〈8-3〉それは犬だよ
しばらくして、ほたるはもう一度記憶を探ってみることになった。記憶を見ることで自身の身に起こる症状は辛かったが、やはり知りたいという気持ちが勝る。
前回と同じようにエルシーとペイズリーを呼び、そして書記官も来たのを見たところで、ほたるは申し訳ない気持ちになってエルシーを見た。
「すみません、なんか毎回大事になっちゃって」
「構わないよ。ついでにこちらの欲しい情報が得られるかもしれないからな」
その言葉に彼女も仕事としてやっているのだ、とほたるの気持ちが少し軽くなる。ペイズリーも「ノエに借りを作るのは後々得になるからね」と悪巧みするような笑みで言うものだから、ほたるもつられて笑顔になった。
「それからほたるの言っていたのはこれか? 子供の絵のようなものはこれくらいしか見当たらなかったんだが」
テーブルの上の箱を指してエルシーがほたるに尋ねる。ノストノクスらしくない、プラスチック製のストレージケースだ。
これはほたるの外界の自宅にあったもので、スヴァインに関する調査のために以前からノストノクスに運び込まれていたらしい。ということをほたるが知っているのは、自宅の荷物を探したいと言った時にエルシーに教えてもらったから。
もしかしたら母なら自分の絵を保管しているかもしれないと、それが欲しい理由と共に事前にエルシーに伝えていたのだ。そしてそういうことならと、彼女はそれらしきものを保管庫から探してきてくれたらしい。
しかしこの箱だけ見てもほたるには確信が持てなかった。箱自体には見覚えがあるものの、中身は見たことがなかったからだ。
「どうでしょう、私も見たことなくて……あ、これだ」
不安に思いながら箱を漁れば、中から古いクレヨン画がたくさん出てきた。自分らしい、ぐしゃぐしゃの絵ばかりだ。ほたるは思わず苦笑しながら一枚ずつ見ていって、そして見覚えのあるものを見つけた。
「これがこないだ見た記憶の中で描いてたやつだと思います。この白いのが怪物だから、多分アイリスで……仲間が三人いたんです。赤い月と青い月、それからこの黒い丸」
先日見たばかりのそれと寸分違わぬ絵に、ほたるは感心したように息を漏らした。あの記憶の追体験というのは凄い精度なのだ。人間の記憶はそこまで正確ではないとどこかで聞いたこともあるのに、これを見ているとそれは間違いなのではないかと思えてしまう。
「月というのはお前の反応に合わせたんだったか」
「はい。別で聞いていた赤と青の月の話があったから、それで繋げたんだと思います」
確認するように言うエルシーに、ほたるが頷く。すると横から見ていたノエが黄色い部分を指差して、「これは?」と問いかけた。
「ドア」
「ドア?」
首を捻る面々に、ほたるが父とのやり取りを思い返す。
「黒い子は本当は怪物のところから逃げたくて、でも逃げられなかったから……それで私がいつでも逃げられるようにってドアを描き足したみたい」
この黒い丸は、もしかしたら父なのだろうか。他の二人を赤と青と表現したのは、彼らが戦時中にそれぞれ赤軍と青軍を率いていたからかもしれない。
そんなことを思いながらほたるは他の絵も広げると、「ここらへんの絵からそれっぽい記憶を辿ればいいのかなと思ったんですけど……」と自分の考えを口にした。
「子供の絵だからなかなか読み取るのが難しいな」
「大人じゃ思いもよらない見方をしてるのが子供だしね」
エルシーとペイズリーが絵を持って話し合う。
「あと怪獣みたいなのも混ざってるね。アニメか何か?」
そうほたるに問いかけたのはノエだ。彼の手には明るい黄色で何かが描かれた絵がある。
途端、ほたるが半眼になった。
「それは犬だよ。多分近所で飼われてた子」
「犬……?」
「何か文句ある?」
「いや……」
ぶすっとしたほたるの声に、ノエが目を泳がせる。
「知ってるよ、私の絵が下手だって。学校で散々笑われてきた」
「そんなことないよ、ちゃんと足も四本あるし。尻尾が大きい犬だったんでしょ? ここだけ柄がある犬だったのかな」
「それ顔だけど」
「……顔」
「あとノエが足だって言ったやつ、一本は尻尾だよ。足はこっち」
「……ごめんね」
ノエが気まずそうに顔を強張らせるも、その様子を見ていたエルシーとペイズリーが助け舟を出すことはなかった。知らん顔で自分達の持っていた絵を見続けて、不意にエルシーが「これは?」とほたるに一枚の絵を見せる。
それは赤と青の月がたくさん描かれた絵だった。所狭しと描かれた丸の片隅にはやはり白い塗り残しのようなものがあるが、一部に水色が塗られている。その水色は雫のようにも見える形で、「これがアイリスなら、泣いているのか?」とエルシーが不思議そうに首を傾げた。
「なんだっけこれ……なんか、悲しい話だった気がするんですけど……」
絵を見てもほたるは内容を思い出せなかった。その時の気持ちはぼんやりと思い出したが、何故そう思ったのかまでは浮かばない。
「好き嫌いがあったのかもね。ほたるが覚えてるところは好きだから何度も聞いていて、あまり好みじゃなかった部分は一回きりだったとか」
ペイズリーの言葉に、ほたるもそうかもしれない、と改めて絵を見た。もしこれが悲しい話なら、幼い頃の自分はあまり何度も聞きたがらなかったのかもしれない。
「どうする?」
すっかり気を取り直した様子のノエが問いかける。ほたるは他の絵を見渡すと、ノエに目を向けた。
「これにする」
§ § §
「――……また分からなかった」
帰宅後、ほたるは再び自宅のベッドに倒れ込んでいた。やはり寂しさと頭痛で起きられなくなってしまったからだ。それなのに収穫がなかったという事実を思い出し、「うー……」と不満げな呻き声を漏らした。
「こればっかりはね」
隣に腰掛けたノエがほたるの腫れた目元に湿らせたタオルを当てる。その冷たさに心地良さを感じながら、ほたるは今回のことを思い返した。
「いい線行けたと思ったんだけどな。結局アイリスの話だけで、お父さんのことは何も分かんなかった……」
今回の記憶では、絵に描かれたたくさんの赤と青の月と、涙を流す怪物の話を聞くことができた。事前に狙ったとおりの話を聞くことができたから、その点では良かったと思える。そしてその内容も完全に収穫がなかったわけではない。あくまでノストノクスにとって、だったが。
「ラーシュとオッドは寂しがるアイリスのために血族を増やしたんだっけ。でも結局殺し合いを始めちゃったから意味ないね」
ノエが話を整理するように言う。ほたるが聞いた時点では、増やしたのは〝ともだち〟で、始めたのは〝喧嘩〟だった。しかし実際に起こったことと照らし合わせれば、ノエの言い方の方が正しいのだろう。
絵の中にたくさん描かれていた丸は、月ではなく星だった。赤と青の月が増やした〝ともだち〟――つまり血族を示すもの。白い怪物は赤と青の月が星達と共に争い始めてしまったから、それを悲しんでいたらしい。
「……本当かな、喧嘩の原因が空の色だったって」
おとぎ話の中で、父は二つの月が完全に仲違いしたと言っていたことを思い出す。
『〝――本当の空の色は何色なのか。赤い月と青い月がいなくなれば、空は何色になるのか。赤い月は赤だと言い、青い月は青だと言った。どちらも自分の考えを変えないから、二人はお互いが嫌いになった。長い長い喧嘩の始まりだ〟』
たった、それだけのこと。赤い月と青い月が交互に空を照らすこのノクステルナでは、決して答えの出ない問い。
しかしこれで二人が喧嘩を始めたのであれば、これこそが千年戦争のきっかけなのではないか。このノクステルナ全土を巻き込んだ長い戦争の原因なのではないか。
とはいえたったそれだけが理由で戦争なんて始めるとはほたるには思えなかった。もしやこれは何かの比喩だったのか――難しい顔をするほたるに、ノエが「それはエルシーが調べるはずだよ」と苦笑した。そして、少し視線を落とす。
「だけど事実だったら、ちょっと厄介かもね」
「厄介?」
問い返しながらほたるがノエの顔を見れば、彼は少し真剣な、そして暗さを感じる表情をしていた。最近よく見るこの顔は、ノエがほたるの安全を懸念している時のもの。
だからほたるもつられて同じような表情になって、ノエの言葉の続きを待った。
「戦争のきっかけは誰も知らないんだよ。ラーシュとオッドが始めたってことは分かってるけど、誰もその理由は気にしなかった。それに二人が率いてたのは事実だけど、そもそも彼らはあんまり周りと関わらなかったらしいね。そういう突っ込んだ話ができるような関係だった奴は、少なくとも今生きてる連中の中にはいないはずだよ」
「……変なの。みんな二人を殺したお父さんを心底恨むくらいなのに、その程度の関係なんて」
それだけではない。千年戦争は結局、知り合い同士の殺し合いだ。それなのにノエのこの話では、誰も大した理由なく参加していたように聞こえてしまう。きっかけも知らず、更に率いている者のこともよく知らない。何故そんな状況で見知った人を敵と見做せるのか――ほたるが顔をしかめれば、ノエが力を抜かせるように目元を撫でた。
「人、っていう認識があんまなかったんじゃない? 自分の属している国とか人種とか、そういう概念に近い存在だったんだと思う。ほたるだって前に日本人ってだけで壱政のこと信じそうになってたでしょ? 少なくともその部分で仲間意識みたいなものは持ってたってことだよ。なら同じ理由で誰かに敵意を抱くことだってあるかもしれない。でもみんなそういう元々持っていたものと切り離されちゃったから、あの二人の存在がその代わりだったんじゃないかな」
最後に「あくまで俺の印象だけどね」と付け加えたノエは、この考えを持っていないのだろう。それはほたるを安心させて、少しだけ寂しくさせた。彼が同胞と同じ価値観を共有してこなかったと感じたからだ。今はもうそうしない理由はなくなったものの、やはり孤独だと思えてしまう。
と、ほたるの思考が脱線しかけた時、ノエが「だから厄介って話」と続けた。
「特にお偉いさんとか古い連中にとって、あの戦争のきっかけは凄く価値のある情報だと思う。本当に空の色が原因だったら正直くだらないけど、事実であることが大事だから内容なんてどうでもいいんだよ。情報はバラバラになってる人をまとめることもできる。うまく使えば、それだけで操ることだってね。今回の話が正しければ、ほたるの記憶の中にはそんな貴重な情報が他にもまだまだあるかもって思われるかもしれない。エルシーには先に教えてくれって頼んどいたから、その結果次第ではもうやめた方がいい。そうすればこの件だけたまたま聞かされてたって押し通せなくもないから」
記録を取っている以上、ほたるの記憶はノエが警戒する者達に知られてしまう。しかし記録を取らなければノエが裁判で不利になる。
ならば記録を残さないという選択肢はない。だから、諦めるべきは自分なのだとほたるにも理解できた。「そっか……」状況は把握したと頷いてみせれば、ノエはくっと眉根を寄せた。
「もしやめなきゃいけなくなった時、諦めきれないなら俺の裁判終わるまで待って欲しい。何十年かかるか分からないけど、自由になったら俺がそいつらからも守れるから。……ほたるがスヴァインのこと知りたい理由からすると遅すぎるかもしれないけどさ」
懇願するようにノエが言う。その様子を見てほたるは胸が苦しくなった。ノエにとってはそもそも記憶を探ること自体がしたくないことのはずなのに、こうしてこちらの気持ちを優先しようとしてくれている。
それがどうしようもなく苦しくて、そしてそうしてくれるノエに愛おしさを感じて。ほたるは不調を我慢しながら起き上がると、倒れるようにノエに抱きついた。
「十分だよ。私の我儘じゃ済まないってちょっと理解したし」
「ごめんね、頼りなくて」
「ノエが頼りなかったら私はどうなるの」
そんなに気に病む必要はないと笑ってみせれば、頭痛と怠さがほたるを襲った。それが顔に出てしまったのか、ノエがほたるの身体を支えながら自分ごとベッドに横になる。その際ほたるは自分が一切身体に力を入れなかったことに気が付くと、「ノエは頼りになるよ」ともぞりと顔を上げた。
「だから、ノエが最善って判断したことならそのとおりにする」
ほたるの言葉にノエは少し目を見開くと、「ありがと」と柔らかく笑った。




