〈6-3〉……未遂だから許して
外界での墓参りを終えてほたるが家に帰ると、そこには誰もいなかった。その理由は知っている。ノエは今尋問中だからだ。
帰宅時間が決まっていなかったため、エルシーがノエの予定を調整したらしい。彼女はその理由までは言わなかったが、恐らくノエがこちらの帰宅を待って落ち着かなくなるのを見越したからだろう、とほたるは考えていた。出かける前に予定が変わったことだけを知ったノエはかなり不満そうだったが、家に誰もいないということはきちんと受け入れたようだ。
意外と大丈夫なのだろうか――ほたるはノエの状態を考えながらソファへと歩いていった。そのままそこに座ろうとして、直前で止まる。そういえばだいぶ汗をかいたのだ。日本の初夏は蒸し暑く、夜だというのに湿った空気が汗を蒸発させてくれないものだから、体中がしっとりと湿ってなかなかに不快だった。
試しに腕に触れてみれば、ペタッと手のひらが肌に吸い付く。これは先に風呂を済ませてしまおうとほたるが浴室に向かおうとした時、部屋のドアが開いた。
「あ、ノエおかえ――」
おかえり、という言葉は最後まで言えなかった。ノエがいきなり抱きついてきたからだ。ドアが開いた瞬間、目を合わせる時間すらなく。匂いか何かで自分の帰宅を知っていたのだろうとは思うが、流石に相手が誰かを確認することなくこんなことをしてくるのはどうだろう。
ほたるは自分の身体をぎゅうときつく抱き締めてくるノエに呆れたような息をこぼすと、「ただいま」とその背に手を回した。
「……おかえり」
「拗ねてる? こんな死地から帰ってきたみたいな出迎え方しなくても……」
「俺にとってはそうなの」
言葉と共にノエの腕の力が強くなる。ほたるの頭に顔を擦り付け、かと思えば大きく息を吸う。それが深呼吸だということはほたるにも分かったのだが、今この至近距離でそんなことをされるのは少々、いや、かなり困る。
「あの、ちょっと離れて欲しい。結構汗かいたからベタベタだし、汗臭いかも……」
「これはこれでアリ」
「え」
「匂い強いからここにいるって感じる」
「汗臭いってことじゃん! やめてよ!!」
慌ててノエから離れようと腕に力を入れる。が、動かない。全く動かない。更に耳元ではノエが息を吸う音までも聞こえるものだから、ほたるの目には涙が溜まった。
「シャワー浴びてくるから! 早く離して!」
何故こんな羞恥を味わわされないといけないのか――力いっぱい叫ぶほたるの身体が、突然浮いた。
「後にして」
「え? ちょっ、やめっ……――」
§ § §
「……そんなに離れなくても」
壁際に縮こまるほたるに、ノエは眉をハの字にした。今のほたるはシャワーを浴びて、髪はまだ湿った状態。折角綺麗になったのに床に座るのは良くないだろう、とノエは「こっちおいでよ」とソファから呼びかけたが、ほたるは「やだ」と視線を鋭くしただけだった。
「だって私何度も嫌だって言ったもん。なのにノエやめてくれなかったじゃん。汗臭い自覚あるのにあっちこっち嗅がれる私の気持ちを少しは考えて」
「ごめんね。なんか無性に興奮して……」
「変態!!」
ほたるが力いっぱい罵倒すれば、ノエはへにゃりと頬を緩めた。
「なんかいいね。それもう一回言ってくれる?」
「ッ、またそういうっ……! もうっ……もう!!」
どうしてこの男はこうなんだ、とほたるは頭を抱えたくなった。大抵はまともなはずなのに、時折こうしておかしなことを言う。というか、言わせようとする。
こちらの発言自体は何もおかしくないはずなのに、ノエに繰り返すよう言われるとなんだかとんでもないことを言ってしまった気分になる。そのせいでほたるがノエを睨む目を更に鋭くすれば、ノエは困ったように眉尻を下げた。
「ごめんごめん、ちょっと緊張しててさ」
「……緊張?」
およそノエとは似つかわしくない発言に、ほたるの顔が怪訝に染まる。また何か変なことを言うのではと思ったが、ノエの纏う雰囲気にほたるは彼が真剣であることを悟った。いつもどおりへらへらとした態度ではあるものの、そこにいつもとは少し違うものを感じたからだ。
「この前ほたる、俺のこと疲れてそうって言ったでしょ? そこをちゃんと話そうかなって」
続いた言葉を聞いて、ほたるの顔から怪訝が消えた。代わりに今度は心配そうに眉根を寄せて、「……話してくれるの?」と控えめに問いかける。
「うん。でもあんま気分良い話じゃないから、途中で無理だなって思ったら言ってくれていいよ」
「……いい。聞く」
ほたるはノエに答えると、腰を上げてノエの隣に移った。ぴったりと寄り添うように座って、そこにあったノエの手に自分のそれを重ねる。他にどうしていいか分からずほたるが気を紛らわすようにその手を指の腹で撫でていると、反対側のノエの手がほたるの髪に伸びてきた。
「先に髪の毛乾かす?」
「……時間稼ごうとしてるでしょ」
ムッと口を尖らせる。知らないふりをすることもできたが、今はすべきではないと思った。でないとノエはまたふざけるのだろうし、そうしたら気が変わってしまうと思ったから。
ほたるの指摘にノエは「……そうね」と気まずそうに答えると、一つ深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「最近ね、少しでも気を抜くとほたるがいなくなる想像ばっかしちゃうんだよ。それでちょっと気分が参ってる」
「いなくならないよ?」
「うん、分かってる。でもほたるの意思じゃどうにもならないことだってあるでしょ」
そう説明するノエの顔には笑みがあったが、明るくはない。困ったような、気後れしたような笑い方だ。その表情と発言にほたるはノエの言わんとしていることを理解すると、うんと険しい顔になった。
「……暗に私が死ぬと言っている?」
自分の意思とは関係なくいなくなるなんて、それしか浮かばない。そのせいでほたるが不機嫌な声を出せば、ノエはばつが悪そうに「っていうか、いつか死んじゃう時を想像しちゃうというか……」と言葉を濁した。
「俺の大事な人ってさ、みんな急に死んじゃうんだよ。家族もそうだったし、仲間も……しかもどっちも俺の見てないところで、何の予兆もなくさ。ちょっと目を離して、戻ってきたらいきなり全員死んでんの。だから……ほたるのこと大切だって思うと、その分だけ怖くなる。ずっと思い出してすらいなかったのに、ここのところは意識して違うこと考えてないと、またそうなるかもしれないって勝手に頭に浮かんでくる」
ノエが目を伏せる。その内容にほたるがノエの手を握る力を強くすれば、ノエは一つ呼吸を置いて話を再開した。
「勿論ほたるを死なせるつもりはないし、そんな簡単に死ぬとも思ってない。人間に比べたらよっぽど死ににくいしね。だけど……やっぱり怖いんだよ。目を離したらほたるも急にいなくなってるんじゃないかって。人間と違って死体が残らないから、そうなったらもうどこにも見つけられなくなるかもしれない。ほたるが本当に死んじゃってても分からなくて、ずっとどこかにいるんじゃないかって探し続けることになるかもしれない」
暗い声でノエが言う。その内容にほたるが思い出したのは、先日の出来事。一人で考えたいとノエの元を離れようとしたら、彼が紫眼を使ってこちらを止めようとしてきたこと。
「だからあんな必死だったんだ」
「……ごめんね。怖がらせたくなかったんだけど、無意識で……」
そこまで言うと、ノエは大きな息を吐き出した。その様子に嘘は見当たらない。見当たらないが、ほたるには直感があった。
ノエはまだ、全部を言っていない。
「……これで全部?」
静かに問いかける。ほたるの手の中で、一瞬だけノエの指が強張った。
「全部……じゃない」
「今嘘吐こうとしたでしょ」
「……未遂だから許して」
そう言ってノエは重たい吐息と共に天井を見上げた。空いている方の手を口元に当て、視線を彷徨わせる。その仕草と震えている呼吸にほたるはくっと眉根を寄せると、「許すから大丈夫だよ」と柔らかく笑いかけた。
「ノエがね、言いたくないって思ってるのは分かってるつもり。でも言おうとしてくれたんでしょ? だったらいいよ。全部話す方がしんどいなら無理に話さなくていい。嘘吐かずに教えてくれただけで十分」
「……怒らないの?」
「これで怒るって私相当人でなしってことだよ」
ほたるはふっと笑うと、ノエの身体を抱き締めた。彼の手が背中を支えるのを感じながら、口を開く。
「ノエはさ、私にこの家から出て欲しくない?」
ほたるが問えば、ノエの手がぴたりと止まった。
「……ほたるの自由は制限したくない」
「またそれ」
「そうだけど……でも、やっぱり思わずにはいられないよ。ほたるには俺のせいで嫌な思いはさせたくない」
ノエの腕に力がこもる。頬に擦り寄せられた彼の髪にくすぐったさを感じながら、ほたるは「じゃあ私、強くならなきゃ」と意気込んだ。
「強く?」
「そういう話じゃないの?」
「そういう話なの?」
身体を離し、ノエと正面から向かい合う。どちらもよく分からないという顔をして、少し首を傾ける。
「だって私は死なないよだなんて無責任なこと言えないでしょ? ならノエが心配できなくなるくらい強くならなきゃいけないってことだと思ったんだけど」
「それ、エルシーとか麗並みってことだよ」
「がんばる」
「ふはっ」
ほたるが胸の前で拳を作れば、ノエが耐えきれないとばかりに吹き出した。「あそこまで強くなって欲しくないなァ……」笑いを落ち着けながら言って、不意にその笑みを完全に引っ込める。
「ほたるはさ、引かないの? さっき俺が言ったのって、凄くほたるに依存してるって話だったと思うんだけど」
「そう? 嫌なこと思い出すから困ってるって話じゃなくて?」
「それは……あー……俺の言い方が悪かったかも……。引かれたくなくてだいぶ弱めに言った」
そう言ってノエが顔に手を当てる。「これだと流石に意味ねェじゃん……」独り言のように呟いて、ちらりとほたるを見る。
「何?」
「……さっきの話、ほたるの印象より何倍か重たくして欲しい」
「えっと……私が死ぬかもしれないからあんまり外出して欲しくない、ってくらい?」
「それだとまだ弱いかな。……死ぬ前に全部食っちゃえ、って思うくらいだとどう?」
「んん?」
そんな話だったろうか、とほたるの首が傾く。というより、食うというのが分からない。以前はそれで性的な意味だと言われたが、今はもうわざわざ口にする関係でもないように思う。食われるというのならついさっき食われたばかりだ。
ということを思い出してほたるが赤面しそうになっていると、ノエがほたるの手を取った。
「こういうこと」
ほたるの手を自分の顔の方に持っていき、軽く口を開ける。そして更にほたるの手を自分の方に引き寄せて、その指先に齧り付いた。
「……お腹空いてるの?」
「ふっ……」
ノエは困ったように笑ったが、ほたるにはまだよく分からなかった。軽く歯を当てられたということは、食欲的な意味で食うと言ったのだと表現しているのだろう。それは分かっても、死ぬ前に食うという話と結びつかない。
だからずっとほたるは難しい顔をしていたのだが、それを見たノエはぎこちなく笑みを作った。
「全部腹に収めちゃえばどこにも行かないでしょ」
「………………あっ、そういう」
たっぷり時間をかけて理解して、ほたるがなるほど、と頷く。するとノエは今度こそはっきりと苦笑して、「すんごい間」と困ったように吐息を漏らした。
「理解に時間がかかった。手を食べるふりしたけど、要は血を全部飲むってことでしょ?」
「いや、可能なら肉も骨も全部」
「……お腹壊しちゃうよ?」
「ははっ」
楽しそうに笑い、すぐにその勢いを静める。
「その時は自分の身体ぶっ壊れても、必死に腹に詰め込むんだと思うよ」
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