〈9-1〉……なんか凄くわざとらしい
「――足元気を付けてね」
ほたるはノエに手を引かれながら、それまでいた狭い空間の外に出た。広がるのは暗く、けれどほんのりと青い空。
夜だ――部屋の中から何度も見ていた空の色に、実際にその下に出たという感動がほたるの口からほう、と息を押し出した。
長い移動で強張っていた身体が少し軽くなる。ここまでは馬車で来たが、罪人輸送用ということで中から外が見えない構造のキャビンだった上に、乗り心地もあまり良くなかった。そのせいでほたるが初めての馬車に興奮できたのは最初の三〇分だけで、その後はひたすら慣れない揺れと全身の凝りとの戦いだったのだ。
そうして、数時間。やっと戦いから解放されたほたるの前に広がるのはその常識を覆す景色。馬車に乗ったのも館内から繋がった車庫のような場所だったから、こうして遮るものなくほたるが空を見るのは初めてのことだ。
周囲には小さな家が一軒あるだけで、他の建物はない。木もまばらだ。足元に草のようなものは生えているが、ほたるの見慣れている植物とはどこか違った。形こそよく似ているが、触ると石のような硬さがある。色ははっきりとは分からない。黒に近い色だということは分かるが、この青い月明かりの下では正しい色が分からないのだ。
「なんか凄いね。こう……水族館の中にいる感じ」
「水族館って魚見る場所だっけ? 結構明るいイメージあるけど」
「クラゲとか深海魚コーナーなんかはこんな感じだよ。暗くて、綺麗な明かりがあって……日常感は全くないの」
「ふうん? ま、それでいいんじゃない? ほたるにとっては一時的な場所なんだから」
ほたるに答えるノエの髪は、青い光のせいでいつもよりも青く見えた。まるで夜のネオンに照らされたかのようだ。けれど夜の街ほどこの青い月明かりに毒々しさはなく、むしろ幻想的な雰囲気を醸し出している。
その雰囲気のせいだろうか、それともその整った顔立ちのせいか。よく知っているはずのノエの顔が、ほたるにはなんだか別人のものに思えた。
「ちゃんと言ったことなかったけど、家に戻る時にはほたるの俺達に関する記憶は消させてもらう。だから謎に旅行か何かしてたことになっちゃうんだけど、そこはごめんね。一応俺達都合ではあるんだけど、ほたるもその方が元の生活に戻りやすいと思うよ」
「……いいよ。覚えてたって意味ないだろうし」
言われたことに驚きはなかった。ノエ達吸血鬼が人間の記憶を操れることは知っていたし、どことなくそうなんだろうなとも薄々感じていたからだ。
でなければいくら必要とはいえ、吸血鬼に関することをあんなに詳しく教えたりしないだろう。現代社会において吸血鬼という存在が空想上の存在だと考えられているのは、実在することを知る者がほとんどいないからだ。稀にいるという例外は、きっと秘密を漏らす心配がないのだろう。それが自主的なのか洗脳されているからかは想像もできないが、知りたいとも思わない。
ほたるはいつの間にか地面を見ていた視線を持ち上げると、「そういえばさ、」とノエに話しかけた。
「スヴァインって人を探しに行くってことで出てきたけど、あのままノストノクスにいたんじゃ駄目だったの? ノエ達が見つけられない人を私が探せるとは思えないんだけど……」
「逆逆。ノストノクスにいられないから移動がてらスヴァイン探ししとこうかって話なのよ」
「そうなの?」
それは意外だ、とほたるが目を瞬かせる。エルシーにはスヴァインの捕縛に協力して欲しいと言われていたから、今のこの行動もそのためだと思っていたのだ。
「そうなのよ。エルシーが時間稼いでくれるけど、ほたるの親がスヴァインだって話はすぐに広まる。公表しなくてもノストノクスの動きで気付く奴が絶対に出る。その時にほたるが分かりやすいところにいると危ないんだよね。スヴァインがほぼ全ての吸血鬼に恨まれてるってことには変わりないから」
そう説明するノエの口調は軽い。いつもどおりだ。
けれど内容は、重い。要するにほたるは全吸血鬼から命を狙われかねないという話なのだ。クラトスの配下だけがほたるに対して敵意を持っているというこれまでの状況よりも、明らかに悪くなっている。
そのせいでほたるの気持ちは暗くなったが、それでも落ちきらずに済んだのはノエの話し方のお陰だろう。ほたるは内心で感謝すると、「……そっか」と物分かりの良い返事をした。
「でもさ、それだとスヴァインは困らないの? もし私を助けようと思ってくれても、私がどこにいるか分からないんじゃ……」
「だから俺らが探しに行く。って言っても俺やエルシーはあの人と面識なくて行動パターンが全く読めないから、まずはそこらへん相談できそうな人のとこに行こうかなってことで今向かってるとこ」
「そうだったんだ。でもその人は、私のこと……」
恨んではいないのだろうか――言おうとしたものの、ほたるは言葉にすることができなかった。
これから何度、この質問の周りに投げかけなければならないのだろう。
考えると気が重くなる。相手に直接聞くようなものではないから、もしかしたら聞く相手はノエ一人かもしれない。けれどほたるにとっては大して違いはなかった。これから自分がどれだけの人と出会うか全く予想できないが、その全てを警戒しなければならないという事実は変わらないからだ。
自分には関係のないことで恨まれる理不尽よりも、それが苦しい。完全なる善意で協力してくれる人が現れたとしても、自分にはその善意をそのまま受け取ることはできないのだ。
言い淀んだほたるをノエはちらりと一瞥すると、「さァね」とそれまでと同じ、軽い声で言った。
「でも感情のままに動く人じゃない。何せノストノクスの創設者よ? ルールにはめちゃくちゃ厳しいし、それに子供好きだから大丈夫だよ」
「子供って……もうすぐ十八なんだけど。日本じゃ成人だよ」
思わずほたるが不満げに指摘すると、ノエは「あァ、そっか」と思い出したような顔をした。
「それは失礼。ほたるは立派な大人だったね」
「……なんか凄くわざとらしい」
「うん、頑張って言った」
しれっと答えたノエにほたるの目線が鋭くなる。そんなほたるにノエは「怒るなよー」と笑うと、「一応頭では理解できてるのよ?」と困ったように、けれどへらへらとしながら続けた。
「でもさァ、これだけ生きてると十八年ってつい最近のことなんだよね。だからどうしても見た目が大人でも中身までそうとは思えないっていうか……あ、それにほら、あれよ。まだ未成年だったら子供の権利主張しときな。大人になると急にあれこれ責任負わなきゃならなくなるし。使えるものは使えるだけ使っときなさいってね」
そこまで言うと、ノエは「だからほたるも我儘言っていいよ」と微笑んだ。それまでのゆるい態度から一転、時折見せる色気っぽい微笑みだ。
しかしそれを向けられたほたるの表情は険しいままだった。狼狽えないように顔に力を入れたせいでもあるが、同時にノエがこの笑い方をする時は、こちらをからかおうとしていると分かってきたからだ。
ここで反応すれば絶対にからかわれる。話の流れからして、やっぱり子供だと笑われることもあるかもしれない。
考えて、ぐっと眉間に力を入れる。そのままじっとりとした目で相手を見続けるほたるに、ノエもまた同じ表情のままゆるりと首を傾ける。
まるでにらめっこだ。けれどその勝敗は、笑うかどうかではない。
絶対に折れてやるものか――ほたるが自分は子供ではないと否定しようとした時、先にノエが色気をしまった。代わりに元通りのへらりとした笑みになって、「まァ、ほたるが大人かどうかは置いといて」と口を開く。その目が勝ち誇ったような色を湛えているのに気付いたほたるはあっと顔を歪めたが、ノエが言葉を続けたせいで何も言うことができなかった。
「さっきも言ったけど、ほたるは種子持ちって言っても人間の子供だから、今から会いに行く人にとっては庇護する対象なんだよ。だから何かされる心配はないから安心しな。ていうかそもそもこのこと相談しに行く許可はもらってるし」
だから子供であることを受け入れろと言わんばかりのその言葉に、ほたるの口が真一文字に引き結ばれる。不満はあったが、文句を言うことはできない。何せ今ノエが言ったことは、ほたるの懸念を払拭するものだったからだ。
これで続けたら私が聞き分けの悪い人間みたいじゃないか――そう思うと何も言えなくなって、ほたるは気を紛らわすように「……分かった」と渋々頷いた。
「……ちなみにさ、大事な人に種子をあげるってよくあることなの?」
完全には消えない不満を逃がしたくて、別の話題に切り替える。昨日まで吸血鬼のことなんて詳しく知る気はなかったが、自分の置かれた状況を理解してしまった今はもう違う。
知らないときっと、自分が困るのだ。エルシーがノエに怒りながらもしっかりと説明したのはそういうことなのだろう。無知でいることは、この身を守ってくれない。ならば正しく把握せねばと思って問いかければ、ノエはううんと少し考えるような顔をしてから、「最近はそうみたい」と答え始めた。
「昔は戦争の戦力集めのためっていうのが多かったみたいだけど、今は休戦中だからさ。もしかしたら数的には変わってないかもね。単に戦争のためっていう方が減っただけで」
「エルシーさんが言ってた、その人の能力が欲しいから、ってやつ?」
「そうそう。前に話したでしょ? 麗には子がたくさんいるって。あれはそういうことだよ。あの人は戦力を集める役割だったらしいから」
「へえ……」
休戦中というのは初耳だが、両軍ともトップが死んでしまったなら仕方がないことなのだろう。ほたるはそう納得すると、「ノエは?」と首を傾げた。
「俺? 俺に子はいないよ。種子あげたことないって言わなかったっけ?」
「うん、聞いた。でもそれがなんでかなって」
正直なところ、ほたるはそれほどこれが気になったわけではなかった。自分が聞いた情報が正しいか確認したかっただけだ。
だからノエからは〝それほど大事な人はいなかった〟という答えが返ってくるのだろうと期待していたが、しかし実際に彼が口にしたのは別の言葉だった。
「だって不自由でしょ、俺ら」
いつもどおりの顔で笑いながら事も無げにノエが答える。予想外のその言葉に、ほたるの眉尻が僅かに下がった。
「……実は怒ってる? 不自由って言ったの」
「いんや? 事実だし」
「ならノエは吸血鬼になりたくなかったの?」
「さてね」
答えるノエの表情はいつもと変わらない。冗談なのか本気なのか、判断がつきにくい笑い方だ。
いや、確信を持てたことなんてないんだった――思い出して口の中が苦くなる。ほたるにノエの真意は読み取れない。信じるしかないからそのまま受け取ってきたが、心の底から信じられたことはないのだ。
そう思い出すと、そんな相手に命を預けるしかない自分の状況が滑稽に思えた。何も知らないから、何もできないから、味方をしてくれそうな人に頼ることしかできない。腹の底では相手のことを信じていないのに、相手もそのことを理解しているのに、守り、守られることを受け入れなければならない。
考え込むほたるの意識を、「あァそうだ、」というノエの声が引き上げた。
「こういう話をしたっていうのは誰にも言わないでね? 特にこれから行くのは俺を吸血鬼にした人のところだから」
「……うん」
ノエがそう言う理由はほたるにも分かった。そして、ならば言ってやろう、と反抗心すら持てない自分に、ほんの少しだけ嫌気が差した。
「でも、人に知られたくないならはぐらかせば良かったのに」
「ちょうどいいじゃん。ほたるは種子を取り除けば記憶が消せるようになる。俺の恥ずかしい秘密とか知られてるって思えば、俺のやる気に繋がると思わない?」
「……確かに」
仕事としてだけでなく、ノエ個人にもほたるの種子を取り除かなければならない理由ができるのは悪くない。それが善意ならば別だが、こういった打算的な理由であれば仕事の場合と同じだ。他人の秘密を知ることはあまり気が進まないものの、それが自分のためになるのならば受け入れるのも良いかもしれない――と、ほたるが納得した時だった。
「あ、ってことはほたるには俺の恥ずかしい話いっぱいしないといけないのか!」
ノエが思いついたように言う。その表情は明るく、名案であると言わんばかりのものだったが、恥ずかしい話を他人に明かさなければならない者の顔ではない。
「待って、なんか嫌だ」
「嫌って」
「……だってなんか卑猥そう」
「なんでだよ」
珍しくノエが顔をしかめる。けれどほたるには自分の発言を撤回する気は起きなかった。根拠はないが、何故かノエの思う恥ずかしいことというのはろくでもないもののような気がするのだ。
「まァいいや。手始めに俺の恥ずかしい秘密、一個教えてあげる」
「え、やだ」
「聞けよー」
「やだよ、行動が露出狂みたいだよ!」
思わずほたるが声を荒らげれば、ノエもまた「いいじゃんいいじゃん!」と声を上げて笑い出した。