〈9-3〉そうとも言う
「びっくりした……人なんだったら早く言ってくれればいいのに」
ニック達の姿が見えなくなって、その足音も聞こえなくなった後。ほたるが不満げにノエにこぼした。
「だってほたる怖がってるの隠してたし」
「……面白がってたってこと?」
なんて性格の悪い、とほたるがノエを睨みつける。恐らくノエは物音が聞こえた時点で相手がニック達だと気付いていたのだ。いや、もしかしたらその前からかもしれない。近くに彼らがいることに気付いた上で、オバケの話を否定しなかったのでは――考えているうちに被害妄想じみたものになっていった思考に、ほたるはまさか、と首を振った。
いくらノエでもそんなことはしないだろう。単純に否定しきれないからはぐらかしただけで、全て自分をからかうためだなんてことはあるはずがない。
それはそれで嫌だけど……。
ノエがオバケの存在を否定しなかったのが自分をからかうためではないのなら、オバケが存在する可能性が出てきてしまう。
ほたるはそれ以上考えていたくなくて慌ててもう一度首を振ると、話を変えようと口を開いた。
「ニックさん達は今から行くところの人?」
ほたるの問いかけに、ノエが「そうだよ」と言いながら歩き始める。それに倣ってほたるも歩き出すのを確認すると、ノエは「警戒しなくても大丈夫だよ」と続けた。
「ニッキーも執行官だし、普通にいい奴で系譜は俺と一緒。で、リリはただ保護されてる子だからほたるの心配とは無縁ね。あァでも、ニッキーって日本語は喋れるんだけど、最近あんま使ってないらしいからそこは手加減してあげて」
「ふうん? でもニックさん、日本語凄く上手だったけど」
「昔日本の担当だったのよ。でももう何十年か前の話だからさ、頭の中で意味が繋がるまで時間がかかるみたい」
「へえ……」
多言語を扱う人はそういうものなのだろうか。ということは、流暢に日本語を話すノエは最近もずっと日本語を使う仕事をしていたということだろうか。
考えてみたが、ほたるは自分には関係ない、と思考を打ち切った。自分と出会う前のノエがどんな仕事をしていようと関係ないのだ。種子の件が解決すれば、自分はここでの記憶を全て消される。ならば知ったところで意味はない。
「…………」
なんだか、少し寂しい気がした。けれどそれは錯覚だと自分に言い聞かせる。ノエや彼の仲間は自分を仕事で保護しているだけなのだから、そういった感情を抱くのは間違っている。
だがそうなると、先程出会ったリリという少女のことがほたるは気にかかった。自分はこうして自衛できるが、リリはまだ子供。自分と同じく保護されているという彼女は、ニックやノエにとても懐いているように見えたからだ。
「あのリリって子、ずっとニックさんと一緒にいるの? 保護ってことは一時的なんでしょ? 一ヶ月とか、一年とか……」
一年は、あの年の子供には残酷に感じる。そう思ってほたるが声を落とせば、ノエが「一〇年くらいじゃない?」とあっけらかんと答えた。
「じゅっ……ああ、でもそっか。あの子も吸血鬼だから一〇年ってそんな長くないのか……」
「リリは人間だよ」
「え?」
「ただの人間の子供。故郷に居場所がなくてね、大人になるまでニッキーが面倒見るみたい」
だから一〇年なのか、とほたるに納得することはできなかった。理解はできたが、いまいち飲み込めない。
「えっと、種子持ちってこと?」
「まさか。言ったでしょ? ほたるの心配とは無縁だって。あの子は正真正銘ただの人間としてここで育てられてる。だからニッキーもあの子の母国語で話してるんだよ。俺達の言葉学んだってどうせ最終的には記憶いじるからさ」
「一〇年分も消すの……?」
「消しはしない。流石にそんなことをしたらリリの人格が壊れちゃうからね。だからいじるのは最低限……この空とか、植物とか、外界じゃ有り得ないことに対する認識をちょっと変えるだけ」
言いながらノエが周りに目を向ける。外界という言葉をほたるは説明されたことはなかったが、恐らく自分が元々いた世界のことだろう、とぼんやりと考えながらノエの視線を追った。
不思議な色の空、黒く、石のような植物。ノストノクスの建物は古い城のようだったが、それは地域によっては完全に有り得なくもないはずだ。だからノエの言うような、外界の、自分の常識では説明できないことだけを、リリはいずれ書き換えられるのだろう。
ノエの言いたいことは分かったが、しかしほたるには彼らがそこまでする意味が分からなかった。
「なんでそんな面倒なことしなきゃいけないって分かっててここに連れてきたの? ……まさか勝手に連れてきたんじゃないよね?」
保護というからには正当が理由があるのだろう。だが、保護自体は人間の世界でもできるはずだ。むしろその方がよっぽどいいのではと思ってほたるが尋ねれば、ノエが「それはニッキーに聞いて」とへらりと笑った。
「まァ、勝手にっていうのは……うん、大丈夫じゃない? 騒ぎにならないように記録はいじってあるらしいから」
「……誘拐ってこと?」
「そうとも言う」
悪びれることなく答えたノエにほたるが顔をしかめる。「嘘でしょ……」呆然と呟けば、「同意を取る相手がいなかったらしいのよ」とノエは苦笑した。
「リリって家族がいないんだよね。それで人間の施設にいたんだけど、そこで虐待されてたからさ。ってなると、『この子引き取るね!』って宣言する相手いなくない? ま、法律上は施設が相手ってことになるからそこはちゃんとしたみたいだけど」
「虐待って、なんで……施設ってそういうのから守ってくれるところじゃないの……?」
「地域によるよ。リリの場合はちょっと治安が悪いところで、ついでにあの子の死んだ親が犯罪者だったから、代わりに矛先向けられちゃった感じ」
そう説明するノエはいつもどおりだった。苦笑いはしつつも軽い調子の、いつもの彼だ。
それが、ほたるには怖かった。ほたるには考えられないことを語っているのに、ノエにとっては全く珍しいことではないのだと言わんばかりの様子が、ほたるの瞳を僅かに震えさせる。
ノエはそんなほたるの様子に気付いているのか、いないのか。すっと目を細めて、「別にニッキーも正義感で助けたワケじゃないよ」と話を続けた。
「じゃなきゃ今頃ここ子供だらけだし? たまたま知ってる人間の子供が殺されそうだったから連れてきたってだけだと思うよ。そもそも俺らは人間じゃないから、人間社会のことは割とどうでもいい」
ノエの言葉が、ほたるの胸を締め付ける。
ノエ達にとって人間はどうでもいい存在なのだ。自分を保護してくれるのは、自分の中の種子が彼らにとって価値があるから。
それで間違っていない、と思う。善意で助けていると言われても、実際は何か企みがあるのではないかとか、偽善と何が違うんだとか考えて、自分には受け入れることはできなかっただろうと分かるから。
だからノエのこの態度は、ほたるの望んだとおりのものでもある。
それなのにどういうわけか、ほたるは息苦しさを感じた。笑みの合間に見えたノエの目が、父の冷たい目によく似ているように感じたから。
父にとって自分は母のおまけで、自分自身には何の価値もない。だから邪魔だと思われているのだろうと感じてしまうあの目と、人間はどうでもいいと語るノエの目が、似ていた。
彼らが見ているのは私じゃなくて、私を通して得られる何かなんだ――理解して、ほたるの口からはひゅっと息がこぼれた。
「ほたる?」
顔色を悪くしたほたるに、ノエが心配そうに問いかける。いつものその表情が全く違うものに見えて、ほたるの顔は余計に強張った。
「……ほたるとは種子持ちじゃなければそもそも関わることすらなかったよ。ほたるは人間の世界で、普通の子として生きてた。今が異常なんだって」
ほたるの反応をどう受け取ったのか、ノエが優しく語りかける。それはまるでほたるに〝今〟を受け入れる必要はないと言い聞かせるかのよう。
彼の言葉はほたるの慰めになった。そして、またその胸に寂しさを連れてきた。
「……うん」
頷いたまま顔が上げられなくなった理由を、ほたるは考えないことにした。