〈8-1〉嗅ぐ?
ほたるのノストノクスでの生活は単調に過ぎていった。ノエと食事を共にし、部屋で時間を潰す。一人で出歩くことは制限されていない。壱政のことがあったが、それは稀だからとノエが禁止することはなかった。
実際にほたるは試しに一人で食堂まで行ってみたが、ノエの言っていたとおり危険はなかった。相手の容姿を見て避けるべきか判断しようとある程度覚悟を決めて出ていたが、誰とも会わないせいでその機会すらなかったのだ。
ただ、時間が過ぎていくのがほたるには苦しかった。何せもう、ここに来てから一週間は経っている。一週間とは最低期間だったらしいが、本当にそれを過ぎてしまったためほたるの中には少しずつ焦りが生まれていた。
「――まだかかりそうなの?」
だからほたるがノエにそう問いかけたのは自然なことだった。いつもどおり食堂で向き合いながら、いつまでここにいなければならないのだろうと疑問を投げかける。
するとノエは申し訳なさそうな顔をして、「そうだね」と曖昧な返事をした。
「全く分からないの? あとどれくらいで帰れるか。お母さんも心配してるんじゃ……」
「一応澪ちゃんはしばらく帰らなくても怪しまないようにはしてあるよ」
「……その呼び方やめてほしい。なんか違和感が凄い」
「ごめんごめん。ほたるにとっては母さんだもんね」
ノエは素直に謝ったが、その後ほたるが待っても言葉を続けることはなかった。
答える気がないんだ――自分の問いが無視された形になったことを思い、ほたるの口中が苦くなる。それを誤魔化すように食べかけだった料理の最後の一口を口に運んだが、何の味も感じなかった。
ノエがほたるの問いに答えないということは今までなかった。内容の真偽はともかく、彼は必ずほたるの疑問に答えを与えてくれたのだ。
それが、ない。いつまでここにいなければいけないのかという問いに、ノエが答えない。
その意味を考えたくなくて、ほたるはノエを視界から追い出すように周りに目を向けた。
見慣れた食堂が、初めて見た時よりも広く感じる。人影はあるが、誰もこちらを見ようとしない。
放課後の教室のようだ、と思った。下校時刻からしばらく経って、誰もいなくなった教室。普段の生活の名残はそこかしこに見受けられるのに、なんだか妙に寂しく、寒々しく感じるあの瞬間。
心細さを感じて目を動かせば、ビュッフェの方から出口に向かう人影を見つけた。知らない人だ。その手にはグラスがある。ほたるが使っているものよりも底の膨らんだ、ワイングラスの上部に近い形。
あんなグラスがあるんだとぼんやりと見つめて、しかしその中身に思考が奪われた。
赤い、とろりとした液体だった。歩いていた人物はそれを何の気なしに口元に運び、そして――
「ぁ……」
飲んだ――ほたるが思わず声をこぼせば、ノエがその視線の先を辿った。
「あァ、ごめん。気付かなかった」
さり気なく椅子を動かして、その人物との間に自分の身体を滑り込ませる。そんなノエの行動の意味に気が付くと、ほたるははっとしてノエに目を向けた。
「もしかして、見せないようにしてたの……?」
ノエが人間ではないことは理解している。それでも吸血鬼だといまいち実感が湧かないのは、今まで一度もそれらしき行動を見たことがなかったからだ。この食堂に食糧として血液が置かれていることは知っていたが、しかし誰かがそれを口にしたところも、飲み物と同じ場所に置かれているらしいそれも目にしたことがない。
そのことについて疑問に思ったことはなかった。深く考えたことすらなかった。だが、今のノエの言葉と行動が全てを表してる。
ほたるがノエをじっと見つめれば、そうされたノエは「だって怖いでしょ?」と苦笑を返した。
「……トマトジュースだと思えば」
「間近で見るとそうは思えないよ。怖くなくても気持ち悪いとは感じるだろうし」
「ノエは私といる時はお腹空いてても我慢してたの……?」
「先に済ませてる。人間みたく一日三食必要なワケじゃないしね」
その答えに、ほたるは思わずノエの口元に目をやった。しかし食事の痕跡は見当たらない。裁判所で見せられた牙すらも、あの日以来見たことがない。
もし、見たら――考え込むほたるに、ノエが「見たいの?」と不思議そうな顔をした。
「……見たいというか、ノエが人じゃないことを実感しておきたいというか」
そうすれば、ノエを信用しない理由ができる。人を食らう化け物だと、この警戒心を維持することができる。
ほたるは口に出さなかったが、「いいよ」と言ったノエはほんの少しだけ困ったように眉尻を下げていた。
「ちょっと待っててね」
言って、立ち上がる。普通の人間のように歩いてその場を離れる。戻る時も同じように歩いてきたノエの姿は人間そのもの。しかしその手には二つのグラスがあった。一つは透明な水。そしてもう一つには、真っ赤な液体が入っている。
「……本当に血だ」
グラスを持ったまま腰を下ろしたノエに、ほたるが呆然と呟く。大量の血など見たことはないが、グラスが揺れた時に透明なガラスに残った赤は、採血の時に見るものとよく似ていた。
「嗅ぐ?」
「いや……いい」
ノエが問うてきたのは意地悪ではなく、本当に血かどうか確かめたがっていると考えたからだろう。ほたるが素直にそう思えたのは、「やっぱりやめとく?」と聞いてきたノエの表情が自分を案じるものだったからだ。
「それかもう少し後にしてもいいよ。下手したら食べたもの戻しちゃうだろうし」
「……大丈夫、だと思う」
自分の腹部に手を当てながら答える。食事の直後だが、満腹というほどではない。目の前にある血の入ったグラスを見ても、吐き気は催していない。
やはり大丈夫だろうと思いながらほたるが頷くと、ノエは「そう?」と言って赤い方のグラスに口を当てた。
こくりこくりと、喉仏が動く。自分とはまるで違う男性の首。喉仏の近くにある筋肉や血管が嚥下に合わせて同じく動いて、グラスの中にある液体を胃へと送っていく。
異様な艶かしさがあった。ただ飲み物を飲んでいるだけなのに、その飲み物が普通とは違うものだからだろうか。暗い赤色の持つ独特の雰囲気がその姿を妖しく魅せる。
グラスの中身は、ほたるが目を奪われている間にすっかりなくなった。まだ赤く残っているが、それはもう飲むことはできないだろう。
ノエがグラスから口を離す。その唇が、赤く染まっている。それを舐め取るように出てきた舌もまた赤く、生き物のように唇を軽くひと撫でして元の場所へと帰っていく。
「っ……」
赤かった。ノエの唇が、舌が、口内が。全てが普通では有り得ないくらいに赤かった。
血を飲んだのだ。その口で、そのグラスで、当然のように飲み干した。
やはりこの人は、人間じゃない。血を食らう化け物だ。
何とも言い難い感情がほたるの中に湧き上がる。そのままぼうっとノエの口元を見つめれば、グラスを置いたノエが「怖い?」とほたるに問いかけた。
「……少し」
「いいんじゃない? 吸血鬼にはなりたくないって思っといた方が」
そう笑うノエの目は優しい。強烈な赤との対比で、透き通るようなサファイアブルーがほたるの心を落ち着かせる。
その視線を受けながら、ほたるはノエの言葉に眉根を寄せた。
「ノエは嫌じゃないの? 他人にそういうふうに思われて。吸血鬼になりたくないって、自分を否定されてるのと一緒じゃん」
「別に? 他の奴は知らないけど、少なくとも俺は吸血鬼であることに誇りみたいなものは一切持ってないし」
「……そうなの?」
「そうだよ。それにほたるが吸血鬼になりたいって言い出す方が嫌だしね」
そう言ってノエがもう片方のグラスを傾ける。ただの水だ。それを飲む姿に艶かしさは微塵もなく、ほたるは先程の光景が嘘だったのではないかと思いそうになった。
「……なんで嫌なの?」
気を取り直すように会話を続ける。
「不自由だから」
グラスを置いたノエは短く答えると、「そうだ」と思いついた顔をした。
「折角だから大事な話をしようか。ここじゃ何だから部屋に戻ろう」
立ち上がりながらノエが微笑む。僅かに見えた口の中に、もうあの赤さはなかった。