〈7-6〉ま、近いうちには言うよ
自室の窓台に腰掛けて、ノエは開け放った窓の外の音に耳を澄ませた。窺うのは、真下の部屋の音。ほたるの部屋だ。防犯意識が高いのか、ほたるの部屋の窓は閉められていることが多い。しかし人外の聴力をもってすれば、それでもある程度中の様子は窺うことができる。
物音は、聞こえない。しばらく聞いても紙を捲る音すらしないから、きっと寝ているのだろう。ここ数日の間に把握したとおりの規則正しい生活っぷりに思わず笑みがこぼれる。
泣いていなくてよかったと思う。泣くこと自体は悪くない。涙を流してしまった方が気持ちが楽になることもあるから、ここに来てから一度もその素振りのないほたるを心配し始めてすらいた。
だが、あの泣き方は駄目だ。己の感情が見えていないあの姿はまるで、心の一部を操られた人間のようではないか――ノエはガシガシと頭を掻くと、自分の部屋を後にした。
そうして向かったのは、同じ建物にある別の部屋。ノエは部屋のドアを特徴的なリズムでノックすると、相手の返事も待たずにドアを開けて入っていった。
「……お前はいい加減返事くらい待てないのか」
部屋の奥、大きな机のある席にいたのはエルシーだった。仕事中だったのか、机の上には大量の書類と資料が並べられ、その手には万年筆が握られている。
「いいじゃん、どうせ俺って分かってるんだし」
「取り込み中だったらどうする」
「エルシーってば執務室でそんないかがわしいことすんの?」
「お前と一緒にするな」
ジロリ、エルシーがノエを睨む。するとノエは大袈裟に肩を竦めて、エルシーの向かう机の上に腰掛けた。
「いかがわしいことしてたら流石に開けないよ。お前はともかく、相手次第じゃ面倒臭いことになるから」
「日頃の行いのせいだろう」
「仕事に使えるものは何でも使ってるだけだよ」
にっこりと笑い、目についた資料を手に取る。しかし読み始めてすぐに「うっわ、面倒臭そう」とその資料を放って、「まァ、冗談は置いといて」とエルシーに顔を向けた。
「エルシーさ、ちょっと色々急げない?」
「これ以上どう急げと?」
エルシーがじっとりとした目でノエを睨めつける。そうする理由はノエも知っていた。エルシーは他の仕事を後回しにしてまでこの大量の資料の精査をしているのだ。
それでもノエは、自分の発言を撤回することはなかった。
「や、本気で。多分ね、思ってたよりだいぶ時間ない」
ノエが言えば、エルシーは怪訝な表情で手を止めた。珍しく笑みを湛えていない顔を見上げ、「時間?」と続きを促す。そうされたノエは相手に聞く気があると判断すると、「今日ほたるが壱政と鉢合わせたんだけど」と前置きをして話し始めた。
「その時に壱政の奴、ほたるに手を出しかけたっぽいんだよ。でも未遂だった。種子がほたるを動かしたらしい」
「それは……」
エルシーの表情が険しくなる。ノエはそこから視線を外すと、机の上に目を落とした。
「うん。ほたるはもうすぐ死ぬ」
自然と低くなった自分の声を紛らわすように、ノエは「ね? 時間ないでしょ」とエルシーにへらりとした笑顔を向けた。
「……そうだな。目撃した壱政は何と?」
「同じ意見。俺よりあいつの方がそこらへんの判断は正確だろ。嘘も多分吐いてない」
ほたるを連れ帰る前に話したことを思い出し、ノエが答える。
『そいつ、もうすぐ死ぬぞ』
言われて、ほたるが倒れた理由を理解した。
『……どのくらいだと思う?』
『かなり進んでる。長く見積もっても――』
それは当初の見立てよりも随分と短かった。最初に見誤ったのか、それとも急激に進行したのか――考えていたノエに、エルシーが「本人には?」と問いかけた。
「ほたるに? 言えるワケないじゃん。今のとこ親の居場所の手がかりが全くないのに」
「……解決の算段がつくまで伏せるのか?」
「できればそうしたいけど……もしかしたらあの子が自分で気付く方が早いかもね」
今はまだ自覚がなくとも、死期が近付けば体に目に見えた変化が起きる。年頃の少女ならば自分の見た目には敏感かもしれない。だとすれば、微かな変化すら彼女は見つけてしまうかもしれない。
そう考えるとあまり先延ばしにはできないな、とノエは小さく息を吐いた。あまり不安な思いはさせたくないが、言わなければその不安がより大きくなる。
「ま、近いうちには言うよ。ちょっと長めにね」
できれば不安は小さい方がいいだろう。そこに嘘があろうと、気付かれないようにすればいいだけだ。
そうして出したノエの答えに、エルシーが「……それがいいだろうな」と同意を示した。
「だが、不安になれば逃げ出したくもなるだろう。そこは大丈夫なのか? 壱政が手を出したということは、お前は傍にいなかったんだろう? 一度許した自由を制限すれば信用を失うぞ」
「大丈夫だよ、元々信用されてないから」
「ノストノクスの外には出すなという意味だ。ここから出ればすぐに殺されかねない」
エルシーが真剣な目でノエを見つめる。ノエはその視線を気付かないふりで躱すと、「逃げないと思うよ」と苦笑を返した。
「ならあの娘は……」
「そうねェ……そう、なんだろうな。きっと」
恐らくほたるの危機回避意識は生まれ持った性質ではない。とはいえ、幼少期の環境によってはそうなるだろうと思えるくらいの異常さだ。あの泣き方もそうだが、すぐに結論を出せる段階ではなかった。
「まだ確信は持てないんだよね。そうなのかなって思うことはあるんだけど、それにしちゃァ思考に制限がなさすぎるっていうか。なんかそういう事例みたいなの知らない?」
「聞いたことはないな。手が空いたらで良ければ調べるが」
「……いや、いいかな。結果が分かったところで大して意味ないし」
そう言うとノエは机から腰を上げた。ジャケットを直し、エルシーに向き直る。
「とりあえず、問題は寿命の件を壱政にも知られたってことか。目的は分からないけど、あそこに従属種がいたことがクラトス様の指示なら何かしら動くかもしれない」
「お前は、あの娘の親が例の人物である可能性はどのくらいだと思う?」
「他は有り得ないと思うくらいかな」
「……そうか」
エルシーが視線を落とす。机の上の紙を見つめて、ややしてからノエに目を戻した。
「できる限りのことはする。だからお前も早くラミア様の協力を取り付けろ」
「悪いね。ま、ラミア様のことはあとちょっとって感じだから安心して。雑用片付けたらいいっぽいし」
「……それは私の仕事が増えるということじゃないのか?」
「よっ、エルシー! 仕事のできるいい女!」
手を叩き、ノエがわざとらしくエルシーを持ち上げる。しかしエルシーがそれに不快感を示すことはなかった。「ノエ」厳しい声で相手を呼んだが、その目に怒りはない。あるのは心配だけだ。
「無理はするなよ」
真剣に自分を案ずるエルシーに、ノエの顔から笑みが消える。「エルシー……」ぽつりと呟いて、そしてうんと顔をしかめた。
「心配しすぎは婆臭いよ」
「話が終わったならさっさと行け、クソガキ」