〈2-2〉それもどうせ嘘なんでしょう?
いよいよほたるは混乱で言葉を失っていた。
自分を誘拐したのはカルト教団で、何かしらの裁判にかけられているというのは受け入れつつあった。信じがたく受け入れがたいが、しかし現状を説明できそうなのがそれくらいしかなかったからだ。
しかしここに来て執行官の男が発した〝吸血鬼〟という単語。吸血鬼が何かくらい、ほたるだって知っている。人の生き血を食らう化け物だ。だが彼らが存在するのは創作物の中だけ。それなのにこうも平然と〝ここにいる全員が吸血鬼〟だなんて言われても、到底信じられるはずがない。
いくら相手がカルト教団でも、流石に一般人が吸血鬼の存在を信じていないことくらいは知っているだろう。にもかかわらず堂々と口にするということは、もはや荒唐無稽な話で自分がどんな反応をするか面白がられているのではとしかほたるには思えなかった。
だからこれは、悪戯なのだ。テレビ局なのか個人の動画配信者なのかは知らないが、そういった悪趣味を撮影したがる人間が自分に仕掛けた、壮大な悪戯。
正直有名人でもない自分にそんなことをして何が面白いのかとほたるは思ったが、こういった企画を面白いと思う人間の考えなんて理解できるはずがないと、口からは「ははっ……」と乾いた笑いがこぼれた。
「あー……手の込んだことをしてるところ申し訳ないんですけど、私、そういうの好きじゃないんで。撮影されても許可なんて出しませんし、なんだったら迷惑すぎて訴えたい気分なんで、もうここらへんでおしまいにしてくれません?」
相手がただの悪趣味な人間の集まりと分かったからか、ほたるの声からは怯えが消えていた。未だに逆上されたらどうしようという不安はあるが、これまでよりも対話可能な人間を相手にしているという安心感からか、苦笑を浮かべる余裕すらある。
そんなほたるを執行官の――いや、執行官役の男は不思議そうに見返すと、「訴えるの?」と首を傾げた。
「訴えるでしょう。まあ、未成年なのでできるかどうかって問題はありますけど……でも、あなた達のやってることって普通に犯罪ですよ? 傷害と誘拐と……あ、不法侵入もありますよね。いくら視聴率的なものを稼ぎたいからって、事前に許可もなくこういうことされても困ります」
「んー……確かに犯罪ってとこは否めないかな。でもそうなると、お嬢さんも人が死ぬ現場に居合わせたのに何もしなかったってことになるけど?」
「それもどうせ嘘なんでしょう? 良くできたトリックだとは思いますけど、人が霧になって死ぬとか有り得ませんから」
言ってやったぞ、とほたるが鼻を鳴らす。訳の分からないことばかり言われるせいで信じてしまっていたが、そもそも人間があんなふうに死ぬはずなどないのだ。よくも人の純粋さを利用してくれたなと怒りも湧いてきて、執行官役の男を見るほたるの目にも自然と力が入った。
「霧……って、黒いやつ?」
「白々しい。知ってること聞かないでください」
「認識のすり合わせは大事でしょ。その霧ってさ、」
男がニッと微笑む。その直後――彼の姿が、ほたるの前から消えた。
「――こういう感じ?」
「ッ!?」
突如耳元から聞こえた声に、ほたるの肩がびくりと跳ねる。「なッ、んで……!」咄嗟にほたるが振り返った方向は、これまで男がいた場所とは逆。しかしそこには間違いなく男の姿があり、ほたるは驚きで目を白黒させた。
「厳密に言うと違うんだけど、結構似てるはずだよ。どう? 合ってる」
平然と話を続ける男に、ほたるの思考が追いつかない。しかし彼の指しているものは分かる。これまで男のいた左側から漂う黒い残滓。よく見れば彼自身も多少それを纏っているらしく、あまり明るくないといえどその身体に黒い霧が纏わりついているのが見えた。
だが、あの夜道で自分を襲ってきた人物が消えた時ほど多くはない。それどころか少ない。だからその黒い霧はすぐに消えてしまったが、ほたるの記憶は確かに刺激されていた。人体が突然霧となって消えてしまったことに気を取られて忘れていたが、その前にあの場でも今と同じようなことは起きていたのだ。
ほたるは狭い夜道であの男を追い抜いたはずなのに、次の瞬間には同じ人物が目の前にいた。一瞬で移動していなければできないようなことが、たった今見せられたものと同じようなことが、あの場では起きていた。
「タネはあるからトリックっちゃあトリックなんだけど……でも、人間にできないことなのは間違いないよ」
「ッ、でも……!」
「あと簡単に見せられるのだとー……あ、牙見る?」
「へ?」
呆けるほたるに向かって、執行官役の男があ、と大口を開ける。そこにあったのは綺麗な並びの歯だ。「ここね」男が指で犬歯を示す。何の変哲もない歯だったが、突如その犬歯がニュッと長さを変えた。
「は!?」
あまりの出来事にほたるが素っ頓狂な声を上げる。ごく一般的な形だった犬歯は、今では牙と言えるくらいに長く鋭利になっていた。たった一瞬での変化にほたるの目がそこに釘付けになる。思わず指を伸ばせば、「毒あるよ」と男が言った。
「ほ、ほふ……?」
「毒。死にはしないけど飛んじゃうから」
どこに、とはほたるには聞けなかった。普通に話すために男は歯を見せることをやめたが、その直前に長かった牙が元の犬歯に戻るのを確かに見ていたからだ。
「あ、今だったら触っても平気だけど」
「……さ、触らない」
「そう?」
どこか残念そうな男を見ながら、ほたるは今見たものを思い返した。猫の爪が伸びるのは聞いたことがある。しかしあれは急に伸びているのではなく、しまわれていたものが出ただけだ。
そして人間の歯にそんな仕組みはない。精巧な入れ歯のようなものかとも思ったが、どう見ても作り物には見えなかった。それに本当に作り物なら触られたら困るはずだ。触るのをやめたほたるを残念そうに見たりはしないだろう。
「あとは一応爪も同じようなことにはなるんだけど、映画で観るような吸血鬼の感じじゃないんだよね。あとちょっと怖いし……見たいなら見せるけど?」
黙り込むほたるに執行官役の男が提案する。吸血鬼が吸血鬼の映画を観るんだ、と思ってしまったのは、ほたるは言わないことにした。
「……見なくていいです」
「あ、もう信じてくれたってこと?」
う、とほたるの顔が渋る。たった今〝吸血鬼が吸血鬼の映画を観るんだ〟と思ってしまったことを思い出し、自分は男の話を信じてしまっているのだと理解した。
けれど、受け入れたくない。吸血鬼だなんて自分の常識を覆す生き物の存在を信じてしまっていることも、それによって同時に現実だと認めなければならない出来事も。
「……人間じゃないかもしれない、とは」
無理矢理逃げ道を残したほたるの答えに、執行官役の――いや、執行官の男は満足そうに笑った。