〈14‐2〉殺される前に、壊せ
――ほたるはリビングにいた。外界にある家の、見慣れたリビングに。
そこには幼いほたるもいた。だが、いつもと違う。ソファの前、すっかり定位置となっている場所に座って絵を描いているが、彼女の左腕はアームホルダーで固定されているのだ。
そのせいで片腕しか使えず、クレヨンを動かすたびに画用紙が動いてしまっている。思うように描けない〝ほたる〟はそれでもどうにか描こうと右手を動かしていたが、少しすると苛立ったようにクレヨンを投げ捨てた。
『おとうさん……』
ぽつりと、悲しげな声が落ちる。〝ほたる〟は涙目になりながら投げ捨てたクレヨンを拾うと、再び画用紙に向かい始めた。
〈ほたる、今どこ?〉
「リビング。腕怪我してて、一人で絵描いてる。でも……」
ほたるが言葉を止めたのは、そこに描かれた絵がいつもと違ったから。夜を表現するために黒をたくさん使う普段のそれとは違って、今描いている絵は明るい色合いをしている。
人のような形のものが三つ。大きな二つと、小さな一つ。背後にあるソファの色と同じ大きな塊、上の方には水色。
「家族の絵だ……」
家の中だというのに青空が描かれているあたりが自分らしい。うまくバランスの取れていない人物部分は、それでも髪の長い二人は笑顔だと分かった。けれど、もう一人の顔はない。どうやら〝ほたる〟はそこを描こうとしているのにうまくいかないらしい。
『おと、さ……』
涙声だった。『かえってきて……』震える声が物語るのは、父が不在にしているということ。
「お父さん、長く帰ってきてない……?」
〈もういなくなった後?〉
「分かんない。こんなの知らない」
こんな記憶はない。父がいなくなってから、その不在を恋しがった記憶はない。というよりそもそも、腕にこんな酷い怪我をしていたことすらも知らない。
思考がうまく働かずとも、知らないということだけは分かる。そしてそれが、おかしいということも。
「なんで……なんで知らないの……?」
今は記憶を辿っているはずなのに。記憶を辿れば思い出せるはずなのに。
〈大丈夫だよ、落ち着いて。まだ見つけてないだけ。ゆっくり探せばいい〉
落ち着く声が、ほたるの呼吸を楽にする。
〈お父さん、そろそろ帰って来るんじゃない?〉
その声が聞こえた直後、景色が歪んだ。そしてリビングの風景が一瞬にして真っ暗な、少し狭い部屋のものへと変わった。
ここはほたるの部屋だ。子供らしい柄のシーツがかけられた布団の中で、幼いほたるが眠っている。
かと思えば〝ほたる〟はぱちりと目を開けて、不思議そうな顔で身体を起こした。
『だれ……?』
両手で目を擦り、ドアの方へと目を向ける。左腕の動きが少しぎこちなく見えるのは、この記憶は怪我が治った直後のものだということだろうか。
ぼんやりと考えながら、幼いほたるの動きにつられるようにほたるも同じ方を見る。するとそこには、それまでなかった人影があった。
『おとうさん!』
ほたるがその正体を認識したと同時に、〝ほたる〟が歓喜の声を上げる。
『おかえりなさい! どこいたの?』
ベッドの上を這って進もうとする〝ほたる〟に父は近付いていくと、『ほたる』と呼びながらそこに腰を下ろした。
『なあに?』
『……ほたる』
重たい声だった。切実で、真に迫るような声。幼いほたるが少し怯えた顔をしたのは、そんな声色の人間を見るのが初めてだからだろうか。『おとうさん……?』不安げに声を発せば、父の眉間に耐えるような力が入った。
『お前から父親を奪って悪かった』
その言葉に〝ほたる〟は首を傾げるだけ。「お父さん……?」ほたると小さなほたるの父を呼ぶ声が重なる。ほたるはそれ以上何も言えなかったが、〝ほたる〟は違った。
『どうしたの……? どこかいたいの……?』
〝ほたる〟が父の顔に手を伸ばす。相手の発言を理解できないからこその問い。問われた父は〝ほたる〟の小さな手を掴むと、その瞳を紫に変えた。
『お前は俺を知らなくていい』
紫色のそれに見つめられ、〝ほたる〟が動きを止める。
『だから見つかるな。誰にも殺されるな。アイリスの血を持つ者達に、お前達は渡さない』
父の口が淀みなく動く。子供には到底理解できない言葉、そして暗く重たい音。『もし殺されそうになったなら――』水底に沈殿した泥のような声が、恨みとも執念とも取れる鬱屈した感情をほたるに伝える。
『――殺される前に、壊せ』
そこにはもう、父の姿はなかった。恐ろしい黒い影が、紫色の冷たい瞳で〝ほたる〟を見つめている。
そんな恐ろしい存在をぼんやりと見ていた〝ほたる〟は突然糸が切れたように崩れ落ちて、ほたるもまた闇に放り出された。
「っ……何……!?」
見渡す限りの暗闇。家の中にいたはずなのに、周りには何もない。
〈どうしたの?〉
「暗い……真っ暗で、何も見えない……!」
〈周りに何もない?〉
「ない! 誰もいない! 何もない!」
まるであの黒い影に飲まれてしまったかのような暗さ。父が父ではなくなった瞬間。それを目の当たりにした恐怖と悲しさがほたるを不安にさせる。
〈俺の声は聞こえてるでしょ?〉
「っ……うん……」
〈なら大丈夫。記憶の切れ目に入っちゃっただけだから〉
声に大丈夫だと言われて、ほたるは自分の中の不安が一気に和らいでいくのを感じた。真っ暗で何も見えないのは変わらないが、そこに先程までの恐怖はない。それどころか全身が何か温かいものに包まれたように思えて、ほたるの身体から力が抜けた。
「切れ目……?」
〈そ。だから問題ないよ。ほたるは何が知りたい? 何を見たい?〉
「私、は……お父さんが、なんでいなくなったのか……」
けれどそれは、たった今見た。父がいなくなる瞬間を見た。知りたいのは、そうなった経緯。それを知りたいと思うのに、何を見ればいいのかが考えられない。
〈ほたるは怪我が関係あるんじゃないかって言ってたよ〉
「怪我……」
言われて、思い出す。あの怪我は知らない。自分はあんな怪我をしたことがない。
そう、思った時だった。
「―――っ!?」
視界が開けた。明るくなったのだ。そこは、これまでいたほたるの部屋。しかしこれまでとは違って明るい、日中の部屋だ。
そこには〝ほたる〟がいた。まだ怪我をしていない、幼いほたるだ。
〝ほたる〟は何故か床に自分の描いた絵を並べて、何かを考えるように口を尖らせながらそれを見ている。
『おひさま……くらい……すける?』
ぽつりぽつりと呟かれるのは、それぞれ独立した単語だろう。絵を並べ替え、観察し、また首を捻りながら絵の配置を変えている。
〈暗くなくなった?〉
どこからか聞こえる声に、「うん」と答える。
「自分の部屋で絵を見てる。確か……骨の場所を描きたくて……」
ほたるの口から勝手に言葉が出ていく。こんな光景は知らない。いや、知らなかった。けれど今は、知っている気がする。
『〝黒い谷の底の、陽の透ける場所。黒の子はそこに骨を隠した。誰もそこには近付けないから〟』
そうだ、父が言ったのだ――耳の奥を過った声に、ほたるは己の記憶が蘇ったことを知った。
父から聞いたのは、黒の子が二つの月を落とした後の物語。けれど自分はその言葉が示す光景が想像できなくて、絵にするためにそれまで描いたものを観察していたのだ。
ほたるの中にその答えが浮かんだ直後のことだった。幼いほたるが『あ!』と思い付いたような声を出して、一枚の絵を拾い上げた。
そうして彼女が向かったのは窓だった。けれど小さなほたるには届かない位置にある腰高窓で、ぴょんぴょんと跳ねるも指先しか触れられない。そこで〝ほたる〟は近くにあった椅子を窓の下に引っ張ってくると、その上によじ登った。
「あ……」
危ない、とほたるが思ったのは最初だけ。引違いの窓は片側の半分が開いていたが、〝ほたる〟が求めているのは閉まっている方だと分かったからだ。
この時じゃない……?
蘇りつつある記憶と、目の前の光景。一致しないそれらにほたるが困惑している間にも、幼いほたるの行動は続く。
先程拾い上げた絵の向きを整え、ガラスに押し当てる。まるで陽の光に透かすような行動だったが、暗い色のクレヨンで塗り潰された画用紙はあまり光を通さない。
『んー?』
こてん、と〝ほたる〟の首が傾く。『なにいろ……?』難しい顔で呟いた時、〝ほたる〟の手からするりと絵が逃げた。
『あ』
画用紙の絵は、重なった二枚のガラスの隙間から網戸に引っかかった。しかしもう手は届かず、〝ほたる〟がそれを取ろうと窓を完全に開ける。けれど窓ガラスの動きと共に画用紙が網戸との間で丸まってしまったから、〝ほたる〟は網戸もこじ開けた。
『あ、だめ!』
支えを失った絵が、外へ。その先の転落防止用の柵すらもうまく抜けて、ひらりと地面に落ちていく。〝ほたる〟がその絵だけを追って、柵の上へと身を乗り出す。
「っ、危ない!」
ほたるが慌てて小さな背中に手を伸ばす。だが、触れられない。記憶の傍観者であるほたるに、その記憶の登場人物に関与することはできない。
〈どうしたの?〉
「落ちる……!」
声に迷わず答えられたのは、今度こそその先に起こることを思い出したから。そして案の定、小さな子供は窓の外へと落ちていった。
「あ……」
ドンッ――鈍い音がほたるの耳朶を打つ。慌てて窓に駆け寄ろうとすれば景色が一気に変わって、鼓膜をつんざくような子供の泣き叫ぶ声がほたるを襲った。




