〈12-4〉絶好のパフォーマンスタイミングではあったよ
ほたるとリリを畑に残し、ノエはニックと共に城の医務室に来ていた。食堂で巻き付けたナプキンを解けば、そこからは見るも無惨な火傷が現れる。それを見たニックは「馬鹿なのか?」と顔をしかめると、棚から出した薬瓶をノエに放り投げた。
「治るのにどれだけかかると思ってる。どうせ緊急でもなかったんだろ?」
「絶好のパフォーマンスタイミングではあったよ」
「だからと言ってそんな怪我を負うほどの価値が?」
嫌そうに言うニックに、ノエは受け取った薬を傷口に塗りながら「あったあった」と笑った。その上からガーゼを当て、包帯を巻く。「お前は人間には甘いと思っていたが」怪訝そうに眉をひそめるニックにへらりとした笑みを返し、ノエは「そんなことよりニッキーに頼みがあるのよ」と言葉を続けた。
「エルシーに伝言頼めない? リリが寝てる間にでもちゃちゃっと行ってきちゃってよ」
「お前はあの娘から離れられないのか」
「そうそう。だからお願い。ね?」
「それは構わないが」
答えて、さっさと内容を言えとばかりにニックがノエを見る。相変わらず無愛想なその姿にノエは苦笑をこぼすと、「ほたるだよ」と口を開いた。
「あの子の性格は多分いじられてないと思う。っていうのを、なるべく早く伝えて欲しくて」
「急ぎなのか?」
「まァ、早い方がいい。色々と判断するのにちょっと必要でね」
種子を与えられたほたるは記憶を消され放置されていた。ただ種子を身体に馴染ませるためにそうしたならいい。種子を持つことをほたるが不安に感じていたなら、記憶を消す理由も分からなくもない。
しかし、それ以外の理由だった場合。その可能性があるのかどうか知るためにも、ほたるの現状を正しく理解することは必要だった。
ということまではいくら執行官とはいえまだニックには話せないからとノエは濁したが、彼には十分伝わったらしい。ニックは納得したような顔をすると、「それを見極めるためのパフォーマンスか」と先の言葉を使って返した。
「そゆこと。察しが良くて助かるよ」
「お前よりこの仕事が長いんだ、当然だろう。しかしお前がそこまで答えを出すのに迷うとはな。伝言になったということは、それだけ時間がかかったということだろ?」
「だってガードが硬すぎるんだもん」
ここまでの苦労を思い出し、ノエの顔には自然と苦笑が浮かんだ。他人が自分の中に踏み込むことを拒む人間は少し面倒なのだ。そうなった理由が知りたくとも、下手に距離を詰めれば余計に拒絶されてしまう。
だからこちらが受け入れる姿勢を取って、相手から少しずつ近付いてきてくれるのを待つしかない。しかしそれで近付いてきたからといってこちらも近付こうとするのは駄目だ。向こうのペースを無視した時点で、それまで近付いた距離以上に逃げられてしまう。
だからこれまでは正攻法で待とうとした。しかしここに来た日、手を間違ってしまった。
再び広がった距離が縮まるのを待っている時間はないから、賭けに出ることにした。本人を弱らせて、そこに付け込む――エルシーに知られたらまた怒られそうだとノエは息を漏らした。これで確証を得られていればまだ良かったが、今回は少し足りない。
「正直、まだちょっと腑に落ちないとこもあるんだけどね」
ほたるの言動を思い返し、眉間に力を入れる。彼女が他人を受け入れないのは、自分に無関心だった父親との関わりで傷ついたせいだと考えれば納得できなくもない。
だが、それであそこまで他者を拒むものだろうか。母親にも虐げられていたなら分からなくもないが、以前一度だけ会ったほたるの母親は娘を深く愛していた。そしてその気持ちを惜しげもなく娘に向けていたことは、ほたるの言動を見ていれば分かる。母親を大切に思い、周囲に気遣い、更にはリリという子供とも楽しそうに接する姿は、愛情を受けて育った者のそれだ。
父親や、それに近い者……男性にだけ過剰反応するのだろうか。それにしては以前、壱政のことはすんなり信じようとしていた。となると、自分という個人に対してだろうか。確かに第一印象は最悪だったろうな、とノエが考えていると、ニックが「そうか?」と不思議そうにするのが見えた。
「俺には普通の娘に見えたが」
「うーん……なんかこう、モヤッとするっていうか。現代っ子だと普通なのかなァ……」
「国民性もあるだろ。壱政なら分かるんじゃないか? 同じ日本人だし、あいつの娘はまだ若かったはずだ」
「若いって言ってもあの子とっくに一〇〇歳超えてるよ。戦争やってない国なら価値観全然違うって。そもそも壱政達には聞きたくないしィ……」
クラトスの配下である彼らは、同じ執行官とはいえ今回は信じるに値しない。例の従属種は偶然死んだと見られているが、クラトスが意図してほたるを襲わせたことだってあるかもしれないのだ。
しかし仮にそうでも、それをクラトスに認めさせることはほぼ不可能なのだろう――ノエは溜息を吐くと、「ま、引き続き要観察ってことで」と医務室の出口に向かった。
ドアを開け、廊下に出る。ニックもそれに続いた時、遠くから何か物音がした気がした。
「今何か聞こえた?」
「ガラスが割れる音じゃないか?」
言いながらニックが周囲の様子を探る。「ッ!」突如弾かれたように顔を上げる彼を見て、ノエは「ニッキー?」と首を傾げた。
「血の匂いだ」
その低い声の直後、ノエ達の姿は黒い霧となって消えた。
§ § §
ノエ達が音の出処に着いた時に目にしたのは、にわかには信じられない光景だった。
従属種がほたる達を襲っているのだ。それも、この城の者とは一切関係のない従属種が。
この城に侵入者など本来なら有り得ない。そこまで警備が手厚いわけではないが、そもそも警備する必要がないのだ。何故ならこのノクステルナにおいて、城主であるラミアは序列最上位の一人。そのラミアの居城に侵入するということは、現在の均衡を崩そうとすることと同じ。
そんな大事件の火蓋を、吸血鬼ではなくただの従属種に切らせる。それも、こんなふうにこっそりと弱者を狙う形で――正面から正々堂々と攻撃することを好む自分達の性質とは正反対のその行為が、ノエとニックに衝撃を与えた。
だが今は、その理由について考えている時間はなかった。
「《ニッキーはリリを!》」
「《ああ》」
この侵入者の狙いはきっとほたるだ。だからノエはすかさず男を取り押さえ、相手の目を紫色に染まった自身のそれで覗き込んだ。途端、男がぐったりと意識を失う。それを確認すると、すぐにほたるへと視線を移した。
「ほたる! だいじょう……ぶ……」
ノエの口が止まる。こちらを見るほたるの顔を見たからだ。感情の抜け落ちた表情のほたるはノエをぼうっと見つめ、動かない。そしてその瞳は――
「ッ……ごめん」
ノエは小声で謝ると、ほたるの腹に拳を叩き込んだ。ぐるりと目を回してほたるの身体から力が抜ける。それを優しく抱き留めた時、ニックから「《何やってる!》」という怒声が飛んできた。
「緊急事態なんだよ!」
日本語で返し、ほたるを抱く腕に力を込める。呼吸が浅い。ほたるではなく、ノエの呼吸だ。ほたるに触れる指先は小さく震え、その心境を物語る。
動揺してる? 俺が? ――ノエは自分の反応に気が付くと、誤魔化すように一層腕に力を入れた。
「《ノエ、お前……》」
「《なんでもない。それよりリリは?》」
「《無事だ。ほたるが守ってくれたらしい》」
「《そう……》」
周囲を見渡し、改めてもう脅威がないことを確認する。見たところリリに怪我もない。眠っているのはニックがそうしたのだろう。幼い子供に恐ろしい記憶を残してはいけないと、もしかしたら既に消したのかもしれない。
しかし今は、そんなことまで確認する気にはなれなかった。ほたるの背中に回した手にはべったりと血が付いている。あまり深い傷ではなさそうだが、本人が目覚める前にどうにかしてやった方がいい。
「《悪いけど先戻ってる。ほたるの手当てしなきゃいけないし》」
「《ああ。こっちは任せろ》」
ノエはほたるを抱え直すと、立ち上がってその場を後にした。
「《――……まだ早すぎるだろ》」
震えそうになる声で呟いて、深呼吸をする。その顔に、いつもの笑みはなかった。