〈7-3〉それでしょ、どう考えても
ゆらゆらと、ゆりかごのような振動がほたるを微睡ませる。身体を包む少し冷たい熱が気持ち良く、懐かしい。
思い出すのは子供の頃のこと。もう何年も会っていない父に抱かれた時も、こんな心地良さを感じた気がする。
……いや、勘違いだろう。父に抱かれたことはない。だけど、思う。
お父さんは今どうしてるだろう。お母さんが一人なら、傍にいてくれているだろうか。
母への心配が、ほたるを眠りから引き戻す。もっとこの熱に包まれていたい。けれどこれが本当に父なら、母に返してあげなくては――ぼんやりとそう思いながら目を開ければ、見覚えのある天井が見えた。
次に、青。くすんだその青は、最近よく見る気がする。
「あれ……?」
ほたるがこぼせば、青色がゆるりと動いた。
「起きた?」
その声の後に数回揺れて、身体から熱が離れていく。ほたるの身体を支えたのはベッドだ。ここ数日を過ごしている、借宿のベッド。
寝ぼけて働かない頭で考えれば、ベッドの端が軽く軋んだ。
「大丈夫? 痛いとこない?」
綺麗だな――自分を見つめるサファイアブルーに指を伸ばしてから、はたと止まる。
これはノエだ。ノエの顔だ。男の人の顔に、手を伸ばしている。
そう気付くと同時に一気に羞恥が押し寄せて、ほたるは「うぉあッ!?」と叫び声を上げた。
「そっちから人の顔触っといて失礼じゃない?」
「ぁ……や……っ……ごめんっ……」
ごもっとも、と内心で呟いて。ほたるはキョロキョロと辺りを見渡すと、「私、何が……」と疑問を口にした。
「気絶したんだよ、酸欠で」
「酸欠……?」
「息し忘れてたみたいだよ」
「息を、し忘れ……?」
そんなことあるものか、とほたるは記憶を辿った。が、思い出せない。思い出せるのは男と距離を取ったところまで。苦しさを感じて、視界が暗くなったと思ったら、今だ。その間がすっぽり抜けている。
「あ、でも息ができないと思ったような……」
「それでしょ、どう考えても」
呆れたようにノエが言う。けれどその顔には、少しだけ安堵が滲んでいた。
「全くもう、夕飯行こうと思って呼びに行ったらいないからびっくりしたんだよ。しかも気絶してたから運んだのに、運んでる間に気持ち良さそうな寝息立て始めるし」
「それは……ごめん」
感謝と申し訳なさと、あとは恥ずかしさ。気絶したまま寝始めた自分に何をやっているんだと内心で文句を言っていると、隣に座るノエが「で?」と珍しく厳しい顔をした。
「なんでほたるは壱政と一緒にいたの」
「イッセイ?」
「ほたるが話してた日本人」
「ああ、あの人……」
壱政という名前なのか、とその姿を思い出す。この見知らぬ土地で出会った、初めての日本人。ノエが信用できなくなったら自分を頼って良いと言ってくれた人。
ほたるが記憶を辿っていると、「何か言われた?」とノエがいつもより低い声で聞いてきた。
「…………」
「言われたんだね。全部嘘だよって言いたいけど……あいつ事実ベースで話作るからな。下手すると俺が嘘吐きになる」
ノエが困ったように頭を掻く。その表情もまた同じ感情を示して、口からは深い溜息が吐き出された。
これは演技だろうか。あの人の言っていたように、何かの筋書きどおりの行動なのだろうか。
疑問に思って、自分には判断できない、とほたるは首を振った。ノエがどこまで本気か分からないことなど今に始まったことではない。それなのにその真意を見抜こうとしたところで分かるはずがないのだ。
ただ、壱政という男の言葉を鵜呑みにしてしまうのも違う気がした。分からないからといって他人の言葉に全てを委ねてしまうのは駄目だ。もしそんなことをするようになったら自分で何も決められなくなってしまう。
それはいけないと、ほたるは意を決してノエを見つめた。
「ノエが……」
「うん?」
「ノエが、あの裁判を全部、仕組んでたって……」
「うん」
ノエの相槌を聞きながら、次にどう言葉にしようか考える。けれどすぐにもう必要なことを言ったな、と気が付いた。
しかしそうなると、ノエの相槌がおかしい。
「……『うん』? 今の『うん』って相槌?」
「いや? それは事実だよっていう肯定。ていうか裁判のこと言ってなかったっけ?」
「ッ、聞いてない!!」
慌ててほたるが声を上げる。
なんでそんな大事なことを言わないんだ。なんでそんなにケロッとしているんだ――言いたいことは山程あるが、そのほとんどが怒りによるものだ。こちらはノエのことは信用できないかもしれないと悩んだのに、その原因となった事柄について当の本人が重要視していないように見えるのは何事だと怒鳴りたくなる。
けれど、怒鳴り声は出なかった。代わり出たのは、「だって……!」という弱々しい声だ。
「あの人、壱政さんは……ノエが私の保護のふりして何かしてるって……! そのために裁判の流れも仕組んだんじゃないかって……!!」
「あー……そういう見方もあるね?」
「本当なの……? じゃあ、忙しいっていうのも嘘なの……?」
あっさりと繰り返される肯定に、ほたるの怒りが萎んでいく。ああ、やっぱりこの人は信じちゃいけなかったんだ――失望がほたるの力を奪って、どこからか悲しみを連れてくる。
「忙しいっていうのは本当だよ。ほたるの保護に関連してあちこち出てるからさ。けど細かいことは伏せてるから、あいつから見たら保護って名目で何か別のことしてるように見えたのかもね」
「なら、裁判のことは……? さっき、事実って……」
訳が分からなかった。ノエが忙しいと自分に言ったことは、嘘じゃなかったという安堵はある。けれどノエは壱政の話を完全には否定していない。それどころか肯定している。何がどこまで信じて良くて、どれを嘘かもしれないと疑うべきなのか、全く分からなくなる。
「あの裁判はね、俺と裁判長との間で事前に筋書きが決まってたんだよ。最初っからほたるは無実だってほぼ確信があったからね。でも本当にそうかはほたるの認識を確認しなきゃだから、そのためにほたるにはあの場で証言してもらった。俺と裁判長が個人的に話を聞いたってするより、あの場にいる全員に証人になってもらった方が良いことだらけだったから」
ノエの言葉が壱政の話を肯定する。一つ疑うべきものが減ったという安堵は、同時に生まれた疑問で塗り潰された。
「……ノエの都合で、私はあんな怖い思いをしたの?」
無実だと分かっていたのに。自分に公の場で話をさせるために、ろくな説明もないままあんな場所に押し出されたのか。
ノエの説明が示した事実に、ほたるの声が尖る。
「そうなるね。その方がほたるも偽証ができなくなると思ったし」
「ッ、なんで……! やっぱり私のこと利用したの!?」
叫ぶように言えば、ノエは「うん」と平然と、落ち着いた声で頷いた。
「俺達の本命はクラトス様でね。どうしてもあのおっさんを被告人台に引っ張り出したかった。でも普通に呼んでも来るはずがないから、だからほたるの裁判ってていで来てもらった」
ノエが真っ直ぐにほたるに告げる。その声を聞きながら、ほたるの脳裏にはあの裁判の記憶が蘇った。