〈10-3〉失礼しますよっと
「――はい、ここがほたるの部屋」
ラミアの部屋を後にして、ノエがほたるを案内したのはこの城での滞在場所だった。他の部分と同じように内装はノストノクスと似ていたが、しかし広さが違う。置かれている調度品も、種類は同じようなものばかりでも、実用性重視なのかシンプルなデザインの多かったノストノクスと違い、こちらは芸術性も兼ね備えたものばかりが置かれていた。ベッドに至っては天蓋までついていて、もはや緊張で安眠が阻害されそうだ。
ほたるはあまりの豪勢さに口をぽかんと開けると、「なんか豪華度が上がってる……」と感嘆の息を漏らした。
「客間だからね。ま、ここの基本仕様だと思っといて」
そう言って案内するように部屋の中へと入っていたノエはいつもと変わらない。だがほたるは、ラミアの部屋を出る時のノエの姿が忘れられなかった。
ほんの一瞬だけ見えた、無表情のノエ。次の瞬間にはいつものへらりとした顔に戻っていたため見間違いを疑うほどだったが、ほたるにはあれが見間違いだとは思えなかった。
だからここに来るまでの間、ほたるはなかなかノエに話しかけられなかった。と言っても普段話しかけるのはノエの方が多い。そのため会話がなくなるということはなかったが、こうして正面から見るまでこっそりと居心地の悪さを感じていたのだ。
「三日、四日くらいしかいない予定だから、荷物開くのもそのつもりでね」
ノエはそんなほたるの心境に気付いているのか、いないのか。普段と全く変わらない調子でほたるに今後の予定を告げる。
「分かった」
ほたるが素直に答えたのは、彼に合わせるためだ。けれどそれは選んだわけではない。他に選択肢がなかっただけだ。
考えたところで、ノエに関してはどこまでが作った振る舞いなのか全く分からないのだ。だから本人が普段どおりを貫くなら、自分もそれに合わせるしかない。そういった諦めにも似た感情がほたるに従順であることを選ばせた。
どうせノエは、仕事で私と一緒にいるだけだから――部屋の確認をするノエの背中を見ながら、思う。
ノエにとって自分とは、大罪人を捕まえるという彼の仕事に必要な駒の一つに過ぎない。だから彼らは平気で大衆に自分を狙わせるということが考えられるのだ。守りきれるという自信によるものかもしれないが、同時に守りきれなくても問題はないと考えているのかもしれないとも思えてしまう。
いや、そう思わないといけない。そういうふうに常に彼を疑ってかからないと、いつ気を許してしまうか分からない。それくらいノエは話しやすいし、いつの間にかこちらも素で話してしまっている時があるのだ。
けれど、それに流されてはいけない。ノエを信じ切ってはいけない。それだけはしては駄目だと、心の奥底から何かが叫ぶ。
しっかりしないと――ほたるがそこまで考えた時、一通り部屋を見たノエが「荷物ここに置いとくね」と振り返った。
「うん、ありがと。それで、あの……ノエさ、さっき何か言いかけてなかった?」
用は済んだとばかりに部屋から出ていこうとするノエに問いかける。するとノエは「あ」と声を漏らして、「ごめん、また忘れてた」と申し訳なさそうな顔をした。
「従属種のことだよね? 今説明しちゃおうか」
「それもあるんだけど、私に今後の話をし忘れた理由で、何かに気を取られてたって……」
「あ、そっち? それは別に今じゃなくてもいいやつなんだけど」
ノエが意外そうに目を瞬かせる。まるではぐらかそうとしているようにも見えるその姿にほたるはずいと一歩前に進むと、「今がいい」と強い声で言ってノエを見つめた。
「それって、私の寿命の話だったりする? 何かまだ聞いてないことがあるの?」
「ほたる」
「言って。ノエが大事なこと言い忘れるのは分かってきたけど、私に直接関わることならちゃんと言って」
焦燥がほたるの口を動かす。ノエはこの命に関することはこれまでしっかりと伝えてくれていたが、先程のやり取りを見ていたらどうしても不安になってしまう。もしかしたらまだ彼が言い忘れていることがあるのかもしれない。半年もない寿命がもっと短くなってしまうような何かがあるのかもしれない。
そう考えるとほたるは居ても立っても居られなくなって、困惑するノエに構わず自分の望みをぶつけ続けた。
「お願い、ノエ。忘れてたとしても怒らないから、はぐらかさないで教えて」
「確かにほたると直接関係あるけど、別にそんな重要じゃないよ。寿命とも関係ない」
「やだ、言って。私と関係あるんだったら、私にだって大事なことかどうか判断する権利があると思う」
ノエが自分に話したくないと思っていることは分かる。しかしほたるも引き下がることはできなかった。ここで引き下がってしまったらもう自分の命の手綱が完全にこの手から出ていってしまうかのような恐怖が、ほたるの視野を狭める。
だからノエの表情から、彼の心情や考えを推し量ろうともしなかった。
だから軽く眉根を寄せるノエの顔に、いつもよりも感情が滲んでいることにも気付かなかった。
ノエはほたるをじっと見つめると、少ししてふうと息を吐いた。
「ほたるはどうしてそんなに他人を自分の中に入れるのを怖がるのか――っていうのがね、俺の気になってたこと」
予想外の言葉にほたるの思考が止まる。同時に焦燥も収まったが、しかし理解ができない。
何故ならそんなことを気にされる覚えはないからだ。確かにノエには気を許さないようにしていたが、ノエだってそれについては最初に仕方がないと言っていたはず。むしろここ二、三日は彼の言葉を以前より信じるようにしていたのに、それなのにそんなふうに思われることが理解できない。
「……なにそれ」
思わずこぼせば、ノエが困ったように笑った。
「何って、ほたるの言動よ。俺らのことが信用できないから距離を置きたがるのかなって思ってたんだけどね、それだけじゃない気がして」
何それ。何を言ってるの? ――得体の知れない何かが、ほたるの胸の奥から顔を覗かせる。
「……それだけだよ。どうせ記憶が消えるんなら仲良くする必要なんてないでしょ」
「どうせ記憶が消えるんなら、どれだけ仲良くなったところで後で寂しくならないと思うけど」
「それはノエの考え方でしょ。私は違う。だからノエがあれこれ考えても意味ないよ」
「そうだね」
「っ……」
あっさりと返された肯定にほたるの息が詰まった。まるでどうでもいいと言われているかのようと感じたからだ。けれど、それを選んだのは自分だという自覚もある。
何故そうすることを選んだのかは、はっきりとは分からなかったけれど。
ほたるが黙り込むと、ノエが「この話はやめよっか」と柔らかい声で言った。
「自分の寿命と関係ないって知りたかっただけでしょ? ほたるも聞く必要ないと思ってるみたいだし」
「……うん」
頷いた時にはもう、ほたるの顔は下を向いていた。そんなほたるの頭にノエが軽く手をおいて、「風呂入っちゃいな」と言いながらドアの方へと歩いていく。
「夕食は頃合い見て後で呼びに来るからのんびりしてていいよ。今日やることはそれだけ、話は明日にしよう」
それだけ言うと、ノエは部屋から出ていった。一拍遅れて、パタン、とドアの閉まる音が響く。
「……うん」
その返事が届いたかどうかは、ほたるには気にすることができなかった。
§ § §
数時間後、ほたるの部屋を前にしたノエは悪手だった、と溜息を吐いた。ドアをノックするも、返事はない。無視されているわけではないことは知っていた。二時間前にも同じようにノックして返事がなかったから、安全確認のために中の様子を探ったのだ。
きっとそこから状況は変わっていない。ノエはポケットから鍵を取り出すと、目の前の鍵穴に差し込んだ。
「失礼しますよっと」
小声で言いながら鍵を開け、部屋の中へと進む。この鍵の存在はまだほたるには伝えていない。言い忘れたのではなく、意図的に。
ノエは足音を殺してベッドの方へと歩いていくと、そこで予想どおり気持ち良さそうに眠るほたるを見て頬を緩めた。
長旅の疲れが溜まっていたのだろう、ぐっすりと深い眠りに入っているようだ。夕食を食べることも忘れ、入浴だけ済ませて寝てしまったらしい。
ノエはベッドに腰掛けると、ほたるの首にかかる髪の毛をそっと払った。
「これ……」
そこにある傷口を見て眉をひそめる。かさぶたとは違う、赤く固まった血液が貼り付いた新しい傷口。しかしその周りの皮膚には全く腫れがなく、ポケットに忍ばせた消毒液を取ろうとした手が止まった。
嫌な感覚だった。ほたるの身に起きていることを示すその傷口が、ノエの喉をコクリと動かす。
これは結果的に嘘を吐いてしまったかもしれない――傷口を見ながら、思う。自分の寿命に関することなら話して欲しいと懇願してきたほたる。それに対しノエは事実を伝えた。だがたった今、状況が変わったと知った。それも、ノエが予想していなかった方向に。
状況を把握するためにほたるにいくつか質問してみたくとも、あんなふうに寿命に関する話ではないと否定した後では聞きづらい。それこそここまで得た信用を失ってしまうだろう。最後の会話の終わり方を考えれば、尚更。
そもそもがあの話自体するものではなかったのだ。ほたるの内面に関わる話なんて、今このタイミングですべきではなかった。
ほたるの危機回避意識の高さがスヴァインによるものなのか、それともほたるの生まれ持った性質なのか。結論を出すための最後の一押しが欲しくて、珍しく感情的になったほたるについ直接的な質問を投げかけてしまった。相手の内面に無理矢理踏み込むような質問ができるほど、彼女が自分に信頼を寄せていないことくらい分かっていたのに。
あんな話をすれば、彼女が自分を拒絶することは分かりきっていたのに。そして拒絶されれば、今後の仕事がやりづらくなる。
柄にもなく焦ってしまったのは、この傷口のせいか。
ノエはゆっくりと一つ瞬きをすると、音もなくほたるの部屋を後にした。