〈15-2〉誠実ではないかな
翌日の朝食後、ほたるはノエに連れられてペイズリーの部屋に向かっていた。一緒に歩いているのはほたる一人では道が分からないためだ。ノエはほたるを送り届けたら席を外すという。
それをわざわざ最初に言ってきた理由には一つだけ心当たりがあって、ほたるは隣を歩くノエを見上げた。
「ノエってさ、ペイズリーさんと仲悪いよね」
口にしてからこれもノエの内面に関わる話だと気付いたが、もう遅い。ノエが話し渋るようなら中断しようと自分を納得させて答えを待てば、ノエが「んー……」と考えるように唸った。
「仲悪いっていうか、向こうがいつまでもしょうもないこと根に持ってるっていうか」
「何かしたの?」
「結果的にあいつの彼女を寝取っちゃっただけ」
「…………」
聞かなければよかった、とほたるはノエから目を逸らした。不仲の理由としてはそこまで珍しくないのかもしれないが、異性の口からそういう話を聞くのはあまり気が進まない。
しかしノエはそんなほたるの反応を軽蔑に近いものだと捉えたのか、「いや誘われたの俺の方よ?」と弁解するように話し出した。
「それにペイズリーの彼女って知らなかったし。しかもその子、俺と付き合うって勝手に言い出した上にそれをペイズリーに宣言して……で、修羅場よ。なんか倦怠期であいつのこと妬かせたかったらしいんだけど、当時から既に俺はペイズリーに嫌われてたから余計にややこしくなったというか」
だから自分に非はないと言いたいのだろうか。ほたるはノエの意図に気付いたが、同調するのはやめておいた。
「……一応聞くんだけど、なんで嫌われてたの?」
「不誠実だからだって」
「ノエは不誠実なの?」
「誠実ではないかな」
へらへらとしながらノエが答える。微塵も誠実さを感じさせない振る舞いだ。この話題でよくそんな笑い方をしていられるな、とほたるは呆れながらこの場合の不誠実の意味を考えて、「女癖悪いってこと?」と問いかけた。
「それは浮気する奴のことでしょ? 俺は浮気したことないもん。他人の浮気に巻き込まれたことはあるけど」
「なんか凄く嘘臭い」
「本当だよ。誰ともちゃんと付き合ったことないんだから浮気しようがない」
「付き合ったことないの? 何百年も生きてるのに?」
「そういうの苦手なんだよね」
だから正式には交際しない。けれども相手に誘われればその誘いに乗る――ここまでで分かったノエの考え方に、ほたるの顔はうんと渋くなった。
「……不誠実だ」
「あ、そういう解釈?」
へらっとノエが笑う。それがまた一層彼の不誠実さを強調しているような気がしたが、ほたるはもう何も言う気にならなかった。
「けどまァ、ペイズリーも悪い奴ではないよ。単に俺のことが嫌いなだけだから、ほたるは可愛がってもらえると思う」
「自分で言ってて悲しくならない?」
「ちっとも」
「……そう」
ノエは思っていたよりも人でなしなのかもしれない。どことなくそんな考えを抱きながら、ほたるはペイズリーの元へと向かった。
§ § §
ペイズリーの部屋に着き、去っていくノエを見送ってから一時間。ほたるはどっと疲れを感じていた。
「着替えに悩まない方がいいよね。こういうのはどう?」
「えっと……」
「あ、コルセットはこっち。可愛いでしょ」
「……はい」
「これとこれならどっちが好き?」
「そっちの色の方が……」
矢継ぎ早に繰り出される質問。身体に服を当てられ時に着替えを求められ、しかしサイズを見るのだと言われればほたるには断ることもできず、言われるがままこの部屋に着いてからずっと着せ替え人形になっている。
圧倒されながらも、そのうち終わるだろう、と思えたのは最初の二〇分だけ。時折マヤとあれやこれやと話しながら服を用意するペイズリーの勢いは止まることなく、なんだったらどんどん楽しそうになっていくものだから、ほたるは途中で全てを諦めた。
流石に露出度の高い服が出てきたら止めようと思っていたが、その心配はいらなかったらしい。というより、マヤが止めてくれているようだ。ペイズリーが布面積の少ない服を取り出せば渋り顔で首を振り、考えを改めさせてくれている。
そのマヤも楽しそうで二人が揉める雰囲気もないものだから、ほたるはもうなるようになれと思いながらぼうっと現状を受け入れていた。
「――どうしたの? あんまり好みじゃなかった?」
しばらく経って、ペイズリーが不思議そうにほたるに問いかけてきた。横からマヤが何事か言えば、「あ、疲れちゃったの? ごめんね」と眉尻を下げる。本当に申し訳なさそうなその表情にほたるは全く悪意がなかったことを知ると、「ちょっとだけ……」と苦笑を返した。
「あと、服も可愛いです。可愛いんですけど……こんなに?」
ほたるの視線の先にはソファがあった。最初はワインレッドに染められたレザーが見えていたが、今はもうどこにも見えない。ペイズリーとマヤが出した服をそこに掛けていったからだ。
これ全てが新品なのか、それとも二人の私物なのか。どうか後者であれとこっそり願いながらほたるが問えば、ペイズリーが「だって買い物楽しくって」と笑った。
「しかも人の財布だから余計に楽しいじゃない? 人っていうかノストノクスの経費だけど。ま、何にせよもう買っちゃったから嫌いなのだけ避けて全部持ってって」
どうやら全部新品だったらしい。それを知ると、ほたるの頬が引き攣った。
「経費でもこんなに使っちゃいけないんじゃ……こっちのお金のことは分からないですけど、でもそれなりにしたんじゃありません……?」
「ノエが言えば融通効くから大丈夫だよ」
「ノエが? むしろ厳しくされそうですけど」
頭の中にノエを思い浮かべる。へらへらとして大事なことをしょっちゅう伝え忘れる彼は、ノストノクスの長官であるエルシーに以前こっ酷く叱られていた。しかも字が下手だからという理由で公式文書も書くなと言われているという。
どう考えても大目に見てもらえる立場ではないだろう。そう思ってほたるがうんと眉根を寄せると、それを見たペイズリーが「気持ちは分かる」とおかしそうに笑った。
「でもね、ノストノクスの資産はあいつが増やしてるのよ。特に外界の方ね。物資の仕入れでどうしても向こうの通貨が必要なんだけど、あいつお金転がすのだけは誰よりも上手くって。だから経費の面では誰も文句言えないの。あいつが使うより稼いでくる方が圧倒的に多いから」
「お金を転がす……」
「商家の出らしいからそういう才能はあるみたい」
資産運用というやつだろうか。そして商家というのはもしや良い家なのではないだろうか。
知識がなさすぎるせいで、ほたるにはペイズリーの言葉をどこまで鵜呑みにしていいか分からなかった。
「ま、仮に経費で落ちなくてもノエが自分で払うでしょ。あいつお金たくさん持ってるはずだから」
「ならやっぱり遠慮した方が……」
「むしろ思いっきり使ってあいつを破産させてやって欲しい」
「…………」
あ、これが本音だ――妙に圧のあるペイズリーの表情を見て悟る。しかし破産とは如何なものか。いくらノエのことが嫌いとはいえ、そこまで追い詰めてしまうのは流石にやりすぎではないだろうか。
と、ほたるが少し不安になっていると、ペイズリーが「なんてね」と苦笑した。
「現実的に考えたら無理なのは分かってるんだけど」
「そ、そうですよね。破産なんていくらなんでも……」
「島でも買わなきゃ痛手にもならないと思うのよ。だけど島なんていらないでしょ?」
「あ、そっちの無理……」
ほたるはペイズリーの真意が分かったが、同時に島を買わなければ痛手にならない資産とはどのくらいだろう、と気が遠くなるのを感じた。というより、そもそも島の値段が分からない。そんな大金をノエが持っているというのもにわかには信じられず、とりあえず聞き流そう、とほたるは部屋の照明に目を向けた。
天井から吊り下げられているそれはシャンデリアのような形をしている。しかし明かりは電球ではなく大量の蝋燭だ。あれを毎回付けたり消したりするのだろうか。あんな高い場所にどうやって火を灯すのだろうか。
現実逃避するように考えていると、「とにかくほたるが気にすることないよ」というペイズリーの声が聞こえてきた。
「仮に使いすぎたとしたとしても、あいつ絶対ほたるには怒らないだろうから」
笑って、ほたるの目を見つめる。
「あんなふうに言ったけど、故意に傷つけようとするのは完全に敵と見做した相手だけだよ。昔から人間には甘いから、ほたるが敵視されることは有り得ないと思う。だからうっかり惚れないようにだけ気を付ければ大丈夫」
「……確かに甘いですね」
ペイズリーに答えながら、ほたるはノエの言動を思い返した。彼は仕事だから優しくしてくれているだけだが、それにはペイズリーの言うとおり、自分が人間であることも関係しているように思う。
『ほたるのことは俺が絶対に人間として生き続けられるようにする。だから……頼むよ……』
ノエの声が耳の奥に蘇る。彼らしくないその声は、もしや自分が人間であることを望むがゆえのものだったのだろうか――考えかけて、ほたるは慌てて首を振った。
「あ、もしかしてもう惚れちゃった? あんまり人の恋路に口は出したくないけど、あれはやめた方がいい。不誠実を不誠実だと思ってないタイプのクズだから」
ペイズリーはほたるの行動を勘違いしたらしい。ほたるの両肩を優しく掴み、真剣な顔で「あれは若者の恋の相手には向かない」と言い聞かせるように語りかける。ほたるはそんなペイズリーの様子に思わずふふっと笑みをこぼすと、「惚れてないですよ」と軽い調子で返した。
「ただ、不誠実なのは凄く分かるなって。本人にその自覚がないのも」
「そう? ならよかった。もし惚れて困ったら言ってね。取り返しがつかなくなる前に私があいつの去勢してあげる」
「去勢……」
その単語に驚き、次にペイズリーの指の動きに固まる。チョキの形に伸ばした指を動かすその動作は、大事なものを切り落とすかのように見えた。
いやいや、まさかな――少し誇張して言っているだけだろう、と引き攣る頬に力を入れる。
「あ、そんなことより靴! 歩きやすいの選ばないと!」
そうペイズリーは声を上げると、今度は別の袋からいくつものブーツを取り出し始めた。