〈11-1〉ほら、後になると忘れそうだし
ラミアの居城に着いた翌朝のこと。起床したほたるが身支度を終えた頃、部屋の外からドアがノックされた。
ノエだ――その特徴的なノック音にほたるの身体がギクリと固まる。感じるのは気まずさ、後ろめたさ。昨夜の最後の話題もそうだし、夕食に呼びに来てくれると言った彼を待っているうちに眠ってしまったこともほたるにそう感じさせる。
いや、正確には待っていなかった。逃げたのだ。疲れにかこつけて、ノエが呼びに来るまで寝ようとベッドに潜り込んだ。寝ていれば彼と顔を合わせない理由になるから。寝てしまっていたと言えば、きっと許されると思ったから。
けれどもう、その手を使うことは難しい。流石に夕食に続いて朝食も抜けば体調を心配されるだろうし、何より空腹も限界だった。
ほたるは何度か深呼吸すると、意を決してドアを開いた。
「あ、起きてた」
ドアの向こうにいたノエは、いつもどおりの表情でそう言った。
「おはよ。よく眠れた?」
柔らかく笑むその顔に、気まずさは見当たらない。
「……うん」
どういうつもりだろう、とノエを見るほたるの目が自然と様子を探るものになる。
なかったことにするつもりなのか。それともノエにとっては気にするほどでもない問題なのか。考えて、後者だろうな、とほたるは気が付いた。そもそもノエが自分の顔色を窺う理由はない。何故なら以前、ノエ自身が言っていたからだ――人間一人の自由くらい簡単に奪えると。
ならばいくら協力関係にあるとはいえ、自分が多少駄々をこねたところでノエには大した問題にはならないのだろう。そんな相手の機嫌を取る必要などない。仮にもう嫌だと逃げ出したとしても、ノエは簡単に自分を捕まえられる。そして役目を果たせと脅迫まがいの説得だってできるのかもしれない。
そう考えると、変に身構えていた自分が急にちっぽけに思えた。拒絶しているのは自分なのに、もう少し気にかけて欲しい。そんな矛盾する気持ちに嫌気が差す。そして自分がどうしてそう感じるのかもどことなく分かっているから、余計に嫌な気持ちになる。
けれどそれを表に出すのも嫌で、ほたるは「お腹空いた」といつもどおりの表情でノエに言った。
§ § §
城の食堂はノストノクスに比べるとだいぶこじんまりとしていた。と言っても、ノストノクスの食堂が大きすぎるだけだ。あれは大食堂と呼ぶべき広さだし、この城の食堂も三〇畳近いだろう。そこに長いテーブルが置かれて、その両脇にそれぞれ一〇脚の椅子が並んでいる。つまり合計で二〇名が同時に食事をできるであろう広さがあるのだ。
そんなテーブルの隅っこの席に座ったほたるは自動的に運ばれてくる食事を頬張りながら、向かいで優雅にコーヒーを飲んでいるノエに目を向けた。
「……お腹空いてるならノエもご飯食べていいよ。暇でしょ」
言ってから、わざとらしかっただろうか、と気になった。ノエがほたるの食事中に暇そうにするなど今に始まったことではない。この世界に来てからずっとそうだ。それなのに今回だけそんな提案をするなんてどういう風の吹き回しだと言われるかもしれない。
だからほたるは身構えたが、それは考えすぎだったらしい。ノエは「もう済ませたから平気」と言うと、「食事は口に合いそう?」と首を傾げた。
「うん、美味しいよ。初めて食べる味ばっかだけど」
「今はリリの出身地に合わせてるからかな。辛いのは入れないでって言ったから大丈夫だと思うけど、苦手なのあったらちゃんと言うんだよ」
「ノエに言うの?」
「だってここの料理人日本語喋れないもん」
なるほど、とほたるは頷いた。目の前の料理はほたるが取りに行ったものではなく、ノエの言う料理人らしき人物が並べていったものだ。ここにはノストノクスと違ってビュッフェがなく、レストランのように配膳されるのを待つ形式らしい。
好みだけでなく量もノエが伝えてくれたのだろうか――皿の上に乗った料理は、ほたるの胃袋にちょうど収まる量。飲み物も水とオレンジジュースが用意されていて、完全にほたるに合わせてあるように見える。
その事実にほたるはむず痒さを感じて、気を紛らわすように「従属種っていうのの話は?」と咀嚼の合間に問いかけた。
「聞いておかないとまずいんでしょ? ご飯食べながら聞いていい話なら今説明してくれていいんだけど。ほら、後になると忘れそうだし」
「あァ、それね。んー……どうしようかな。仕組みだけ話そうか」
「なんで?」
「全部はちょっと気分悪くなっちゃうかもしれないから」
そう言ってノエが困ったように笑う理由がほたるにはよく分からなかった。今把握している限り、従属種も吸血鬼のはずだ。どんな違いがあるのか、何故呼び分けられているのかは分からないが、人種のような違いならば気分が悪くなる理由などないように思う。
だからほたるが不思議そうな面持ちでノエを見つめれば、ノエは「文化がね、あんま現代人向きじゃないんだよ」と言って説明し始めた。
「とりあえず仕組みの話をすると、種子が発芽すると吸血鬼になるって話は前にしたじゃん? 吸血鬼になること自体は転化って言うことが多いんだけど、開花って表現することもあるんだよね。別に花みたいに綺麗なものじゃないけど、まァ、うまく育ちましたねって意味だと思っといて。ンで、うまく開花しなかった場合……その場合は従属種になる」
ノエはそこで言葉を切ると、「人間から見ればどっちも吸血鬼なんだけどね」と付け足すように呟いた。
「従属種も血を飲む。人間の食事も取れるけど、そこは吸血鬼と同じで全く栄養にならない。身体能力は人間以上吸血鬼未満って感じ。あとは紫眼は使えないし、種子持ちみたいな抵抗力もない」
「食事以外は全部中途半端ってこと?」
「そうそう。あ、ついでに寿命も人間と変わらないよ。普通に年も取るからね」
ノエの話を聞きながら、ほたるは何故呼び分けるのだろう、と疑問を感じた。ノエが言っていたとおり、従属種というのもほたるからすれば吸血鬼だ。血液を食らうのであればそれ以外に呼びようがない。
とはいえそれは人間の感覚で、当事者達にとっては違うのだろうか――ほたるがそう納得しようとした時、ノエが「仕組みとしてはこんな感じ」と説明の終わりを示した。
「分からないところあった?」
「ないけど……なんか、従属種って嫌な呼び方だね。もっといい感じのにすればよかったのに」
「これでもだいぶマシになったんだよ。昔はもっと酷い呼び方だったから」
へらりと笑うノエの眉は少しだけハの字になっていた。これは余程酷い呼び方だったのだろうかとほたるは思ったが、すぐに自分には関係ない、と疑問を打ち消す。今は従属種という存在のことを知らなければならないようだから聞いているだけ。昔の情報は必要ならば聞くが、ノエの様子を見る限りそういうわけではないのだろう。ならば自分が知る必要はないと思考を打ち切ると、ノエが「あれ?」と食堂の入口を見ていることに気が付いた。
「ニッキーじゃん。どしたの? リリの朝飯っていつももっと早くない?」
ノエが問いかける先にはニックとリリがいた。今日のリリはニックに肩車されておらず、彼と手を繋いで自分で歩いている。
ノエに声をかけられたニックは視線を上げると、「それは終わった」と淡々と答えた。
「今はリリがどうしてもパンケーキを食べたいと言い張っているんだ」
「こんな時間に? 食べきれるの?」
「一口で飽きるだろうな」
「《ペペのケーキするの》」
大人二人の会話に割り込むようにリリがノエに笑いかける。それを聞いたノエはおや、という顔をすると、「《キラキラ絵本の?》」とリリに問いかけるように語尾を上げた。
「《そう! まほうでやくんだよ!》」
言いながらリリが嬉しそうに手を広げる。「パンケーキでいいらしい」ニックが補足するように付け加えれば、ノエは「違うと思うよ」と首を振った。
「リリはケーキを食べたいワケじゃなくて、ニッキーと一緒に作りたいんだよ。リリが言ってる絵本、俺がこの前読んでやったやつだから覚えてる。確か二人で一緒に作ると二倍美味しくなるとかなんとかって話だったかな」
三人の会話を聞きながら、ほたるはノエが絵本を読んでいるのか、と少し驚いように目を見開いた。
だが、想像してみると妙な納得感がある。ノエにしっかり者というイメージは全くないが、愛想の良さと性格は子供向きかもしれない。なんだったら子供の方が精神年齢が近そうだ。
リリとの会話は全く理解ができないが、彼女の様子を見るにうまくいっているのだろう。
なんてことをほたるが考えていると、ノエの説明を聞いたニックが「……一緒に?」と怪訝な顔をするのが見えた。
「火はまだ早いんじゃないか? 火傷でもしたらどうする」
「大人が見てりゃ平気でしょ。その年なら火傷したってよっぽど酷くない限りほとんど傷痕残んないしさ」
「だが痛いのは可哀想だろう」
「そんなこと言ってたらリリ何もできないよ。ねえ? ほたる」
「え?」
突然声をかけられて、ほたるははっとしたように背筋を正した。「あ、うん、えっと……」言葉を探しながらノエとニック、それからリリを順番に見て、最後にもう一度ノエを見る。「ん?」不思議そうに首を傾げるノエと目が合うと、ほたるは慌ててニックに視線を戻した。
「その、火を使う時だけニックさんがやれば大丈夫じゃないですか……?」
おずおずとニックの強面を見上げながら言えば、ノエが「だってさ」と同意を示した。
「ほらほら、早く行ってやんなよ。リリってば遅いって顔してるじゃん」
「ああ、すまない」
ノエに言われたニックは思い出したようにリリを見ると、「じゃあ、また」と言って食堂の奥へと歩いていった。
「…………」
その背中を、ほたるがぼんやりと見つめる。あの先に厨房があるのだろうか。料理人に厨房を使わせてもらえるのだろうか。
ぽつぽつと疑問が頭に浮かんでは、ふわりと消えていく。そうしている間にもニック達の姿は見えなくなったが、ほたるの目は彼らのいた場所を見つめたまま。
本物の親子みたい……――二人の後ろ姿に、思う。実際は赤の他人のはずなのに、何だったら人間同士ですらないはずなのに。楽しそうにニックの手を引いて歩いていくリリも、そんなリリの望みを叶えようとするニックも、見ているだけでどちらも相手を想っているのが伝わってくる。
それが少し、羨ましい。
「ほたる?」
隣からの声にほたるははっと意識を現実に戻すと、「ごめん、なんでもない」と言って、残りの料理を食べ始めた。