〈12-3〉壊さなきゃ
「《ホタル、こっちおいで!》」
「はーい」
畑の中、リリが少し離れたところからほたるを手招きする。ほたるはリリの言葉が分からなかったが、一時間ほどここで二人で遊んでいるうちになんとなく何を言われているかは分かるようになってきていた。
というのも、通訳となりうる者が周りにいないからだ。あのホイップ火山パンケーキを食べた後、リリの要望でほたるは畑の中で彼女と遊ぶことになった。最初こそ保護者のニックとノエが近くにいたものの、ほたるとリリのコミュニケーションが意外とうまくいっていると見た二人は、少し席を外すと言って去ってしまったのだ。
ノエが言うには、この城にはほたるの命を狙うような者はいないから護衛の必要もないらしい。更に遊び場がこの畑であれば、滅多なことでは吸血鬼はほたる達人間を狙えない。何かあればここの真ん中にでも逃げれば大丈夫だと言われ、ノエの怪我を見ていたほたるは納得したのだ。
「《これはね、スープにいれるやつ》」
「へえ! そうなんだぁ」
ほたるの手を取り、リリが自分の知る野菜を指差しながら得意げに話す。ほたるには勿論理解できていなかったが、リリが何かを説明しているということだけは分かった。だからそういった相槌を打てば、リリは満足げに笑う。リリもまたほたるとは言葉が通じないということは分かっているらしく、あまり細かいことを気にしている様子はない。
それよりもリリは、初めて一緒に畑の中を駆け回れる遊び相手ができたことが嬉しかったようだ。今のようにほたるをあっちにこっちにと引っ張って、自分の知ることを一生懸命ほたるに教える。時々追いかけっこをしたり、土に落書きしたり、言葉を使わずにできる遊びも楽しんだ。
そうしてしばらく遊んでいると、リリの顔がとろんとし始めた。ふわふわの頬に大きな目が溶けてしまいそうだ。
「眠い? もう戻ろっか」
ほたるの問いかけに、リリが顔をくしゃくしゃにしながら首を振る。通じているのかいないのか、通じた上で拒否しているのか。流石にこれでは分からないなとほたるは苦笑をこぼすと、確実に伝わりそうな単語を使うことにした。
「ニックさんのとこ戻ろ? ニッキー、ノエ」
二人の名前を言いながら、畑の出口を指差す。幸いリリの母国語と日本語では名前の発音はさほど変わらないため、今度はリリもほたるの意図を理解したらしい。渋々といった面持ちで頷くと、ほたるの手をきゅっと掴んだ。
その手を引いてほたるも歩き出す。ニックもノエも、短い名前で良かった。長く発音の難しい名前だったら、もしかしたら伝わらなかったかもしれない。
吸血鬼は短い名前が好きなのだろうか。そういえば名字もエルシー以外は未だに聞いたことないなと考えながら、畑を後にする。
来た時と同じように二重の扉をくぐれば、視界はぐっと暗くなった。蝋燭の明かりしかないからだ。
けれど、恐ろしさはない。敵がいるかもしれないと言われていたノストノクスでも壱政の件以外は何事もなかったのだ、より安全なこの城の中で恐れを感じろという方が難しい。しかも近くには幼いリリがいる。こんな子供が歩けるくらいなのだから、この城は脅威とは無縁なのだ。
だから不安があるとすれば、広い城内で迷子にならないかということだけ。ほたるはこの城に来てまだ一日しか経っていない。短時間で二度目の往復のため道は覚えている自信があるが、うっかり間違ったところに入ってしまえばそのまま迷ってしまうかもしれない。頼みの綱のリリは寝ぼけ眼、道に迷ったという理由で彼女の眠気を奪いたくはなかった。
そのためリリに話しかけることもできず、ほたるはゆっくりと歩きながら城内の景色を楽しんだ。どこを歩いても代わり映えのしなかったノストノクスとは違い、この城は色々な装飾品が置かれている。小さな石像や絵画といった分かりやすいものから、廊下ごとに異なる壁のデザインまで。見れば見るほど少しずつ違いがあることが分かり、ほたるの歩みはどんどん遅くなっていった。
とはいえ、文句を言う者はいない。手を繋いでいるリリものんびりと歩いているからだ。
大きな窓のある廊下に差し掛かった時にはもうリリの足は止まりそうで、繋いだ手の重さに彼女の限界を悟ったほたるは苦笑しながらその正面にしゃがみこんだ。
「リリ、抱っこしようか?」
「んー……」
リリからは言葉にならない声しか返ってこない。畑を出た時よりも彼女の眠気はずっと強くなっているようで、歩いているものの頭はぐらぐらと揺れている。「抱っこする?」ほたるが両手を広げてもう一度問えば、リリはゆるゆると首を振った。
「そう? まだ歩ける?」
どうしようかな、とほたるは小さく息を吐いた。このまま歩いたところでリリはすぐに止まってしまうだろう。だったらここで止まったまま彼女が眠るのを待つ方がいいのだろうか。
説得する言葉を持たないとこういう時に不便だ。抱っこするよと断ることもできないから、進むか待つかしかの選択肢がない。
と、ほたるが困っていると、リリが目をこすりながらほたるの手を引っ張った。
「《あるく》」
「休まなくていいの?」
「《ニッキーとねる》」
むにゃむにゃとした声だったが、ほたるはどうにかニックの名前を聞き取ることができた。リリが会いたがっているのであれば仕方がない。時間はかかりそうだが、彼女の意思を尊重しよう――そう思って、ほたるが立ち上がった時だった。
ガシャンッ!
後方から大きな音が響いた。ガラスの割れる音だ。ほたるは自分の左手に大きな窓ガラスがあることを思い出すと、咄嗟にリリに覆いかぶさった。
周りからはガラス片が降り注ぐ音がする。しかしそれらの奏でる高い音は数秒で止み、ほたるは恐る恐る顔を上げようとした。その時だ。
「ッ、ぁぐ……!?」
背中に強烈な痛みが走った。これまでに感じたことのないほど強烈な、焼かれるような痛みが。
ガラス? 違う、もう全部落ちたはずだ――痛みの中で冷静な部分が考える。だが答えはでない。何が自分に痛みを与えたのかが分からない。
だから次の瞬間にはもう、ほたるは背後を振り返っていた。ガラス以外にも何か壊れたのではないか。だとしたらそれが自分達を襲うのではないか。
無意識のうちに考えながら後ろを見て、そして目に入ったものにほたるの頭は冷水を浴びせられたかのように冷たくなった。
「人……?」
ガラスの割れた窓の前。外の赤い光を背負い、こちらを見る男の姿があった。
その顔立ちに見覚えはない。立ち姿も記憶にない。けれどほたるは、相手が誰か瞬時に悟っていた。
従属種だ――ほたるがそうと分かったのは、目の前の人物の目があの時の男と同じだから。
これでもかというくらいに大きく見開いて、白目には無数の赤い血管が浮き出ている。常軌を逸したようなその目が、顔つきが、古い血の匂いが、ほたるの中であの時の男とそこにいる人物を結びつける。
逃げなければいけない。リリを守らなければいけない。
そう思うのに、ほたるは動くことができなかった。相手の男の手に釘付けになってしまっていたからだ。
まるで鉤爪のような鋭利な爪を持つ手を、男が恍惚とした様子で眺めている。いや、嗅いでいる。そこにはぽたぽたと滴る赤いものがあって、その匂いを嗅ぐたびによだれを垂らした男の口がだらしなく緩んでいった。
食われる――直感した。あれは自分の血だと。この男は人間である自分達を餌として見ているのだと。
けれどその血を舐めたら駄目だ。種子を持つこの体の血は従属種にとっては毒になる。舐めてしまえばあの時の男のように死んでしまう。
――それのどこが駄目なの?
「ッ……!」
頭の奥から声がした。聞き覚えのある、自分の声だ。けれどほたるには、それが自分の言葉だとは思えなかった。思いたくなかった。
――襲ってきた奴が悪い。
低い声が、頭の奥で嘲笑う。
身体が熱い。背中の怪我から炎のような熱が全身に広がって、ほたるの視界を紫色に染め上げる。
――そいつを壊せ。
声が、熱が、ほたるの背中を押す。
「壊さなきゃ」
ほたるの視界から男の姿が消えたのは、その直後のことだった。