〈15‐3〉じゃあ、行ってくるね
広いリビングダイニングをほたるが右へ左へと忙しなく歩き回る。この家の寝室と浴室は接しているが、衣装部屋はリビングを挟んで反対側。ついでにほたるがよく使っている机があるのはリビングの片隅なものだから、それらの場所から荷物をまとめるとなると、どうしてもあちこち行ったり来たりしなければならないのだ。
そんなほたるを目で追いながら、ノエはリビングにあるソファにどっかりと座って、つまらなそうに眉根を寄せた。手伝ってやりたいとは思うものの、手伝いたくないという気持ちの方が大きい。その上ほたるには手伝いを求められなかったものだから、どんどん眉間の皺が深くなっていく。
「着替え持った、勉強道具も持った。他に忘れ物はー……ない!」
寝室のフットベンチに置いたバッグに向かって指差し確認するほたるは、いつもと比べてどことなく浮足立っているように見える。それが余計にノエの不満を大きくして、リビングから「本当に泊まってくるの……?」と問いかけた声は完全に不貞腐れたような音になった。
「だってリリとも遊ぶんだもん。駄目?」
リビングに戻ってきたほたるが首を傾げる。
「駄目じゃないけどさァ……」
駄目ではないが、不満ではある。しかし以前までのような恐怖や焦りは感じていないからいいのだろうかと、ノエは最後にほたるの記憶を辿った時のことを思い返した。
§ § §
ほたるが目覚めた後のことだ。父の顔を見ることができたと言った彼女は、立て続けに記憶を辿った疲れからかすぐに眠りに落ちてしまった。
先日の騒ぎを思い出させるほど悪い顔色、冷たい身体。しかしその表情は穏やかだったものだから、ほたるを抱き締めるノエの口からはほっとしたような息が漏れた。
そんな時だ、ペイズリーがノエに声をかけてきたのは。
「アンタ、アイリスあたりに感情いじられたことない?」
脈略のない質問に、ノエが「感情……?」と眉をひそめる。するとペイズリーは「そう、感情」と頷いて、ノエの腕の中にいるほたるへと目を向けた。
「ほたるに対する気持ち。殺さなきゃいけないと思うような感じで」
「それは……あるけど……」
「ほたるのこと大事に思うようになった後?」
「……だったら何だよ」
「なら多分そのせいだよ、アンタがほたるのこと食べたくなったの。一回それでたがが外されてるから、調節が馬鹿になっちゃってたの。自分からも守らなきゃいけないとか思ってたんじゃない?」
言われて、ノエの身体がギクリと強張った。食べて自分のものにしてしまえば、ほたるを手放さなくて済む。ほたるが離れないように殺してしまわずに済む――殺すことと食べることはほぼ同義のはずなのに、まるで食いたいと思うことを正当化するような思考の存在は知っていた。そしてそれは異常だと思っていた。
それなのにその思考をペイズリーに指摘されたものだから、後ろめたさなのか何なのか、言い知れない感情がノエの自由を奪った。
「そんな身構えないの、別に責めてないから。っていうかどうでもいい相手ならともかく、ほたるみたいに守らなきゃって思ってる相手を殺したくなるくらいって相当強くやられたでしょ。そこ考えるとむしろ同情するよ。それによくその感情を引き摺らなかったって感心もする。どっちもちょっとだけだけど」
「……そうかよ」
ペイズリーの言葉は気休めだ。確かにあの時の強い思考は引き摺らなかったが、全く残らなかったわけではない。
「でも結局影響は出ただろ。しかもこんなおかしな方向に」
ほたるを食いたいと、食って自分のものにしてしまいたいと。この欲求がアイリスにやられたことのせいだと言われて安心した部分もあるが、制御できなければそれも意味がない。
そう思ってノエが表情を険しくすれば、ペイズリーがあっけらかんとした顔で「それね、もう大丈夫だと思うよ」と言い放った。
「は?」
「だから大丈夫だって言ってんの」
「なんで……」
「だってほたるのこともう一回送れたじゃん。前までだったら絶対できてなかったよ。ほたるなら大丈夫って、心底安心できてるってことでしょ。何かきっかけでもあった?」
そう問うてくるペイズリーはやはり気楽そうで、そしてその直前の言葉も確信しているように聞こえた。
しかし、内容が悪い。言われたこと自体は悪くないが、それが示すものが最悪だ。ノエはそこに気が付くと、「お前……まさかわざと……?」と愕然とした面持ちとなった。
「もう一回やれって……ほたるに記憶を追わせるためじゃなくて、俺のこと試すために……?」
「当たり前じゃん。でなきゃほたるに無理させるワケないでしょ」
「ッ、だからってお前……! ほたるに何かあったらどうするつもりで――」
「私のこと舐めてんの?」
意図的にほたるに負担をかけたことへのノエの憤りは、ペイズリーの威圧感のある声に押し留められた。「ほたるのことはどうにかできたに決まってるでしょ」不服だと言わんばかりにペイズリーがノエを睨みつけ、「そもそもアンタにそんなこと言う資格ないから」と鋭い声を向ける。
「ほたるのこと今にも殺しちゃいそうだった奴が私に文句言えるとでも? むしろ感謝しなさい。アンタのことどうにかできそうなタイミングを見逃さないであげたんだから」
「……それは……そうだけど……」
しかしどうにかできたと言われても、ノエにはまだ実感がなかった。確かにほたるの身体に負担をかけることをできたのは、以前よりも恐怖が和らいでいるからだろうと思える。だが、それは恐らくほたるの危機を目にしなかったからだ。また彼女の身に何か降りかかれば、自分は同じ過ちを繰り返すに違いない。
「ま、完全に治ったワケじゃないだろうから少しずつ慣らす必要はあるけどね」
聞こえてきたペイズリーの言葉は、ノエのその懸念を肯定するものだった。
「それに他にも強い力で似たようなことされてたならそっちの影響も考慮しなきゃだし。ていうか血族全員の潜在意識に色々刷り込めるような強さの力なんて考えただけでも怖いからね。アイリスの子ならそれなりに抵抗力があるのかもしれないけど、だからと言って過信はできない」
「……だろうな」
ペイズリーの言うことはノエにも分かった。アイリスと自分達では存在そのものが違う。確かに人外の力はあれど、アイリスが言うにはそれはほんの一欠片を引き継いだにすぎないらしいのだから。
それをここで口にすべきかどうかノエが考えていると、ペイズリーが「ってことで」と自分に注目を向けさせた。
「診てあげてもいいけど? 勿論有料で」
「……お前に頼らなかったら?」
「自分でも分かってるでしょ」
ペイズリーの言わんとしていることは考えるまでもなく深刻なものだと分かる。それなのに彼女がニヤニヤと悪巧みするように笑っているものだから、ノエは顔を引き攣らせることしかできなかった。
§ § §
「――どうしたの?」
思考に沈んでいたノエに、ほたるが不思議そうに問いかける。その声にノエはゆるゆると首を振ると、「なんでもないよ」と笑いかけた。
「ただちょっと、ペイズリーは俺から金を毟り取る気なんだろうなって考えてただけ」
ほたるは突然の話題に目を瞬かせたが、すぐにその意図を理解したらしい。苦笑しながらノエの隣に腰掛けて、「でも診察料だし、そこはしょうがないんじゃない?」と軽く身体を寄せる。「詳しい人に見ててもらえると私も安心できるよ」そう続けるほたるの腰にノエは手を回すと、はあ、と重たい溜息を吐き出した。
「それは俺もそうなんだけどね。金はともかく、あいつに自分のことを話すのが嫌すぎて」
「でも話さないとどうにもならないし……それに守秘義務みたいなのもあるんじゃないの?」
「あるよ。それはあいつも守るだろうけどさァ……だからってこうもあからさまにほたるのこと連れてかれるの嫌なんだけど」
今回ほたるが出かけるのはペイズリーの案だ。あれから一月近く経ったが、その間ペイズリーは何度かほたるを外に連れ出した。どれもたった数時間の不在だが、それがノストノクスの外だったり、そもそも行き先を教えられなかったりと、敢えてこちらに心配をかけるようなやり方だったものだから不満は溜まる一方。第一、治安だって完全には回復しきっていないのだから、いくら護衛もいるとはいえまだ早いとすら思えてしまう。
そのせいでノエとしてはペイズリーにほたるを連れて行かれるのは嫌で嫌でたまらなかったのに、その上外泊と来ればもう嫌がらせとしか思えなかった。
「だけどノエを慣らすのも兼ねてるってペイズリーさんも言ってたでしょ。ラミア様のお城ならノエも安心できるんじゃないかって。エルシーさんも一緒だし」
「……でもエルシーはいざとなったらアレサを優先するよ」
「ってノエが言うからペイズリーさんも一緒なんだって。何度も無事に帰した実績があるから」
「あいつ……」
そもそもペイズリーにほたるを預けること自体が嫌なのだ、とノエは思い切り顔をしかめた。ペイズリーの守備範囲内にほたるがいることは知っている。そして相手にその気がなくとも、ペイズリーが巧みに誘導し彼女らを手籠めにするところは何度も見てきた。
今はマヤがいるから平気だろうけど――ペイズリーの誠実さを思い出しながら、ぎゅっとほたるを抱き締める。と同時に、ノエはその背中や胸が大きく露出していることを思い出した。
「上着は?」
ほたるが今日着ているのは以前ペイズリーが買ってきた服だ。そして彼女がそれを選んだ理由も知っている。選んでもらった服もちゃんと着ているぞと示すために、ほたるはペイズリーと会うと分かっている時はそれらの中から選ぶことが多いのだ。
その気遣いは確かに相手を喜ばせるかもしれないが、誰にでもやって欲しくはない。ということを以前言ったら徐々に頻度を落とすと返されたからもう言えないが、せめてほたるを性的に見うる相手からはその肌を隠して欲しい。
「着た方がいいかな? 結構この露出具合には慣れてきたんだけど」
「リリと遊ぶなら着た方がいいんじゃない? その服だと色々気にしなきゃいけないから動きにくいでしょ」
「あ、そっか」
ノエが嘘の理由を言ったことにほたるは気付かなかったらしい。特に怪しむ様子もなく立ち上がると、「じゃあ髪も結ぼっかな」と部屋の入口に歩きながら自分の髪を持ち上げかけたが、ふと気が付いたようにふいと身体の角度を変えた。
それが自分から背中を隠すための行為だと分かると、ノエは「いいよ、そのままで」と苦笑した。
「ていうかもうちょっと見てたい。肩甲骨が動くところってなんかそそるよね」
冗談めかして言えば、振り返ったほたるがじっとりとした目を向けてきた。
「……傷痕を気にしないでとは言ったけど、卑猥な目で見ろとは言ってないよ」
「卑猥な目では見てない。見たらやらしい気持ちになっただけ」
「ほぼ同じじゃん」
呆れたように言いながらドア横にあるウォールハンガーにかかっていた上着に袖を通し、前のファスナーをジャッと閉める。完全に肌が見えなくなったその姿に、ノエは「この流れで着るの……?」と信じられないものを見たとでも言いたげな顔になった。
「折角ならこう、出発を遅らせようみたいな気持ちにはならない?」
近付きもしないほたるに、ノエが立ち上がりながら問いかける。
「ならないよ。エルシーさんのこと待たせちゃう」
「いくらでも待たせればいいよ」
ノエはほたるの傍まで歩いてくると、両手を壁に付いてその中に彼女を閉じ込めた。そしてその体勢でにっこりと笑いかけるも、ほたるの目はじっとりとしたまま。それでもノエが顔を寄せようとすると、「その手には乗らない」とぴしゃりとした声がその動きを阻んだ。
「その手ってどの手」
「なあなあにして延期を狙ってるでしょ」
「……もう少し鈍くてもいいんだけど」
どうしてこういうことも気付いてしまうのかと、ノエが不満げに口を尖らせる。「本気じゃなかったくせに」笑いながら付け足されたそれにぐぐっと渋面になって、ノエは「……やっぱり鈍くなってよ」と弱々しい声でぼやいた。
「そろそろ行かないと」
ノエの態度にほたるは全く動じず、するりとその腕から抜け出した。寝室へ向かい、荷物を持って戻ってくる。
その姿にこれはもう完全に行く気だと悟ると、ノエもまた渋々動き出した。ほたるの手から荷物を引き取ってドアを開け、二人で屋敷の入口へと向かう。
広い屋敷でも話しながら歩けばすぐに出口に辿り着いて、ノエは不機嫌を隠しもせず眉根を寄せた。
「――じゃあ、行ってくるね」
大きな扉を背に、ほたるがノエに笑いかける。
「俺のこと忘れないでね」
「一日で忘れる記憶力だと思われてる……?」
「楽しいことがあったらそっちに夢中になっちゃうかもしれないでしょ」
ノエが不貞腐れたように言えば、ほたるは「確かに」と笑った。
「でもちゃんと帰ってくるから」
「知ってる」
答えながら左手でほたるの頬に触れ、ノエが彼女の顔を自分の方へと引き寄せる。
「いってらっしゃい」
口付けの後に送り出す言葉を告げれば、ほたるは嬉しそうに微笑んだ。
後日譚 −完−
最後までお付き合いくださりありがとうございます。5、6万字程度にしようと思ってたら20万字と、前篇・後篇と変わらないボリュームになってしまいました……。
本編ではノエがなかなかヤバい癖を持ったまま終わっていたので、そのあたりが良い方向に向かいそうな感じにしたく(途中だいぶ悪化したけど)。
ネタとしてはスヴァインが実際どういう行動をしていたのかとか、アイリス周りのあれそれとか、ついでに麗や壱政関連の話とか結構いっぱいあるのですが、一旦一気に書くのはここで終わりとなります。
とはいえ急に単発の番外編として書くこともあるかもしれませんので、その時はお越しくださると嬉しいです(´ч` *)