〈12-2〉……変態なの?
きっと大丈夫だ、見た目が凄くてもこういうのは甘さが調整されているはず――自分を奮い立たせながら、パンケーキを切ろうとフォークを横向きに下ろす。一瞬で白い火山に消えたフォークで感覚だけを頼りにパンケーキを一口サイズに切って引き上げれば、銀色であるはずの場所には大きな白い塊がくっついて出てきた。
それをえいや、と口に放り込む。すると甘さ控えめのホイップクリームが口の中全体に広がって、他のトッピングの甘さを緩和する……ことはなかった。
「…………」
甘い。とてつもなく甘い。チョコソースもシロップも甘ければ、ホイップクリームもよくあるものよりずっと甘い。
ほたるは思わず固まりかけたが、キラキラとした目で自分を見てくるリリにどうにか笑顔を返した。全力で表情筋を使って口角を持ち上げて、言葉が通じない代わりにうんうんと何度も頷く。
その姿にリリは満足げにニマッと笑うと、次にノエへと視線を移した。
「《美味しいよ》」
大口を開けて大量のホイップクリームを頬張りながらノエが言う。その手が淀みなく二口目、三口目と進む一方で、リリの隣ではニックがフォークを持ったまま固まっていた。フォークにはホイップクリームが付いていることから、もう既に一口食べたのだろう。
しかしニックは咀嚼せずに口の中を飲み込むと、すっとパンケーキの上からトッピングを落とした。
「《ニッキー、すききらいはだめ》」
ニックの行動を見咎めて、リリが自分の分のパンケーキからシロップまみれのホイップクリームを半分近くニックの皿に移す。それをニックは無表情で見つめ、ほたるは目の前の光景に戦慄した。
食べられる量じゃない。しかし避けようとすれば増える。それだけは御免だと、必死にフォークと口を動かす。
「甘いの苦手だっけ?」
フードファイターのような心持ちで食べ続けるほたるに、ノエが不思議そうに小声で尋ねてきた。彼の皿の上にはもう半分ほどのパンケーキしか残っていない。
よく食べられるな――ほたるは感心したようにその皿を見ると、「甘いのは好きなんだけど……」と少しだけ眉尻を下げた。
「ちょっと甘すぎて、さっきから喉が飲み込むのを拒むんだよね……」
「上の甘ったるいのだけ?」
「多分そう」
ほたるが答えた直後、「じゃァもらうね」の声と共にノエがほたるの皿を持ち上げる。そしてガッと白い火山を一気に崩すと、それを自分の皿の上に落とした。
「あ」
ほたるの口からこぼれた声は、唖然とした音だった。取られたことは構わない。むしろ大助かりだ。しかし気になるのは、ノエはこれが平気なのかということ。彼の味覚がおかしいのは知っているが、味が平気でもこの量の甘味爆弾は身体が拒むのではないか。
というほたるの心配を余所に、ノエのフォークがホイップクリームだけを掬ってそれを彼の口の中に消していく。全く問題なさそうな光景にほたるが呆然としていると、ノエの行動に気付いたリリが「ノエ!」と声を上げた。
「《ひとのとっちゃだめ! おぎょうぎわるい!》」
「《だって美味いんだもん。料理上手だね、リリ》」
怒るリリに、ノエが甘ったるく微笑みかける。それだけでほたるには二人の会話の内容を察することができたが、しかし次のリリの行動が理解できなかった。
「《ならこれもあげるね》」
リリが自分のトッピングをノエの皿に移したのだ。それも、かなり豪快に。お陰でノエの皿にはシロップまみれのホイップクリームが大盛りになり、ほたるは見ているだけで胸焼けを起こしそうになった。
「《リリのもうないじゃん》」
「《あまいからいらない》」
ノエの問いかけに、リリがすんとした顔で首を振る。その瞬間、ニックが信じられないものを見たとでも言いたげな顔をした。そして縋るような目でノエを見る。
「ノエ、これも……」
「おっさんの食いかけはいらないかな。ていうかもう乗らないし」
「…………」
ノエの答えにニックが黙り込む。そこに更に追い打ちをかけるように、ノエは「それにリリ見てみなよ」と続けた。
「全部食べて欲しいって顔じゃん。それを俺に寄越すとか……ねェ?」
ニヤリと笑ったノエの視線の先では、リリが期待に満ちた目でニックを見つめていた。「…………」ニックはその眼差しを無言で受けて、そのまま無表情でパンケーキに向き直った。
横からの圧力に屈するかのように食事を再開した彼を見て、ほたるは「あのさ、」と小声でノエに話しかけた。
「もしかしてニックさんって、甘い食べ物……」
「苦手だねェ」
「……保護者って大変なんだね」
ニックもまさかパンケーキ作りがこんなことになるとは思っていなかったのだろう。無言のまま黙々と食べ進める姿にほたるは哀れみしか感じなかった。しかもその隣でリリがとびきりの笑顔なものだから、対比で余計にニックが可哀想に見える。
けれど同時に、ニックがリリのためにそこまで頑張ることも、つい今しがたまでノエの食べっぷりに喜んでいたリリがもうニックのその姿に夢中になっていることも、ほたるには羨ましく思えた。
誰にも愛情を与えられずに育ったわけじゃない。母は自分を大事にしてくれた。働いている身でありながら、学校行事は大きいものから小さいものまでほぼ全て参加してくれた。一人の家に帰っても、少し待てば疲れを感じさせない笑顔で帰ってきてくれた。
だから母の愛情を疑ったことはない。不満を抱いたことすらない。それなのに、どうしても父の影が脳裏をちらつく。父と自分は他人のようなものなのだといくら言い聞かせても、どこかにいると分かっているから、完全に意識から追い出すことができない。
まるで自分を愛してくれる母への裏切りだ。父に焦がれることなどあってはならないと思うのに、リリ達の姿を見ているとどうしても自分と比べてしまう。
「……ねえ、ノエ」
「ん?」
「スヴァインは、本当に私のこと大事だと思ってくれてるのかな」
「どうしたの、急に」
ノエが不思議そうな顔をほたるに向ける。その表情を視界の端で捉えながら、ほたるは「なんかさ……」と続けた。
「もしかしたら私、スヴァインに懐いてたんじゃないかなって」
「心当たりでも?」
「ううん。でも、リリ達を見てたらそうなのかもしれないって思えてきて……」
人間の子供と吸血鬼の間に、親子関係に近いものは成立する。ならば自分とスヴァインの間にもそれがあったのかもしれない。父という存在に憧れるあまり、赤の他人を父と思って慕っていたのかもしれない。
急に思いついてしまったその可能性が、否定できない。
「やっぱりお父さんの代わりにしてたのかな。ああでも、見た目は若いかもしれないのか。そうなるとお兄ちゃんって感じなのかな」
「ほたる……」
ノエが声を落とす。心配するようなその音に、ほたるは少し前の出来事を思い出した。「認めるよ」日陰の中から自分に問うてきたノエに答える。あなたの言わんとしていたことは正しいのだと、頷くように顔を伏せる。
「私、寂しかった。お父さんに嫌われてるのが辛かった。だから……もしかしたら……私はスヴァインと一緒にいるために、吸血鬼になりたいって言ったのかもしれない……」
その記憶は全くないけれど。スヴァインの姿すら覚えていないけれど。
それでも、父と慕う相手にもっと認められたい願う自分は、容易に想像できる。
「会ったら分かるよ。俺も記憶を消す前に、ほたるがあいつと話す時間は取れるように頼んでみるから」
記憶を消す――それを聞いた瞬間、ほたるは胸が締め付けられる想いがした。これまでと言われていることは変わらないのに、慕っていた相手を永遠に失うことを示すかもしれない言葉となったせいで、これまでと同じように受け取ることができない。
「私がしてることって裏切りなのかな? 自分を大事に想ってくれる人を、私は……」
罠に嵌めて、法の執行機関に引き渡そうとしている。
ほたるが言い淀めば、ノエがすかさず「違うよ」と続きを引き取った。
「スヴァインが追われてるのは過去の行いのせい。ほたるが俺達に協力してるのは、そうしないと死んじゃうから。その原因はあいつの落ち度だよ。ほたるは何も悪いことはしてない」
「……ノエ、仕事だからって私のこと何でも肯定するの?」
「そうして欲しい?」
ノエが微笑みながらほたるを見つめる。いつもよりもしゃんとしたその姿はほたるを甘やかすようで、しかし同時に見透かすかのような妖しさがある。
きっと、どちらを選んでもノエは合わせてくれるのだろう。甘える練習を自分でしてみろという彼は、こちらが失敗することすらも甘やかす態度の一環として受け入れるのだ。
そう確信はしていても。それに頼り切ってはいけないと、ほたるは「……やだ」と口を動かした。
「間違えたらちゃんと叱って欲しい。全部肯定するのは、なんか……違うと思う」
ほたるが言えば、ノエは「了解」と同じ笑顔で微笑んだ。さほど珍しくないはずの表情なのに、何故かこれまでとは違って見える。
綺麗だな――サファイアブルーの瞳も、それを囲む笑んだ眼も。初めて素直にノエの容姿に見惚れていると、その綺麗な笑みがへにゃりと崩れた。
「ところで叱って欲しいって言われるのなんかいいね。もう一回言ってくれる?」
「……変態なの?」
台無しだ、とほたるの声が尖る。するとノエは少し考えるような顔をして、「別に良くない?」と神妙に首を捻った。
「ぐっとくる台詞は多少倫理に反しててもいいと思う。表に出さなければ」
「思いっきり表に出しながら何言ってるの?」
しかもそうのたまう表情がやけに真剣で格好良いものだから、ほたるは早まったかもしれない、と顔をしかめた。