〈13-3〉お願いだから人間のままでいてよ
「寿命が……縮む……」
短ければ三ヶ月もなかったかもしれない寿命が、更に縮む。
「どれくらい……?」
問いかける声が震える。知りたいわけではなかった。けれど、聞かずにはいられなかった。呆然としたままほたるが答えを待てば、ノエは「ごめん、分からない」と目を伏せた。
「ッ……分からないの……?」
「うん。正直、今のほたるは聞いたことない状態なんだよ。だから予想もできない。ただ、種子の状況はスヴァインには感じ取れてると思う。親ならほたるに残された時間がどれくらいか分かるはずだから、本当に危なければすぐにでも出てきてくれるんじゃないかな。こっちが接触しやすい場所に行けばきっと来てくれるよ」
そう語るノエの声はほたるを安心させようとする時のものだった。柔らかく、落ち着いていて、聞いていると身体の力が抜けていくような声。
けれどこの時ばかりは、ほたるの緊張は解れなかった。
「本当かな……」
「どこか分からなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……一〇〇年も逃げ続けたような人が、そんな簡単に出てきてくれるかなって。絶対安全だって思わないと出てきてくれないんじゃない?」
「それは……」
ノエが言い淀む。それが自分の発言への肯定と受け取れて、ほたるは嘲るような笑みをこぼした。
「ねえ、ノエ。種子を取り除くのは親以外は無理でも、発芽は他の人でもやる方法があるんだよね? やり方が秘密でも、知ってる人はいるんじゃないの? そうだ、ラミア様に聞けないかな。もう間に合わないってなった時、その方法で吸血鬼になっちゃった方がいいんじゃないかな」
口が勝手に動く。そこから出ていく言葉はほたるが考えた末のものではない。考えるよりも先に唇が音を紡ぎ出すのだ。
けれどほたるにそれを止めようという気持ちはなかった。意識せず発せられるこの言葉こそが自分の本心なのではないかと、耳を傾けていたいとすら思う。
「何言って……」
「だってそうでしょ? 私はきっと吸血鬼になろうと思ったから種子をもらったんだよ。だったら同じことだと思う。取り除いて全部忘れて生きるより、そうまでして一緒にいたいと思った人と同じになれた方が――」
「ほたる」
強い声だった。大きくはないのに、有無を言わさない声。
その声の鋭さに驚いて、ほたるはひゅっと息を吸い込んだ。言葉は止まり、意識がはっきりとしていく。全て委ねてしまえとぼうっとしていた目はノエを映して、そこにあった険しい顔を見るとほたるはこくりと喉を動かした。
「そんなこと考えないで。ほたるのことは俺が絶対に人間として生き続けられるようにする。だから……頼むよ……」
今までで一番、ノエの心を感じ取れる表情だった。苦しげなその声も、ほたるの頬に触れる手も。指先に込められた力は痛みを感じるほどではなかったが、しかしこれまでとは違う触れ方にほたるを困惑が襲う。
「ノエ……?」
ほたるが呼べば、ノエははっとしたように目を見開いた。「今は寝てな」そう笑いかけてきた顔はいつもどおり。声も聞き慣れたものに戻って、余計にほたるを混乱させる。
「結構熱も出てるから、それで余計弱気なこと考えるんだと思う。起きたらまたちゃんと話そう。不安なこと全部解決できるようにいくらでも話は聞くから」
言いながらノエの手がほたるの目元に移動する。冷たい手のひらが火照った身体に心地良い。そのままノエがほたるの瞼を閉じるように何度か目元を撫でつければ、心地良さが安心感に変わってほたるを微睡ませた。
懐かしい気がする――ふと浮かんだその感覚は、眠りの中に消えていった。
§ § §
ほたるの呼吸がゆっくりとしたものに変わった後、ノエはそっと彼女の目元から手を離した。
その変化にほたるは反応を示さない。怪我をし、熱を出した身体は休息を求めていたようで、たった数分の間に深い眠りに落ちたらしい。
「…………」
悪いことをしてしまった、と思う。いくら最後は記憶を消すとはいえ、年頃の少女の身体に大きな傷を残すことになってしまった。代わりにどんな記憶を植え付けても、ある程度の年齢になるまでこの傷痕はコンプレックスになってしまうかもしれない。それから、首の咬み痕も。
ほたるの髪を払えば、すっかり塞がった傷痕が見えた。小さな傷だからあまり目立たないし、この程度なら数年でほとんど見えなくなるまで消えるだろう。それでも、普通に生きていれば負うはずのない傷を負わせてしまったことは心苦しく思う。
「どうせなら俺達くらいすぐ治ればいいのにね」
小声で語りかけてから、それは駄目だ、とその考えを打ち消した。確かに自分達と同じだけの治癒力があれば、今回のほたるの傷は跡形もなく治っただろう。けれどそれは、彼女が人間ではなくなったことを意味する。ただでさえおかしな状況なのだから、これ以上理解を超えるようなことは起こって欲しくない。
ほたるの身に今起きていることは、それだけ彼女の命が削られていっていると示しているようなものなのだから。
種子を持つ人間は、確かに種子の影響を受ける。だがそれは、あくまで抵抗力の話。紫眼での洗脳、もしくは他の吸血鬼に食い殺されないようにするための抵抗。稀に壱政と出遭った時のように種子が宿主を動かし、脅威を避けようとすることもある。しかし、それだけだ。それ以上のことは、仮に死の直前まで種子をその身に持っていても起こらない。
だが、ほたるは違う。治療しようとした時点で彼女の背中の傷は治り始めていた。そこまで治癒力が高まるだなんて聞いたことがないし、何よりあの廊下で見たほたるの姿もそうだ。
『ほたる! だいじょう……ぶ……』
あの時言葉を止めたのは、ほたるの瞳が紫色に染まっていたからだ。まるで自分達と同じように、妖しい光を放つ紫色に。そしてあの感情を失ったかのような表情は、完全に種子に身体を支配されていたのではと思わされてしまうもの。
そんな話は聞いたことがなかった。ほたるの匂いは間違いなく人間のそれなのに、あれでは人間のまま吸血鬼の力を持っていることになってしまう。いくら種子の力が漏れ出たのだとしても、発芽させてもいないのに従属種以上の力を持っていたことになる。
人間の身でそんな力を持っていていいはずがない。自分達の常識に合わないという以上に、人間の肉体で人外の力を持つなどどれだけ負担になるか分からない。
傷の治り方から見て、昨日まではなかった力なのだ。それが今日になって突然現れた。こんなにも急激に変化するならば、次は何が起こるだろうと不安になる。
まさかこのまま、ほたるは吸血鬼になってしまうのだろうか。何もしていなくても種子は発芽してしまうのだろうか。
「……いやいやいや、そんなの聞いたことないって」
自分の考えを打ち消すように頭を抱える。
それはあってはならない。もし本当にそれが現実に起こり得るなら、ほたるを使ってスヴァインを誘き出すという策すら成立しなくなる。
だからこの策を立てる時、種子持ちの体質についてはノストノクスの関連資料を全てひっくり返して調べたのだ。自分の知らない何かがあってはならないから、計画を破綻させかねない情報がないか、可能な範囲で過去の記録を洗った。それで問題がなかったから、ほたるをここに連れてくることになったのだ。
だから、大丈夫。種子が勝手に発芽するだなんて有り得ない――そう思うのに、もしかしたら、と考えることがやめられない。
ノストノクスにあるのは、所詮五〇〇年分の記録。吸血鬼の歴史の大部分があそこにはないのだ。だから親以外が種子を発芽させる方法が秘匿されているように、秘匿された事実すら記録されていない何かがあるのかもしれないと、どうしても考えてしまう。
特に相手はスヴァインという、真祖の次に長命な男。自分には想像もつかないほど長い年月を生きてきたような者なら、そういった方法を知っているかもしれない。
それを知るためには、彼と近い年齢の者に聞いてみるしかないのだろう。記録に残っていないことでも、誰かの記憶には残っているかもしれない。
ここでスヴァインに一番近い存在は……――ラミアの顔が浮かんで、ノエは慌てて首を振った。
彼女だけは駄目だ。今は人間だからほたるのことを保護してくれている。もし同胞だと判断されれば、ほたるもまた――
「ッ……」
考えて、怖気が走った。ほたるは人間だからいいのだ。人間として出会ったのだから、人間のまま家に帰してやりたい。人間として接してきた相手が、そうでなくなってしまうのは耐え難い。
「お願いだから人間のままでいてよ、ほたる」
懇願するように言って、その頬に触れる。自分よりも高い体温が、ノエを少し安心させる。
ほたるを吸血鬼にしてはならない。相手が人間なら、余計なことを考えずに済むから。