〈12-3〉駄目、寝ちゃう
「――ノエはゼキル達に何をしたの?」
思い出したようにその質問をされて、ノエは口をあんぐりと開けた。「……それ今聞く?」尋ねたのはこの状況のせいだ。自分は今、ベッドの上でほたるに覆い被さっているのだから。
「聞く」
「嘘でしょ……」
ほたるの返事に気が遠くなる。眠そうにする彼女に何度も口付けて意識を引き戻し、やっと眠気が弱まってきたようだと、いざ事に及ぼうとしたらこれだ。
エルシーの執務室から戻って数時間、ほたるはいつもどおり勉強をして、風呂に入って、時間をかけて長い髪も乾かした。つまり今まで聞く時間は十分にあった。それなのに聞いてこなかったし、なんだったらもう寝るつもりでベッドに入ったことも知っている。もしかしたらこれまでずっと考えていたのかもしれないと理解はできるものの、よりによって何故今聞いてくるのか全く理解できない。というより、したくない。
「……後でじゃ駄目?」
「駄目、寝ちゃう」
「そうだろうね……」
はあ、と深い溜息を吐きながら、ノエは仰向けで寝転がるほたるの頭の隣に顔を埋めた。柔らかい枕の感触が恨めしい。本来なら自分を受け止めてくれるのは別のものだったのにと思いながらも、必死にその邪念を振り払う。
せめてもの抵抗でほたるの上から退かずにいるが、そのせいで余計に虚しくなるような気もする。だからと言って離れてしまえばほたるはもう本格的に話す体勢に入ってしまうから、ある意味では身動きが取れない状態とも言えた。
もう少し遅ければ押し通せたのに――思ったが、それでもほたるに止められればどうせ同じことだったと分かるから、再び深い溜息が口から出ていく。
そんなノエにほたるは「……なんかごめんね?」と謝罪したが、続いたのは「だってどうしても気になるから」という最初の質問に答えることを求めてくる言葉だった。
「まだしてない方はいいけど、もうした方は別。ずっと考えてたけど、最近ノエがしたことってクラトスに手紙出しただけじゃん。他は見張りがいるから何もしてないでしょ? だからやっぱり無理だと思って」
真剣な声色に、ノエがのそりと頭を上げる。そうして覗き込んだほたるの顔は難しそうな表情をしていて、それだけ頑張って考えていたのだろうな、と苦笑がこぼれた。
「ほたるの言うとおりだよ。手紙出しただけ」
「じゃあなんで治安まで悪くなるの。どうせノエが何かしたからでしょ?」
ムスッとしているのは何故そんなことをするのかという不満か、それとも単純に分からないことが悔しいのか。きっと両方だろうと思いながら、ノエは「治安の方は俺じゃなくてクラトスのおっさんがやったんだよ」と答えを与えた。
「そうなの?」
「そ。そもそもあれはきっかけさえあればいつ起こってもおかしくなかったから、クラトスはそのきっかけを作ったんだろうね。ちなみに俺は〝アイリスの刷り込みがなくなったことを利用すれば、そっちがやりたいことする時に楽じゃない?〟って提案しただけ。刷り込みのことはあいつも麗から聞いて知ってただろうし」
「そんな提案したならノエがやったようなものじゃん」
ぐぐっとほたるの眉間に皺ができる。「誘導しただけだよ」と笑えば、「ほらやっぱりノエだ!」とほたるが語気を強めた。
「でもなんでクラトスがそんなことするの? っていうかあの人は何をしたの?」
「ゼキル達の隠れ家を襲ったのがクラトスだよ。ま、本人はあんまり手を動かしてないだろうけどね。ゼキル達に恨みを持つ奴らを煽って襲わせて、あらかたぐちゃぐちゃにさせた後に欲しいものを回収しただけだと思うけど」
「欲しいもの?」
「千年戦争時代の品物。あのおっさんも集めてるんだよ」
ほたるに答えながら、ノエの脳裏にはクラトスにほたるとの取引を撤回させた時のことが過った。
『――一応言っとくと、面倒臭くてノストノクスに報告してないことはたくさんあるよ。お前が同胞殺しの騒ぎに乗じて、青軍の連中を怒らせそうなことをしてきたのも知ってる。ってことも踏まえると、妥当どころかお得だと思わない?』
アイリスの命令で戦争時代に強い権力を持っていた者を始末した後、クラトスがその遺品を人知れず回収していたことには気付いていた。それも、何度も。そしてそのことが周囲に知られれば、彼はその遺品を欲しがるであろう者達の怒りを買う。
だからあの時、クラトスは大人しく引いたのだ。あの場ではそうさせるためだけに匂わせたが、結果的にそのあたりの説明の手間が省けたことを思うと、自然とノエの口元に笑みが浮かぶ。しかし一方で、事情を理解したらしいほたるはまた考えるように顔を険しくしていた。
「何か分からなかった?」
「うーん……だからノエは誘導しただけっていうのは分かったんだけど……あの手紙にそんなにたくさん書いたかなって。ほとんど数字のメモみたいな感じで、文章っぽいのはちょこっとしかなかったじゃん」
「そりゃあれ大体座標だったからね」
「……もしかして、ゼキル達の隠れ家の?」
「正解。よく分かったね」
ノエが覆い被さったまま頭を撫でれば、ほたるは不服そうに口を尖らせた。
「なんでそんなの知ってるの」
「アイリスの仕事してた時にね、そういう使えそうな情報は一通り集めてあったんだよ」
「あのヤバノート、そんなにヤバかったんだ……」
「ヤバノートって何」
「手紙書く時にノエが見てたノート。ストレス溜まった人がめちゃくちゃにペンを走らせたみたいなあれ」
「……俺には読めるメモなんだけど」
酷い名前をつけられたと、ノートの数ページを頭に思い浮かべる。確かに綺麗な横書きではないし、稀に、いやそこそこの頻度で文字同士が重なっているが、それでも十分に読めるのだ。
だがほたるは「文房具屋の試し書きみたいだったよ」とノエにはよく分からないことを言うと、「でも意外だったな」と顔を綻ばせた。
「ノエだったらなんかこう、そのへんの紙の切れ端に書いてそうだと思ってたから。ちゃんとノート使うんだね」
「それやるとすぐその紙どっか行っちゃうんだよ。拾われたら拾われたで落書きだと思われて捨てられるし。だからちゃんと失くしにくいのにした」
「あ、そういう……。まあ、内容を読まれるよりはいいんじゃない……?」
呆れ顔をしたほたるが何を考えているかはノエにもすぐに分かった。「だらしないって思ってる?」拗ねるように言えば、「ちょっとだけ」とくすくすと笑い声が返ってくる。
「だけどあれは落書きじゃなくて、ちゃんと文字だったんだっていうのは代筆しながら理解できたよ」
「ほたる、俺の字読めるようになったの?」
「なんでそんな嬉しそうなの?」
「だって初めてだから、そんな人」
「……それでどうしてもっと綺麗に書こうって思わないの?」
「ちょうどいいじゃん、人に見られたくないメモなんだし」
自分にだけ読める文字というのは案外便利なのだ。暗号なんてものを使わなくても、ただ考えたとおりに書けばいいだけ。読める文字を書けと散々周りに怒りを浴びせられるが、それも次第に諦められていつしか書類仕事はほぼ免除されるようにもなった。
だから今更綺麗な文字を練習しようなんて思わない。自分を理解して欲しいと思う人が読めるのなら尚更だ。
そう思ってノエが頬を緩ませていると、ほたるが不安げに「見られたくないのに見て良かったの?」と問うてきた。
「ほたるならいいよ。でもほたるからしたらあんまり内容は知りたくないかもね。大抵誰かの秘密だから」
「……見ないようにする」
ほたるが渋面になったのは、やはりそんなものは知りたくないと思ったからだろう。彼女らしい反応に笑いつつ、これで質問は終わりだろうかと考える。そして最初の疑問にはしっかりと答えたなと思い至ると、ノエは「ってことで、そろそろ……」とほたるのシャツの中に手を入れた。
「まだ話は終わってないよ」
「……いいじゃんもう」
情けない声が出た。もしや表情もそうなのかと、口付けるために寄せていた顔をほたるの首元に埋めて隠す。もう勘弁して欲しいと柔らかい腹を撫でて意思表示すれば、「やらしい触り方しないで!」と叱責された。
「……まだ駄目?」
「駄目。だってまだクラトスに手紙出したとこまでしか聞いてないもん。ノエがあの人の欲しがる情報を教えたっていうのは分かったけど、それでなんであの人がこんなタイミング良く動いたの?」
ああ、今回のほたるは全てきっちり知りたいらしい――ノエはまだ話を終えられないことを悟ると、「……それはお願いしたからだよ」と溜息混じりに答えた。
「やるならこの時期に合わせて欲しいって手紙に書いたの」
「それでやってくれる? ノエのお願いなんて聞いてくれるような人じゃないでしょ」
「だからあのコイン入れたんだよ」
ノエが答えれば、ほたるはあっと思い出した顔をした。コインというのは千年戦争時代に作られた権威の証だ。その価値をノエの説明で知っていたほたるは納得したように目を動かしたが、やはり完全には腑に落ちないのか、「それでもよくやってくれたね……」と呟いた。
「そりゃあのおっさんには得しかないから」
「そうなの?」
「そうだよ。クラトスはこれでゼキル達の弱味を握ったから、自分が問われてる罪を不問にしろって要求できる」
「……それって、いいの? 勿論良くないことなのは分かるんだけど、その……私にとっては大丈夫?」
不安げに眉尻を下げるほたるに、ノエが「大丈夫だよ」と微笑んで唇を軽く合わせる。「俺がほたるの不利益になることするワケないじゃん」続けた言葉にほたるはほっとしたように息を吐き出したが、まだ眉間の力は抜けない。
「でも、仕返しとか……ノエが自分に都合の悪いこと知ってるって分かってるなら、口封じ的な……」
「仕返しはないよ。そんなことして周りに知られたらクラトスの面子が潰れるだけだし。口封じはー……ま、大丈夫じゃない? 下手に手を出したらあいつの欲しいものが手に入らなくなる」
ノエが考えながら答えると、ほたるは「欲しいもの?」と不思議そうに首を捻った。
「あのコイン、俺がまだまだたくさん持ってるかもしれないでしょ?」
「持ってるの?」
「クラトスはそう思ってる。そうでもなきゃ持ち逃げの危険があるのに手紙に入れないだろってね」
「本当は?」
「まだ内緒。ほたる顔に出ちゃうから」
愛でるように頬を撫で、「はい、もうおしまい」と終わりを告げる。もうこれ以上は聞かないとばかりにノエがほたるの首筋に唇を押し当てれば、「待ってまだ!」と慌てたような声が上がった。
「クラトスが本当に戻ってきちゃったら、」
「ほたる」
顔を上げ、ほたるの目を真っ直ぐに見つめる。
「何」
「俺ね、あのおっさん大嫌いなの」
「知ってる」
「あとほたるがあのおっさんの血たくさん飲んだこと、今でも考えるだけで物凄く気分が悪くなる」
「……それは知らなかった」
ほたるの顔が強張ったのは、自分が何を言いたいのか分からないからだろう。ノエはそんなほたるの反応に加虐心が刺激されるのを感じながら、笑みを我慢して不満げな表情を作った。
「だからあんまほたるの口からあのおっさんの名前が出てくると、黙らせたくなってきちゃうんだけど」
「……ごめん黙る」
「もう遅いよ」
そう言ってノエが楽しそうに笑いかければ、ほたるはぎくりと顔を引き攣らせた。