〈8-3〉それは真面目にごめん
ほたるはノエに連れられてノストノクスの館内を歩いていた。知っている景色はもうだいぶ前に通り過ぎて、今歩いているのは初めて来る場所。造り自体は変わらないが、何故か雰囲気が違った。ほたるが知っている場所よりも厳かで、ピンと張り詰めた空気が漂っている。
その理由はきっと自分の心持ちのせいなのだろう、とほたるはノエの隣を歩きながら考えていた。
命の期限が提示され、そのあまりの短さに恐怖して。助かるためにはほたる自身も何かしなければならないと告げたノエは、その後すぐほたるに命の危険をもたらしている存在の話をした。
『ほたるに種子を与えたのが誰か分かったよ』
言われている意味は、分かる。その人物と会えばこの体の中にあるという種子を取り除いてもらえるということも、分かる。
だがほたるには、ノエが何故自分にあの前置きをしたのかが分からなかった。
もうその人に会えばいいだけなのに、なんであんな怖い話をしてきたのだろう。
ほたるのその疑問への答えは、まだない。実際に問いかけたほたるに、ノエがこう言ったからだ。
『今からその話をしに行こうか』
そして、今だ。歩いているうちにノエの話を聞いた時に感じた強烈な恐怖は収まった。安心したわけではない。ただ波が引いただけだ。分からないことが分からないままなのだから、安心できるはずがない。
それでも文句を言わずについていけば、やがてノエが足を止めた。目の前にはドアがある。ほたるの部屋のものとそう変わらないドアだ。
ノエは少しリズミカルなノックをすると、「入るよー」と中からの返事も待たずにドアを開けた。
「だから返事を待てと言ってるだろう」
「いいじゃん、別に。どうせそろそろ来るって分かってただろ」
「礼儀の問題だ。お前は少しでもいいから気を遣え」
そうノエに苦言を呈したのは金髪の女――エルシーだ。椅子に座っていたエルシーはその場で立ち上がると、「久しぶりだな」とほたるに笑いかけた。
「久しぶり……?」
見覚えのない相手からの言葉にほたるの首が傾く。
「裁判長だよ」
「あ……」
ノエに言われ、ほたるの記憶が繋がった。
「エルシー=グレースだ。肩書はいくつかあって覚えづらいから、私のことはエルシーと呼んでくれ」
美人の微笑みに思わずほたるが見惚れる。裁判の時は声しか聞いていなかったが、まさかあの布の下にはこんな美人がいたとは、と感嘆の息がこぼれる。
呆けるほたるを見ながらエルシーは座り直すと、「ノエからどこまで聞いている?」と問いかけた。
「えっ、と……私の親っていうのが分かったって。それと……もうすぐ死ぬって」
「……そうだな」
エルシーが苦い笑みを浮かべる。その声にもまた暗い感情が含まれていて、ほたるは胸がきゅっとなるのを感じた。ノエのように平然と受け答えられるのも辛いが、エルシーのように深刻そうにされるのも苦しい。
ほたるが何も言えずにいると、「だが、解決手段は決まった」とエルシーが続けた。
「順番に話そう。まずお前の親についてだが、この一週間、ノストノクスの全情報網を使って調査した。結果、該当者はいなかった」
「いなかった……? あの、待ってください。分かったって話じゃ……」
話が違うではないか――ほたるの顔に焦りが滲む。自分が助かるためには親が誰かという情報が必須だったはずなのに、分からなかったと言われてすんなりと納得できるはずがない。
表情を険しくしたほたるに、「だから分かったんだよ」と隣からノエが付け加えた。
「該当者がいないっていうのが答え。ちゃんと誰か分かってるから安心して」
「どういうこと……?」
ノエに問いかけたほたるに、「そこを説明しよう」とエルシーが答えた。
「我々に人間とは違う法があることは知っているな?」
「……はい」
「最初に法が整備されたのは五〇〇年ほど前のことだ。以来、全ての吸血鬼がこの法に従うよう、同時に設立されたノストノクスが徹底管理している。だから本来であれば、お前の親が分からないということは有り得ない。多少悪さをして誤魔化したとしても、五〇〇年分のノクステルナ全土の記録と突き合わせれば、全く分からないだなんてことは起こり得ないからだ」
「でも……」
たった今分からなかったと言ったではないか――ほたるの目元に力が入る。
「ああ。現実として我々はお前の親が誰なのか、それらしき情報を一切見つけることができなかった。つまりその者はノストノクスの管理を免れ続けているということ。五〇〇年前の設立から、一度もノストノクスに関わることなく生き続けているということになる」
そう説明するエルシーの言葉に淀みはなかった。それが示すのは、彼女が今語った自身の考えに一欠片の迷いも不安も持っていないということだ。
その事実はほたるを些か安心させたが、しかしすぐには全てを受け入れられなかった。
「あの……」
「なんだ?」
「吸血鬼って、五〇〇年も生きるんですか……?」
これだ。彼らが吸血鬼であることは受け入れていたし、人外ならば長生きかもしれないとは薄々思っていた。しかし、ノエから一度もそんな話は聞いたことがない。
だからほたるがその疑問を口にすれば、隣から小さく「あ」という声が聞こえてきた。
『あ』ってなんだ。まさか忘れていたとでも言うのか――ほたるの頭に懸念が過る。するとその懸念を確認するかのように、エルシーが「ノエ?」と鋭い目でノエを睨みつけた。
「ごめん忘れてた。年のことなんて普段考えねェもん」
「全く、お前はまた……」
エルシーが額に手を当てる。その姿にほたるは珍しいことではないのだと察したが、ノエを見る自分の顔が引き攣るのはどうしようもなかった。
「ノエがすまない、ほたる」エルシーが申し訳なさそうにほたるに目を向け、話を再開する。
「我々に寿命はない。何らかの理由で死ぬまで、吸血鬼となった時の姿のまま生き続ける」
「だから五〇〇年以上生きてる奴って別に少なくないのよ。エルシーだってそう」
「……ノエは今どういう気持ちで補足する側に回ったの?」
胡乱げにほたるがノエを見れば、ノエは「長生きしてる側として?」とけろりと答えた。
「ノエが……長生き? それで……?」
「どういう意味よ」
「なんか色々残念すぎて……」
「どこも残念じゃないでしょ。仕事のできるお兄さんだぞ、こっちは」
「お兄さんって年じゃないんじゃないの?」
「心はずっと二十代よ」
ふふん、とノエが胸を張る。それをほたるが残念なものを見る目で見ていると、エルシーが疲れたような溜息を吐き出すのが聞こえてきた。
「話の腰が折れてしまったが……そうだな、他にも説明が足りていないかもしれないから一から話そうか。そもそもノストノクスというのは、当時既に六〇〇年近く続いていた千年戦争とは完全に中立となる形で設立された。以前から中立を宣言していたラミア様を筆頭に、赤軍と青軍からそれぞれ序列上位の者が参加することで、ノクステルナ全土を巻き込む巨大組織として生まれたんだ。その関係で戦争を主導していたラーシュ様とオッド様は参加されず、二人と同じ序列の……――どうした? どこが分からなかった?」
エルシーが言葉を止めたのは、それを聞いていたほたるがぽかんと口を開けていたからだ。エルシー自身は丁寧に説明している気だったようで、そのほたるの表情が不思議だったらしい。
そんなエルシーにほたるは申し訳なさを感じながら、「えっと……」と口を動かした。
「その……全部……」
ほたるが言うと、隣からまた「あ」と小さい声が聞こえた。
「すまない、ほたる。少し失礼するよ」
エルシーがほたるに優しく笑いかける。だが次の瞬間、彼女はもう同じ場所にはいなかった。
「お前の! 頭は! 何のためについている!?」
その鋭い声を聞くと同時にほたるの目は声の出処に向いた。隣だ。正しくは、隣にいるノエの前。一瞬でそこに移動したエルシーは片手でノエの顔を掴み、そしてそのまま持ち上げていたのだ。
それでもほたるがあまり恐怖を感じなかったのは、ノエが「痛い!」と普段とさほど変わらない声で訴えていたからだろう。
うわ、ノエの足ついてない……――いつもより高すぎるノエの頭の位置に、ほたるが無意識のうちにその足元を見る。地面に接しているはずの彼の足はそこから離れ、ぷらぷらと浮いていた。
その有り様に頬を引き攣らせ、上に目を戻す。エルシーの綺麗な手がノエの顔をギリギリと締め付け、その手と口の間から「ごめんって!」という情けない声が漏れていた。
「お前はすぐに伝え忘れるから大事なことから話せと昔から言っているだろう!? 何度言えば改める!?」
「痛い痛い痛い痛い! もげるもげるもげる!!」
「役に立たない頭などもいで捨ててしまえ!」
「流石に死ぬから! ごめんって本当マジで! っていうか爪刺さってる!! 血ィ出る!!」
ノエが叫ぶと、エルシーは忌々しげに舌打ちして手を離した。ぼとりと落とされたノエはそれでも危なげなく着地して、エルシーに掴まれていた顔に指を当てる。血流で真っ赤に染まった肌の一際赤いところに触れると、指についたそれを見て顔をしかめた。
「あァもう、本当に血ィ出てるじゃん。さっさと手ェ洗えよ、エルシー」
指についた血を舐め取りながらノエが言う。それを聞いたエルシーは「ったく、面倒な」と嫌そうにこぼすと、部屋の隅にある洗面台で手を洗い始めた。
「あの……大丈夫……?」
あまりの光景に呆気に取られていたほたるだったが、ノエが怪我をしていることを思い出すと心配そうにその顔に目を向けた。
五本の指で掴まれた顔。出血したのはそのうちの一箇所だけだったようで、ノエが指で拭えばそれ以上の血が流れることはなかった。
「平気平気、すぐ治る」
「でも……うわ」
ほたるが声を漏らしたのは、本当にノエの傷が治ったからだ。かすり傷ほどの小さな傷ではあったものの、一分も経たないうちに元通りとなったそれを見てほたるの顔が強張る。
「『うわ』は酷くない?」
「……ごめん」
「嘘嘘、そんな顔しないの」
へらりと笑ったノエにほたるもぎこちない笑みを返す。傷が治ったことには驚いたが、そこはもういい。問題はノエが傷を負うに至った経緯だ。
ほたるがなんとも言えない目でノエを見ていると、手を洗い終えたらしいエルシーがノエを睨みながら席に戻った。
「誰かのせいで全く話が進まないんだが」
「それは真面目にごめん」
素直に謝ったノエは多少反省しているらしい。ほたるに視線を移すと、「ほたるもびっくりさせてごめんね」と眉をハの字にした。
「とりあえずほたるの知ってる範囲で砕いて説明するとね、ノストノクスに一切関わらずに生きてる奴が一人だけいるのよ。それがほたるの親だろうねって話」
「……凄くシンプルになったね」
「だろ? エルシーの説明まどろっこしいから」
「お前が何も教えていないせいだろ」
エルシーが苛立った声で言えば、ノエは舌を少し出してそっぽを向いた。
なんでこのタイミングでぶりっ子みたいなことができるんだろう――全く空気を読まないノエの反応に呆れ果てる。しかしほたるはすぐに気持ちを切り替えると、エルシーに向き直った。
「ってことは、その人に来てもらえばいいってことですか?」
その問いに答えたのは、エルシーではなかった。
「それが来てもらえないと思うんだよね」
「なんで?」
尋ねながらノエを見上げる。するといつもどおりへらへらとした彼はゆるい笑みを浮かべて、
「そいつ、大罪人だから」
と答えた。