〈10-4〉ずっといっしょがいい
〈そんなものはいい!〉
聞いたことのない声に、ほたるが思わず固まる。
〈何故捨てた!? 一体どこに捨てた!?〉
〈やめろ!!〉
「っ……!?」
二つの声がほたるの頭に響く。大きな音に両手で耳を塞ぐも、耳の奥にこびりついたそれはなかなか消えない。
――何故捨てた!?
その強い声が、頭の中で繰り返される。
「何故捨てた……?」
〈そうだ、スヴァインは――〉
言葉が途切れる。だからほたるの中に残ったのは、スヴァインという名前だけ。
「スヴァイン……お父さん……捨てた……」
繋がっていく。何かが、ほたるの中で。
父は自分を捨てた。母と自分を残して、ある時急に姿を消した。……いや、違う。
『――やだ! あっちいって……!!』
響いたのは子供の声。高く舌っ足らずな、幼い自分の声。
その声を追えば、ほたるはすぐに声の主の姿を見つけることができた。幼い自分が床に座り込み、泣きじゃくり、ぐしゃぐしゃになった顔で必死に何かから距離を取ろうとしている。
『こないでぇ……!!』
泣き叫びながら逃げる〝ほたる〟の左腕が、不自然にだらんと伸びている。よく見れば顔にも擦り傷があって、衣服も汚れていた。
『忘れろ』
紫色の瞳が〝ほたる〟を見つめる。しかし、相手の顔は見えない。顔が真っ黒になってしまっていて、目だけが浮かんでいるように見える。
『お前は俺を知らなくていい』
紫眼と、その言葉。その人物が記憶を消したのだと、ほたるは瞬時に理解した。そして、それが父だということも。
「お父さん、どうして……!」
父に手を伸ばす。けれど触れられない。届かない。近付こうとしているのに近付けず、その表情をしっかりと確認することさえできない。
〈ほたる、起きて。一回やり直そう〉
「やり直す……」
〈起きて〉
落ち着く声にほたるが身を委ねようとした時、背後に気配を感じた。
『また俺から逃げるのか?』
振り返る。冷たい表情の父が、冷たい目でこちらを見ている。
「っ……そんなこと、してな……」
『いいや、お前は俺を拒んだ』
「してな……っ……ぁ……」
してない、とは言えなかった。父から逃げようとした自分を見たばかりだったから。
『思い出したか?』
そう問うてくる父の顔は、頬の部分が真っ赤だった。
「ッ、嫌ぁあああ!!」
ほたるが悲鳴を上げるほど驚いたのは、その赤が血だけではなかったから。
顔に皮膚がなかった。まるで焼け爛れてしまったかのように、露出した筋肉と血管が父の顔で主張している。
恐ろしかった。その怪我の有り様と、そして、父自身が。全身を強い恐怖が駆け巡って、ほたるの喉から悲鳴を押し出し続ける。
〈ほたる! ▓▓る起き▓!〉
落ち着くはずの声が、自らの悲鳴に掻き消される。
〈▓▓▓▓▓▓!!〉
声が、聞こえない。
「ぁ……や……」
いつの間にか悲鳴が枯れて、ほたるの口からは嗚咽が漏れ出していた。頬が濡れる感触、全身の肌を撫でる恐怖。
『何故怖がる? 俺はお前の父親なのに』
冷たい表情で、父がほたるを見つめる。
『俺はお前を守ろうとしたのに』
そう恨めしそうに言った父の身体は、血まみれだった。顔の怪我のせいではない。返り血のようなそれにほたるが咄嗟に周囲に目を向ければ、父の足元に母を見つけた。
力なく倒れ込んだ、血まみれの母の姿を。
「っ……!? なんで……!」
何故母を殺したのか――浮かんだ疑問に、父が目を細める。
『お前が俺を拒むから』
どういうことだと、ほたるが問いかけることはなかった。先に父が言葉を続けたからだ。
『さっさと殺してしまえば良かった。お前のせいで澪まで殺す羽目になった』
「え……?」
『お前が、澪を殺した』
「ちがっ……ちがう……!」
自分は殺していない。母を殺したのは父の方だ。母の首に牙を突き立てて、その血を飲んで食い殺したのだ。
『なら、それは?』
父の目がほたるの手を示す。視線を追いかけたほたるがそこを見れば、いつの間にか手の中には銃があった。そして、撃った感触も。
「何……?」
混乱のままに視線を泳がせて、母の遺体が目に入る。血まみれの母。その胸に、銃創と思しき傷。小さな穴からこぼれるように血が流れて、母の全身を真っ赤に染め上げている。
「嘘……やだ……やだ……」
私が撃った? 私が殺した? ――殺意の記憶が、鮮明に蘇る。
あの強烈な殺意は誰に向けたのだったか。銃口の先には誰がいたのだったか。
白い人影が一瞬だけ浮かんで、すぐに母の姿になった。
「ぁ……」
私が殺した。私が撃った。
「や……ごめ、なさ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!」
手が震える。その手で自分の肩を抱き込む。
やけに低い視界。謝罪の声の高さ。いつの間にかほたるの身体は幼い〝ほたる〟そのものになっていたが、狼狽するほたるには気付くことはできなかった。
『俺と来い、ほたる』
父が手を伸ばす。もう、血はない。顔の怪我もない。
「ゆるしてくれる……?」
幼い声が、ほたるの口から。
『ああ。全部忘れてしまえばいい』
「ひと、ひとりは……や……」
『一人じゃない、俺がいる』
それは、なんて頼もしいのだろう。大好きな父が一緒にいてくれると言うのなら、こんなに心強いことはない。
「もう、おこってない? ……ほたるもつれてってくれる?」
怖い父はもういないのだろうか。もう、あんな冷たい目で自分を見てくることはないのだろうか。
『お前が俺の言いつけを守れるなら』
「まもる。できる」
父の手を取る。近付いて、その足に抱き付く。何かを忘れているような気がしたが、すぐにどうでもよくなった。
「ずっといっしょがいい」
〝お父さん〟がいれば、もう他に何もいらないから。