初が恐怖を和らげるためだったからだろうか。その後も馬車を借りる時に手を繋いだから、安全のための行為という認識が強いのかもしれない。
街の中では、意外とほたる達に注目する者はいなかった。時折ちらりと見られるが、距離が遠いからか、それとも関わることがないと分かっているからか、みな素通りしていく。
そのことにほたるが安堵していると、どこからか良い匂いが漂ってきた。視線を上げてその出処を探す。するとすぐそこに飲食店のような見た目の建物を見つけて、自然とほたるの目がそこに吸い寄せられた。
「《ちょっとごめんね》」
店に入ろうとした直前だった。ノエが繋いでいた手を離し、その手でほたるの肩を抱き寄せた。
「っ!?」
突然の出来事に悲鳴を上げそうになって、しかしどうにか堪える。「▓▓▓▓▓▓▓」言われた言葉は知らない単語で意味が分からなかったが、少し困ったようなノエの表情でほたるはそれが必要な行動なのだと悟った。
まるで恋人のようにノエに肩を抱かれたまま店の中に入る。すると目に飛び込んできたのはガラスケースに陳列された美味しそうな軽食の数々だった。サンドイッチのように食べ歩きができるものから、量り売りらしき惣菜まで。ほたるがほう、と眺めていると、ノエが「《どれがいい?》」と聞いてきた。
この言葉は分かる。馬車で教えたもらったものだ――習ったものが実際に使えると嬉しくなって、ほたるの頬が緩む。そしてガラスケースの中をもう一度確認すると、「《これ》」とワッフルのようなものを指差した。
「《他は?》」
「《……これ?》」
「《他には?》」
「…………」
終わらない問いに、ほたるの顔がしゅわ、と歪む。そんなに選ばなければならないのかという気持ちと、それを口に出したいのに言葉が分からないもどかしさ。思わず情けない顔のままノエを見上げれば、ノエは「《ごめんごめん》」とおかしそうに笑った。
「▓▓▓▓▓▓?」
それは店の奥からの声だった。ほたるが思わず身を強張らせれば、ノエがぐいとその肩を抱き寄せた。
「▓▓▓▓▓▓? ▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓」
軽い調子でノエが声に返す。すると奥から一人の男が出てきて、ほたるを見て納得したように頷いた。
けれど、悪意のようなものは感じない。男と話すノエもいつもどおりだ。もしやこの男とノエは知り合いなのだろうか――ほたるが考えていると、ノエが男と話しながらガラスケースの中を指差した。ほたるが先程選んだ品だ。それ以外にもいくつか注文すると、ノエは見せびらかすようにほたるを抱き寄せた。
「わっ……!?」
うっかり日本語で驚きそうになって、慌てて口を噤む。そうしている間にもノエはほたるを後ろから抱き竦めて、「▓▓▓▓▓▓?」と男に言いながらマントに覆われた頭に頬ずりした。
「▓▓▓▓▓▓▓」
男が呆れたようにノエに返す。何を話しているのか全く分からないはずなのに、ほたるは何となく状況を把握し始めていた。
恐らくノエは、自分を恋人か何かとして相手に紹介しているのだ。いや、正式な交際はしないとのことだから遊び相手としてか。そして男はノエのその習性を知っていて、彼の行動に呆れ果てている――そこまで考えると、ほたるもまた呆れを感じた。周囲にまでそう思われるとは、ノエは普段どれだけ遊んでいるのか。
しかし今はそのお陰で悪意を向けられずに済んでいるのかと思うとそれもなんだか面白くなくて、ほたるはノエ達の楽しそうな会話を意識の外に追い出した。
「《――行こうか》」
荷物を肩にかけた方の手に食べ物の入った紙袋を持って、ノエがほたるの肩を抱いたまま外へと促す。外へと出たらその手は外れるかと思いきや、なかなかノエが肩から手を離さないためほたるは怪訝な顔で隣を見上げた。
けれど、返ってきたのはにっこりとした綺麗な笑顔。その顔の意味するところが分からなかったほたるは眉をひそめると、後で聞こう、と顔を前へと戻した。
§ § §
しばし街の中を歩き、ノエが向かったのは別の建物だった。中に入ってもほたるにはそれが何のための施設かは分からなかった。何の商品も置かれていないからだ。
あるのはカウンターと、その近くに扉だけ。カウンターの奥にいた男はノエを見て愛想良く笑ったが、しかしほたるに気付くと同時にその目に軽蔑を浮かべた。
どうやら彼は従属種が嫌いらしい。相手の反応にそれを理解すると、ほたるはノエに肩を抱かれたまま、そっと身体をノエの方へと寄せた。元々くっついていたが、更に押し付けるような形だ。その小さな衝撃に気付いたノエは安心させるようにほたるの肩を抱く手に力を込めると、カウンターの男と会話をし始めた。
「▓▓▓。▓▓▓▓▓▓▓▓▓」
「▓▓▓▓▓▓▓▓」
彼らの話の内容は、分からない。ほたるに分かる単語が一つもない。それが余計にほたるを不安にさせた。こんな短時間で言葉を覚えられるとは思っていないが、自分に悪意を抱いている人物が何と言っているのか分からないのは恐ろしい。
それでもほたるが震えずにいられたのは、ノエが近くにいるからだ。恐怖に苛まれ布団をかぶった時のように、背後が恐ろしくて背中を壁に付けた時のように、ノエにくっついていると怖くても大丈夫だと思うことができる。彼を信用しないようにしていることを考えると良くないことだと思うものの、この安心感を失うことの方が恐ろしい。
そうしてほたるがひたすら考え事で気を紛らわしていると、ノエが動き出すのを感じた。肩にかかる力に身を委ねて、奥の扉へと向かう。この先に何があるのだろうか。一体どこへ行こうというのか。
抱いた不安を誤魔化すように、ほたるはノエの服を指先できゅっと掴んだ。