〈14-4〉それとこれとは別っていうか
ラミアの部屋を出た後のノエは無言だった。彼には珍しい姿に、ほたるも自然と表情を曇らせる。
昨日からノエはおかしいことばかりだ――そんなことを考えながら歩いていくと、いつの間にか自分に割り当てられた部屋に着いていた。
「眠かったら寝てな。メシは起きたらでいいし」
ノエが口を開いたのは、ほたるを部屋の中に入れた後。ノエはそのまま部屋を去ろうとして、しかしふと思い立ったように足を止めて振り返った。
「ペイズリーが変な話してごめんね。嫌な気分にならなかった?」
「大丈夫って言ったじゃん。気にしてないから平気だよ」
ほたるの答えに、ノエがほんの少し眉間に力を入れる。
「ほたるを人間として家に帰したいと思ってるのは本当だよ」
「それがノエの仕事だからでしょ?」
「それもあるけど、俺個人としてもそう思ってる」
ノエの目は真剣だった。けれど、ほたるには受け入れることはできなかった。「……そう言われるとちょっと困るね」思ったままを口にすれば、ノエの眉間の皺が僅かに深くなった。
「ノストノクスにとって私は利用価値がある。だからノストノクスで働いてるノエは、私を守ってくれてる……それで十分なんだよ。むしろ会って二週間しか経ってない人に個人的にもそう思ってるって言われると、信じにくくなっちゃうって言うか」
「……言ったのがリリだったら?」
「それは信じない方が人でなしみたいじゃない?」
リリは子供だ。まだ人を疑うことも、騙すことも知らない無垢な子供。たとえ誰かを騙したとしても、それは可愛らしい理由からだろう。だからその善意を疑うわけがないとほたるが苦笑すれば、ノエもまた困ったような笑みをこぼした。
「やっぱり俺のことは信用できない?」
正しく自分の真意を理解した言葉に、ほたるの眉根が寄る。
「……ごめん。でも、感謝はしてる。仕事だとしても、ノエはそうと感じさせないように振る舞ってくれてるから」
命の期限が短いことを忘れさせるような軽い振る舞いも、自分で甘える練習をしていいという言葉も。こんな状況でなければ、ほたるはノエに好意を抱いていただろう。
しかしそうはならないのは、彼のその行動が全て仕事のためだと知っているから。そこに個人的な感情は全くないから、ほたるも受け入れる気になれた。
病気になった時と同じだ。たとえ同性の友人でも自分の裸を見せることには抵抗があるが、相手が医者ならば仕方がないと割り切ることができる。そうしないと相手が仕事をできないと理解しているし、その仕事をしてもらえないと困るのは自分だからだ。
だからそこに、個人的な感情はいらない。あくまでお互いの役割に徹することが、ほたるを安心させる。
「俺のこと怖い?」
その問いにほたるはすぐには答えられなかった。ノエは十分に仕事をしている。その点で見れば、ペイズリーがもたらした情報は取るに足らないものだ。
だから、怖くない、と思う。ノエに守られる立場の人間として考えれば、自分に影響はないから怖くないと思うべきなのだと分かる。
けれど、怖くないとは言えなかった。
「……価値観が、違うのかなって。ノエにとって人の死って、凄く軽いものに思える」
だからノエという人にとっては、自分の命の期限が短いこともまた取るに足らないものなのかもしれない。そう思うと、心の奥がつっかえる。
「ペイズリーの話のせい?」
「それもあるけど……多分、最初から。裁判の時から、ノエは誰かの死について軽く話してたから」
そしてそれには自分の処分――死に関することも含まれていた。今となってはノエにはそうならないという確信があったのだと分かるが、何も知らなかったあの時は恐ろしさを感じたのだ。
あの裁判の場で感じた恐怖は、未だ消えない。嫌な思い出と言えるくらいには遠い出来事になってきたが、笑って話せるほどは消化できていない。
「軽く聞こえた方がいいかなって思ってそうしてたんだけど、でも確かにほたるよりはずっと軽く考えてると思う」
「……うん」
「ただ二度と会えないのと、あまり違いは感じてないっていうか」
ノエの声は静かだった。いつものような軽さはなく、しかし重苦しいほどではない。そこに苦悩や後ろめたさのような感情もなく、ただ自分の感じていることを言葉にしているような、そんな響きの声だ。
「だから、仲間も殺せるの?」
その声の静かさに思わずほたるが問えば、ノエは「やっぱ気にしてたんじゃん」と微かに笑った。
「……無視はできないよ」
「だろうね」
相槌を打つノエの声にほたるを責める雰囲気はない。そのことにほたるは肩の力が抜けるのを感じた。どうやらこれまでの会話の中で緊張してしまっていたらしい。
そんなほたるにノエはまた小さく苦笑をこぼすと、「仲間は殺したことないよ」とそれまでと同じ声で答えた。
「……ペイズリーさんの勘違いってこと?」
ペイズリーは確か、ノエは人間だった頃に仲間を売ったと言っていた。売って、皆殺しにしたのだと。それとは矛盾するノエの答えにほたるが首を傾げると、ノエは「いや?」とその言葉を否定した。
「組織的には間違いなく仲間だったよ。だけど俺は仲間だとは思ってなかったし、むしろ俺にとっての仲間を殺した連中だった。だからどうなるか分かってて敵に売った。それだけ」
事も無げにノエが語る。やはり彼にとって、他人の命は軽い――ほたるが視線を落としかけた時、「一度仲間だと思った相手は流石に殺せないよ」と呟くような声が聞こえた。
「だけど、ノエが仕事で捕まえた人が死刑になることもあるんじゃないの?」
「そうだね」
「それはいいの? 裁いてるのは法だけど、間接的に自分が殺してるって感じないの?」
「それとこれとは別っていうか」
ううん、とノエが首を捻る。その仕草が、ほたるには作ったもののように感じた。冗談ではなく、何かを誤魔化しているような、そんな違和感。
他人に言いたくないからそうしているのならばいい。けれど何故か、それとは違うように思えた。
「……不自由だから?」
おずおずと尋ねれば、ノエは何も言わずに苦笑を返した。
「だったらやめられないの? すぐには無理でも、少しずつなら――」
「ここでそんなこと言っちゃ駄目だよ」
ノエの指がほたるの唇に触れる。口調は優しいが、これは咎められているのだ。そうと分かるとほたるの気持ちは一気に暗くなって、「ごめん……」と口にすれば目元が熱くなるのを感じた。
「でも、ありがと」
何故礼を言われるのだろう――ノエの真意が分からず、思わず視線を上げる。するとそこには目を細めてこちらを見るノエの顔があって、見たことのないその表情にほたるはきゅっと唇を引き結んだ。
「ほたるはずっとそのままでいてね」
それだけ言って、ノエの指が離れていく。「もう休みな」そう言い残すと、ノエは今度こそ部屋から去っていった。




