〈7-1〉あいつは信用するに値しない
ノクステルナに連れて来られて数日。自分に割り当てられた部屋で、ほたるは本を読んでいた。
これはノエがここにあるらしい図書館から持ってきたものだ。
『ほたる暇でしょ? 本持ってきたからこれで時間潰して』
そう言われた時は読める言語なのか不安に思ったほたるだったが、ノエが用意したのは全て日本語で書かれた漫画だったためそれは杞憂に終わった。しかもそれらはほたるでも名前を知っているくらい名作と言われるものばかりで、ほたるは一日のほとんどを漫画を読んで過ごしている。
近くにノエはいない。彼は最初の二日こそほたると一緒にいて、ここでの過ごし方をほたるに教えたが、その後はあまり顔を見せなくなった。本人曰く忙しいのだそうだ。
その言葉をほたるがすんなりと信じられたのは、一日三度、食事の時だけは彼は絶対に顔を出すから。そしてその際にほたるに困っていることはないかと聞いてきて、何かあれば次に会う時には大抵その問題を解決する用意をしてくるからだ。
とはいえ今のところほたるはそれほど困ってはいない。着替えと、漫画が読み終わることくらいだ。だからノエが用意するのは新しい着替えと新しい漫画だけなのだが、ほたるがあまり意識して伝えなかったことまで考慮した選び方をしてくるものだから、見放されているわけではないと実感できるのだ。
「ああいう人がモテるんだろうなぁ……」
読んでいた漫画をベッドに置きながら、思う。ずっと読んでいるせいで集中力が切れてしまった。時間を確認してまだ夕食には早いと分かると、自然と食事を共にする相手のことが頭に浮かぶ。
ノエは、接しやすい。話していて気が楽だ。それは彼が常にへらへらとして緊張感を抱かせない振る舞いをしているからでもあるし、知らないうちにほたる自身が随分と気を許してしまったからでもある。
だから怖い、とも思う。自分にとってはノエは誘拐犯で、人外の化け物であるという事実は変わりないのに、彼といるとついついそれを忘れてしまう。確かに味方であると公言しているが、あまり気を許しすぎてもいけない。何せノエが自分を守るのは仕事であって、彼の望みではないからだ。
もしかしたら、内心ではノエも私を敵視しているかもしれない――その考えが、否定しきれない。
他の人相手だったらまだ違っただろう。だがノエは駄目だ。彼は本気か冗談かが非常に分かりにくい。つまり真意が見えない。それなのにこちらの気を許させるということは、それだけ彼が人心掌握に長けているのかもしれないと思わずにはいられない。
そしてそう考えると、ノエが自分の保護を命じられた理由まで納得できてしまうのだ。他の誰でもなくノエが選ばれたのは、彼ならば自分を黙らせられると評価されているからだと。彼が暇ならまだしも、こうして食事時以外顔を出せないくらいに忙しいという事実も、その考えを補強する。
それに何の意味があるのかは分からなくとも。ノエに完全に気を許してしまうのは、怖い。
「ああもうやめやめ! 怖がったってしょうがないんだから!!」
そうだ、怖がったところで意味はない。何せ今の自分には彼以外に味方がいないのだ。ノストノクスという組織は証拠品として自分を守ってくれるが、未だにノエ以外の職員と話したことはない。
ほたるはふうと息を吐き出すと、そうだ、と顔を上げた。
「出かけよう」
この部屋の外に。最初の二日が終わった時、ノエは食堂との往復くらいだったら一人でしても良いと許可を出してくれた。一日三度の食事以外に行く理由はなかったため今まで部屋に引きこもっていたが、しかしそれで気分が沈むなら散歩がてら歩いた方がいい。
ほたるは身支度を整えると、そうっと部屋のドアを開けた。右を見て、左を見て、もう一度右を見る。横断歩道かと自分でつっこみたくなったが、そうしたところで誰もいないのでぐっと飲み込んだ。
「……大丈夫、だよね」
ノエに大丈夫だと言われていてもやはり怖かった。裁判所で感じた恐怖はもうだいぶ和らいでいたが、自分の命を狙う者がいるかもしれないという状況は変わらない。
「大丈夫、大丈夫。きっといける」
ノエが言うには、そもそもこの建物には普段、ノストノクスの関係者しかいないのだそうだ。けれどほたるがここに来た時は裁判があった。話題としては結構大きなものだったらしく、それで大勢の傍聴者が押しかけてきていたらしい。
その者達が去ったから以前より危険度が下がったのだとほたるは聞いている。時折職員が見回っているが、未だ怪しい者を見かけたことすらないため、ひとまず狭い範囲なら自由にしても良いという判断が下ったのだそうだ。
だから、大丈夫。何も問題なんて起きない。
ノエから聞いたことを思い出し、自分を叱咤する。心配だった足元は、ノエが着替えと一緒に新しい靴を入手してくれた。このブーツは履きやすく動きやすい。新しい服も最初のような高級感はなく、明らかに新品であるということを除けば着ていてもさほど緊張しない。
だから、大丈夫。何かあってもここまで走って逃げてくればいい。
一瞬で移動する彼ら相手に逃げ切れるかという疑問はあるが、しかしそんなことは考えたところで仕方がない。
大丈夫なのだ。この命を守るのが仕事であるノエが大丈夫だと言ったのだから、きっと大丈夫。
ほたるは自分を勇気づけると、部屋の外へと足を踏み出した。
「……うん、平気。誰もいない」
鍵をかけ、歩き出す。食堂までの道はすっかり覚えてしまった。途中にある窓から見える赤い空も、もう慣れた。夜だという仄かに青い空も見たし、なんだったら部屋から眺める時すらある。
とにかく、食堂へ。人がまばらな館内とは違い、食堂には常に職員がいる。だから他よりも安全だろうと思える。話したことはないが、ここで働いているからには何か問題が起こればすぐにしかるべきところに報告してくれるはずだ。
そうしてほたるが館内を歩いていくと、目的地である食堂が見えてきた。安全に辿り着けたことに安堵する。あとはもうあの中に入るだけだと思って歩いていくと、反対側の廊下に人影を見つけた。
「っ……」
一気に緊張してしまったのは、相手がこちらに歩いてきているから。ノエといる時に人を見かけたことはあるが、こうして向かい合う形になるのは初めてだ。
相手の目的地も食堂なのか、それともほたるが今来た方なのか、すたすたと淀みなく歩いてくる。ほたるは歩を早めて食堂に入ろうかと思ったが、相手の歩く速度から考えて小走りしないとそれは無理だと気が付いた。
どうする? 走る? でも気にしすぎだったら感じが悪いかもしれない。
平静を装いながら歩いていく。あまり見しすぎないように相手の様子を観察すれば若い男だということが分かったが、特に怪しいところは見当たらなかった。
けれど、その髪色がほたるの目を惹いた。緑なのだ。あまり派手な色味ではなく、落ち着いた、抹茶に近い緑。
ここの人って派手髪が好きなのかな――ぼんやりと考える。あまりにぼうっとしていたから、ほたるはいつの間にか自分が相手を凝視してしまっていることに気付かなかった。
「▓▓▓▓?」
「ッ!?」
話しかけられた。見知らぬ男に、知らない言語で。一瞬で目の前にいたということは、きっとこの男が移動してきたのだ。そして、そうしなければならないと思われた――ほたるがギクリと身を固くすれば、男は冷たい目で「▓▓▓▓▓▓▓▓▓▓」と続けた。
「あ、あの……」
どうしよう。何を言われているか分からない。
動揺のあまりほたるが日本語でこぼす。すると男は一瞬怪訝な顔をして、すぐに「ああ、ノエのところの」と合点がいったように日本語で頷いた。
「え? 日本語……」
「日本人なんだから話せる」
「日本人!?」
ほたるの声が興奮で上ずる。何せここに来て日本人には初めて出会ったのだ。吸血鬼に国籍という概念があるかは分からないし、そもそもノエ以外とは話してもいないという問題もあるが、たまに見かけるのはアジア人とは違う容姿の人ばかり。ここには日本人がいないのだろうと勝手に思い込んでいたものだから、突然現れた同郷の者に興奮せずにはいられない。
「あ、の……えっと……あ! こ、ここで働いてる人ですか!?」
何を聞いていいか分からず、とりあえずノストノクス側かどうか確認しよう、と問いかける。
「ああ」
「じゃああの、怖くない人ですか!?」
「は?」
「あああああごめんなさい! 間違えました!」
どうしよう、興奮しすぎて頭が回らない。
ほたるは頭を抱えると、気持ちを落ち着けるように何度か深呼吸した。その間、男はほたるを待ってくれていた。というよりも、怪しい人物を前に様子を窺っていると表現した方がいいかもしれない。怪訝そうに眉をひそめ、ほたるを観察するように目を動かしている。それがまるで自分をここから放り出すかどうか考えているような顔に見えて、ほたるは慌てて「すみません、ノエ以外と話すのは初めてで!」と弁解を口にした。
「ノエっていうのは……あ、知ってますよね。さっき名前出してたような……」
「ああ」
どうしよう。この人、受け答えが短い――もしや機嫌を損ねてしまっただろうかとほたるは見てみたが、無表情に近い相手の顔からは読み取ることができなかった。分かったのは、この人物は確かに日本人らしい顔立ちをしているということだけだ。塩顔というやつだろうか。緑という派手な髪色もよく似合っているが、どことなく冷たい印象を受ける面差しだ。
そして、愛想笑いは一切してくれそうにない。
「それで……その、私、神納木ほたるっていいます。お兄さんには日本の方なんですよね? もしよろしければ、少々お話ししていただきたいなと」
緊張がほたるの興奮を静める。代わりにほたるの中に芽生えたのは、この人物の話を聞きたいという欲求だった。
何せ裁判以来、ノエ以外の話を聞いていない。だから彼がどこまで本当のことを言っているか分からない。保護してくれている人物を疑いたくはないが、全て鵜呑みにできるほどほたるは能天気ではいられなかった。
そのせいか、相手を見るほたるの目は自然と縋るような目つきになった。そんなほたるを、男が切れ長の目で見つめる。元々の冷たい顔立ちは無表情のせいで更にその冷たさが強調されて、ほたるに一層の緊張感をもたらす。
「馬鹿じゃないみたいだな」
ややしてから、男が呟く。「……馬鹿じゃないです」失礼ではという気持ちを込めてほたるが答えれば、男はふっと微かな笑みを浮かべた。
「ノエが信用できないか?」
「え?」
「そう思っているなら正しい。あいつは信用するに値しない」
一瞬だけ見えた笑みはもう消えて、男はまた無表情でほたるに告げる。そこからはやはり感情が読み取れないが、その内容は男とノエが険悪であるとほたるに思わせた。
「ノエと仲が悪いんですか……?」
「何も聞いていないんだな」
男の反応がほたるにはよく分からなかった。ノエと仲が悪いかどうか聞いたのに、何も聞いていないとはどういうことだろう。
ほたるが目線で男に補足を求めれば、彼は「あの裁判には俺もいた」と続けた。
「あの裁判って……」
「お前が疑われていた裁判だ。とんだ茶番を見せられたよ」
「……茶番?」
どういうことだろう、とほたるの眉間に皺ができる。茶番の意味は分かる。だが、男が何を指して茶番と言っているのか分からない。
何をどう聞き返せばいいのか思いつかないでいるほたるに、男が冷たい表情のまま口を開いた。
「あれは全て、奴が仕組んだものだ」