〈11-3〉こっちにおいで
ほたるの覚えている限り、父は母を深く愛している人だった。外国のラブロマンス映画に出てくる男性のように、相手の女性を心の底から愛する人――それがほたるの父だ。
いつも母に優しく触れ、口づけて、抱き寄せて。母を見る父の目は愛情に満ちていた。母に触れる手も、話しかける声も、全てが愛情を感じさせるものだった。
けれど父がその愛情を向けるのは、母に対してだけだった。
『おとうさん、これ……』
ある時、ほたるは父に絵を渡した。幼稚園で描いた父の絵だ。父と母、そしてほたるがケーキを囲む幸せそうな絵は、自分でも素晴らしい出来だと思っていた。
それを示すかのように、周りはみんな褒めてくれた。母もたくさん褒めてくれた。だから自分に冷たい父も、もしかしたら褒めてくれるのではないかと期待した。その頃にはもうほたるは父に話しかけることが怖かったが、それでももしかしたらという思いで、自分の理想の家族の絵を渡した。
『それがどうした』
しかし返ってきたのは、相変わらず冷たい父の返事。母に対するものとは違う、抑揚のない恐ろしい声。ほたるは思わず身を竦ませて、震える唇からは『ぁ……』と声がこぼれた。
『なんだ。用があるならさっさと言え』
『っ……お、おとうさん、に……み、みてほしくて……』
『それで?』
父の冷たい目がほたるを竦み上がらせる。彫りの深い目元には照明の影響で影が落ちて、それが一層彼の顔を恐ろしく見せる。
『用がないならもう行け』
明確な拒絶の言葉が、ほたるの持つ画用紙にくしゃりと皺を作った。
『ご、ごめ、なさっ……』
父の機嫌を損ねてしまったと、必死で謝罪して。既に自分から興味を失っている父から逃げるように走り出す。
その日は、ほたるの五回目の誕生日だった。
§ § §
覚えている限りの一番嫌な記憶が蘇って、ほたるは思わず顔をしかめた。
父が何故自分に対してあんな態度だったのかは分からない。ただ興味がなかったのか、それともノエの言うとおり疎まれていたのか。聞いたことがないのだから、ほたるに分かるはずもない。
それでも母が近くにいる時はもう少し会話をしてくれた。母が父を窘めるから、そして母といる時の父は機嫌が良いから、母がいる場ではいつもよりも父親らしかったように思う。
だが、母がいない時の父は違った。娘に一切興味を示さず、話しかけても鬱陶しそうにするだけ。だからあの姿こそが父の自分に対する気持ちを表していると、小学校に上がる頃にはもう気が付いていた。
そしてそれはどうしようもないことなのだと、いつの間にか諦めていた。父は自分に興味がない。彼が気に掛けるのは母だけで、そこに娘はいないのだ。
けれど、それで良かった。父は元々仕事で家にあまりいない人だったし、母は父がいようがいまいが常に自分を目一杯可愛がってくれた。
だから、ほたるにとってはこれが普通だった。当たり前のことだった。もう何年も、そこに疑問は抱いていない。
『だったら尚更話せるんじゃない? ほたるにとっては大した問題じゃないんでしょ?』
そうだ、大した問題ではない。自分はこんなこと気にしていないのだ。
こっそりと深呼吸をしながら自分に言い聞かせる。父のことはどうでもいい。特に気後れするような感情は持っていない。
ならばここでノエの望む話を拒むのはおかしいだろう、とほたるは言葉を探した。気にしていないことならばいくらでも話せるはず――それがノエの考えだ。そして、それにはほたるも同意できる。だから今ここでノエの求める話題に応えることは、自分が父のことをどうとも思っていないことの証拠になるのだ。
ほたるはもう一度大きく息を吸うと、「お父さんは他人みたいなものだよ」と口を開いた。
「あんまり家にいない人だったから、私もほとんど話した記憶がない。多分、お父さんにとっても私は余所の子みたいな感覚だったんじゃないかな。普段全然関わらないから、いざ同じ空間にいてもどうしたらいいか分からなかったんだと思う。私も似たような気持ちだったし」
何故か父を擁護するような口振りになって、ほたるはぐっと奥歯を噛み締めた。ノエは父を知らないのだから擁護する必要なんてないのに、悪しざまに言うのは気が引けた。いつか同級生に話した時のように、父は不在がちな人だと、ほとんど遊んでもらった記憶がないと正直に言って、周りが酷いだとか親失格だとか、そんなふうに父を言ってきた時のことを思い出した。それを、今ここで聞きたくなかった。
「……多分、お父さんはお母さんだけが好きだったんだよ。二人は凄く仲が良かった。最近はどうだか知らないけど、でも少なくともお母さんは今もお父さんのこと大好きだよ」
だから悪い父親ではないのだとでも言うかのように、口が勝手に動く。
「ほたるは? 父さんのことどう思ってるの?」
「言ったでしょ、他人みたいなものだって。お父さんには笑いかけてもらったことすらないから」
ほたるが言えば、ノエがきゅっと眉根を寄せた。それを見て、ほたるの劣等感が刺激される。
「そんな顔しないでよ。私にとってもお父さんはどうでもいいの。だから別にノエが言うような不満みたいなものが溜まってるわけでもないし、元気がなくなる理由もない」
――だから私を憐れまないで。可哀想だと、それはおかしいと言わないで。
その言葉を我慢するように唇を引き結べば、自分でも辛そうな表情になってしまったのが分かった。必死に表情筋を意識して、力を抜こうと試みる。けれど返ってくるのは震える感覚だけ。「ほたる……」ノエの声が自分の状況を訴えかけてくるようで、ほたるは慌てて言い訳を探した。
「私は平気なの。ただ……お母さんには申し訳ないなって」
嘘ではない。母にはずっと負い目を感じて生きてきた。ただ、言葉にしたことがなかっただけ。そしてこれからも言葉にするつもりはなかった。
だがもう無理だった。いくら嫌な話題から逃げるためとはいえ、一度口に出してしまったら胸の奥から一気に抑え込んでいた想いが溢れてくる。
「お母さん、お父さんのこと大好きなんだよ。でもお父さんは全然家に帰ってこないの。もう何年も私は顔も見てないの。私はそれでもいいけど、お母さんは違う。もしかしたらお父さんが家に寄り付かないのは私のせいなのかもしれない。私に会いたくないから家を避けるのかもしれない。そう考えたら、私、お母さんに酷いことしちゃってるのかもって……」
父がいなくて一人で泣く母の背中は何度も見ている。子供に見られないよう夜中にひっそりと声を押し殺しているけれど、本当は声を上げたいくらい寂しがっているのは見ていれば分かる。
自分にできるのは、知らないふりをすることだけ。母の涙の原因である以上、寄り添うことも、慰めることもできない。
「……あ、でもそうすると今の状況ってちょうどいいかもね? ノエって私が結構長期間留守にするってお母さんに信じ込ませてるんでしょ? だったらお母さんは寂しくなってお父さんに連絡するかもしれない。お父さんも私がいないならってことで帰ってくるかも」
「……ほたる」
「そうなったらお母さんはもう寂しくない、大好きなお父さんと一緒にいられるんだもん。私がこのまま帰らなければお母さんは――」
「ほたる!」
珍しいノエの大声にほたるが視線を向ければ、日陰から厳しい表情で自分を見るノエと目が合った。「……何?」返事をする声が低くなったのは、彼がどう思っているか想像がつくから。だからそれを言葉にしてくれるなと込めて目元に力を入れれば、ノエは険しい顔のまま「こっちにおいで」と手招きをした。
「……行かない」
「いいから」
「……やだ」
ノエが何故自分を呼んでいるのかは分からない。分からないが、ほたるはその言葉に従いたくなかった。
ここにいれば、ノエは来ない。陽の光を浴びられない彼は、それを模したこの光の下には出られない。
そう思ってほたるが足に力を込めれば、「ちょっと手荒になるよ」という声が聞こえた。
「え……?」
ほたるの身体が浮いたのはその直後のこと。状況を把握しきれないうちに光は遠のき、影に包まれる。
すぐに足は地面に着いたが、その時にはもうほたるは渡り廊下の屋根の下にいた。
「痛って……」
小さな声が聞こえる。ほたるが目線を上げると、そこには顔をしかめたノエがいた。彼の目は胸元まで上げた自身の右手に向いている。そしてその手の甲からは黒い煙のようなものが上がり、皮膚が酷い火傷のようになっていた。
「ノエ、手が……!」
「こんくらいなら平気、すぐ治る」
「でも!」
ノエの手がそんな状態になった理由は、考えればほたるにもすぐに分かった。彼は光の下に出たのだ。こちらに来いという言葉を拒んだ自分を日陰に連れて行くために、危険な陽の光を浴びてまで抱きかかえに来たのだ。
長袖の服のお陰か、火傷を負ったのは右手だけのようだ。平気と言うからには、ノエにとっては軽症なのかもしれない。
けれど――
「なんで……」
そんな危険なことを。ほたるが問いかければ、ノエは「こうするため」と言ってほたるを抱き竦めた。
「何を……」
「ちょっと楽になんない? ほら、赤ん坊だっておくるみでぐるぐる巻きにすると落ち着くじゃん」
言葉どおりノエがぎゅっと腕に力を込める。苦しいくらい強さが、今は心地良い。
だが、ほたるの顔はうんと険しくなった。認めてなるものかと眉間に思い切り皺を寄せる。正面から自分を抱くノエにその顔は見えないと分かっていたが、それでも「……馬鹿にしてる?」と声にも不快感を込めて問いかけた。
「それもいいね」
「なんで」
「ほたるの気分が変わるでしょ」
「っ……」
ほたるの眉間から力が抜ける。それを必死に押し留める。慰められては駄目だと自分に言い聞かせて、ノエの声を拒もうと試みる。
「親のすることにほたるが責任感じる必要なんてないよ。一人の大人が自分の意思で選んだことなんだから」
駄目だった。両腕ごと抱き締められているせいで耳が塞げない。音を防げないせいで、ノエの声が嫌でも聞こえてしまう。
「でも……」
「子供のせいにしてくるならその大人の方が間違ってるんだって。ほたるはむしろ父さんのことぶん殴っていいと思うよ。『お前がこさえたんだから義務を果たせ! こっちは子供だぞ!』ってね」
「こさえた……」
その言い方はどうだろう、と言いたくなって、ほたるはもうこの声から逃げられないことを悟った。
耳だけじゃない。彼の胸に触れている箇所からも直接聞こえてくるのだ。そんな音から逃げられるはずがないし、その音が運ぶ言葉が自分に都合の良いものばかりなものだから、どれだけ拒もうとしても頭が、心が求めてしまう。
「前にも言ったけど、ほたるはもっと遠慮せずに甘えていいんだよ。ここにいるうちは俺で練習してみな。失敗してもどうせほたるの記憶には残らないし、俺はとても心が広いので」
「……やだ」
「なんでだよ。仕事とはいえほたるのこと死なせないように動くのよ? いくらほたるが腹立つ甘え方してきても、絶対にほたるから離れないんだから練習相手としては完璧じゃん」
ノエの言葉にほたるの心が揺らぐ。どれだけ甘えても許されて、最後にはその記憶が消える――なんて魅力的なのだろう、と思う。これまで我慢してきたことを、もう我慢しなくていい。そう考えるとこのまま頷いてしまいたくなったが、なけなしの自尊心がその邪魔をする。
「でも……子供じゃないもん……」
だから苦し紛れの言い訳をすれば、ノエが「子供でしょ」と笑った。
「まだ未成年って自分で言ったの忘れた?」
「……多分あと二、三日で成人だよ。日付よく分からないけど」
おかしそうに揺れていたノエの肩が止まる。「……マジ?」驚愕したように問うてくる声に、ほたるの中で反抗心がむくむくと頭を擡げる。それから、悪戯心も。
「マジ。だから今までのノエの説得みたいなやつ、全部無意味」
「もしかして俺、めちゃくちゃスベってるってこと……?」
「とても」
「なんでそういう大事なこと先に言わないの」
「ノエにだけは言われたくないよ」
最後の一言だけはうんと心を込めて。こっそりと笑いながら、ほたるはノエの胸に額を押し付けた。