〈15-3〉可愛い可愛い
自分の部屋に戻って荷物をまとめた後、ほたるは全身鏡の前に立っていた。これまで着ていた洋服とは違い、ペイズリーが用意したのは中世的な雰囲気のある服だ。
ふんわりとしたシルエットのワンピースに、腰には革のコルセット。紐ではなく縦に三つ並んだベルトで締めるタイプのもので、コルセットに不慣れなほたるでも扱いやすい。それから足元は膝下までのブーツ。こちらも革製で、コルセットに合わせているのかベルトの多いデザインだ。更にワンピースの下には可愛らしいレースのあしらわれたペチコートも履いているため、機動性も申し分ない。
試しに鏡の前でくるりと回れば、ワンピースのスカートがふわりと靡いた。ペチコートはそれだけで履いていてもおかしくないデザインだから、ちらりと見えるのも楽しくてその場で何度もくるくると回ってしまう。
そうして少し目が回ってきたところで、コンコンコン、とリズミカルなノックが聞こえてきた。
「はーい」
返事をすれば、ドアが開く。「機嫌良いね」そう言って笑ったのはノエだ。それも、いつもとは違う服装の。
ゆったりとした長袖のシャツに、同じくゆったりとしたシルエットのパンツ。裾はブーツの中に入れられており、普段のジャケット姿から一変、かなりカジュアルな装いだ。首元にはストールのようなものも巻かれていて、それらの素材感や色合いが、ほたるのそれと同様に中世的な雰囲気を放っている。
見慣れない姿だが、よく似合っていた。というより、見慣れないせいで落ち着かない。ほたるはそんなノエの姿と、新しい服に浮かれていた自分を思うと急に恥ずかしくなって、「だって服が可愛くて……」と口をもごもごとさせた。
「うん、よく似合ってる。可愛いよ」
「っ……」
甘ったるい笑みでノエが言う。その表情と歯の浮くような台詞にほたるは思わず頬を赤らめると、「そういうところが女癖悪いって言われるんだと思う」とジト目でノエを睨みつけた。
「そう? でも実際に可愛いんだから別にいいじゃん」
「ッ、だからそういうとこ!」
「照れてるの? 可愛いねェ」
「もう!!」
これは分かって言っている、とほたるの眉にうんと力が入る。その証拠に最初こそきょとんとしていたノエはすっかりニンマリと笑っているし、「可愛い可愛い」とからかうように連呼してもいる。
その様子にほたるがもう一度「しつこい!」と声を荒らげると、ノエは「ごめんごめん」と両手を上げた。
「さて、ほたる。そろそろ出れる?」
問われて、ほたるは素直に頷いた。何故ならペイズリーの部屋から戻る時に迎えに来たノエに言われていたからだ。
荷物をまとめ終わり次第、この城を出ると。行き先は分からないが、目的は知っている。スヴァインを探しに行くのだ。
いよいよだ――ほたるが居住まいを正せば、彼女の前まで歩いてきたノエが「はい」と左手を差し出した。
「これが匂い玉ね。ラミア様から預かってきた」
そこには小さな麻袋があった。本当に小さな袋で、硬貨しか入らなそうな大きさだ。真ん中がぷっくりと膨らんでいるのは中に入っているものの形のせいだろう。その麻袋の口からは長い紐が出ていて、ほたるは首にかけて使うのだろうなと想像した。
「……開けた方がいい?」
匂い玉は他人の血液を使って作る。事前に聞いていた情報が、ほたるにそれを受け取ることを躊躇わせる。
「どちらでも。ガラス玉みたいな見た目だから怖くないよ」
「本当……?」
「うん」
ノエがそう優しく笑うものだから、ほたるの恐怖が少し和らいだ。ノエの手から麻袋を受け取り、口から伸びた紐を持つ。そしてそっと袋を取り外せば、中からはノエが言ったとおり、赤いガラス玉のようなものが現れた。
「綺麗……」
色は、透き通っている。血液ほど暗い赤ではなく、グラスに注いだクランベリージュースのようだ。
試しに匂いを嗅いでみれば、少しだけ鉄っぽい匂いがした。それから、人のような匂いも。しかし不快な匂いではないし、強さも気になるほどではない。
「これだけで誤魔化せるの?」
確か匂い玉は人間の匂いを誤魔化すためのものだったはずだ。それにしては弱すぎる匂いにほたるが首を傾げれば、ノエは「結構いけるよ」と頷いた。
「俺も目を閉じてたらマヤが近くにいるのかなと思うし」
「でも私の匂いは?」
「混ざっちゃうから普通は分からなくなるよ。俺はほら、完全に覚えちゃってるから」
だからマヤが近くにいるとしか思わない。ノエの言いたいことは分かったが、ほたるの頭には全く別のことが浮かんだ。
「なんかノエ、犬みたい」
「ワンって言った方がいい?」
「やだよやめてよ。なんか嫌だ」
「そんな本気で嫌がらなくても……」
本気で嫌がらなければやるだろう――そんな気持ちを込めて、ほたるがノエに疑うような目を向ける。するとノエは肩を竦めて、「まァいいや」とほたるの手から匂い玉を取った。
「こうやって首から下げて、この城出た後は常に身に付けといてね。風呂は別に外してもいいんだけど、付け忘れだけは気を付けるように」
言いながらノエが匂い玉の紐をほたるの頭に通す。「後は自分で調整してね」その言葉に従ってほたるが紐の下に来ていた髪を払って位置を調整すれば、赤い玉はほたるの胸の間にすっぽりと収まって見えなくなった。胸元に少し違和感があるが、匂い玉を持っていると分かりにくい方がいいだろう。
「あとは俺が合図したら喋るのをやめること。日本語で喋ってるってだけで、あの裁判を知ってる奴がほたるのことに勘付くかもしれない。不便だからこっちの言葉はちょくちょく教えるよ」
「分かった」
こくりと頷き、そういう危険もあるのか、と身を引き締める。ノエを始めとして出会う人々がみんな日本語を話しているから忘れがちだが、この世界では別の言語が使われているのだ。
英語ですら危ういのに、全く親しみのない言葉を覚えられるだろうか――不安に思ったが、こればかりは気にしてもどうしようもない、と自分を励ます。
ほたるが意気込んでいると、ノエが部屋の中を歩いていって、ソファに置いてあった荷物を手に取った。
「荷物これだけだよね?」
「うん」
当たり前のようにほたるの荷物を持つノエに、ほたるが慌てて「自分で持つ」と声を上げる。しかし「いーのいーの」と断られてしまえば、それ以上言うことはできない。
後でノエが置いた時に自分で持とうと思いながら、彼の後に付いていく。
ここ数日ですっかり見慣れた廊下を歩き、階段も下り、また廊下を歩くと広いエントランスホールに出た。
ノエが入口の扉横に置いてあったバッグに手を伸ばす。どうやら彼の荷物のようだとほたるが理解した時、「ホタル!」と階段の上から声がかかった。
「リリ!」
そこにいたのはニックに抱えられたリリだった。あの襲撃以来見ていなかった彼女の姿に、ほたるはほっと胸を撫で下ろした。
無事だった。元気そうだ。あの時の記憶が消されたことはあまり良く思っていなかったが、こうして元気な彼女を見るとその気持ちが少しだけ和らぐのを感じる。
「ニッキーが止めてるうちにお別れ言ってあげて。リリに捕まると長いから」
だからリリは階段の上にいるのだろう。ほたるはそう納得すると、とびきりの笑顔を作ってリリを見上げた。
「バイバイ、リリ!」
「マタネ!!」
「ッ!」
日本語だった。ニックに聞いたのだろう、満面の笑みで手を振るリリは日本語で別れを口にした。
「……うん、また!」
リリと同じく笑顔で返す。「行こう、ほたる」ノエが急かすようにほたるの背中を押す。
だから、ほたるが無理して笑顔を作るのは短い時間で済んだ。
「また……」
外に出て、呟く。後ろからは大きな扉が閉まる音がする。
自分に〝また〟はあるのだろうか――リリが何気なく選んだであろうその別れの言葉が、ほたるの顔を強張らせる。
「家に帰る前に寄ろうか」
いつもよりも優しいノエの声は、彼がほたるの不安に気付いていることを表していた。
だから急いで外に出してくれたのだ。お陰でリリには最後まで笑顔を向けていられた。怖がる姿を見せずに済んだ。
けれどまだ、不安は消えない。
「……寄れるかな」
目の前の森を見ながら、思う。来た時も霧に包まれていたが、今の方がその霧はより濃くなっていた。
先の見えない道に進まなければならない。ここから先に進んだら、二度とここには戻って来られないかもしれない。
いくら帰りに寄ろうと約束したところで、この命が持つ保証はない――ほたるが恐怖に飲み込まれそうになった時、その手に何かが触れた。ノエの手に巻かれた包帯だ。
痛むはずのその手で、ノエがほたるの手をぎゅっと握り締める。
「俺が絶対に死なせないから、何も心配しなくていいよ」
いつになく真剣な顔でノエが言う。その表情が、その言葉が、ほたるの心を楽にする。
「……うん」
返事をしながらそっと手を握り返せば、恐怖がどこかに消えていく気がした。