〈6-2〉私、何も知らないんだね
久しぶりの外界の空気に、ほたるはほう、と息を漏らした。
初夏の生ぬるく湿った風、暗闇から聞こえる虫の声。寝惚けた蝉がどこかで孤独に鳴き、つられて別の蝉も鳴き出して、夜の静寂を打ち破る。
繁華街から遠く離れた場所にある霊園は、夜ということもあって人の気配が全くしなかった。けれど、怖くはない。人間だった頃よりもはっきりと周囲が見渡せるから、暗闇は恐怖を誘わない。
それに一人ではないというのもほたるを安心させた。案内人として壱政が同行しているのだ。
前を歩く彼の足取りは淀みなく、規則正しい。何度か怖い目に遭わされたが、今はもうクラトスの命令がないため心配いらないとエルシーから聞いている。だから彼の為人を表すようなその歩みを後ろから見ながら、ほたるは遅れないようについていくことだけに集中した。
「――ここだ」
しばらくして壱政が足を止めたのは、とある墓石の前。そこにある名前を見て、ほたるの中に疑問が浮かんだ。
「〝神納木〟……」
「自分の名字も忘れたか」
「いや、そうじゃなくて……旧姓じゃなかったんだって……」
ここには母だけでなく、実の父親も埋葬されていると聞いている。となるとこの名字は父親のものなのだ。父親が母の姓を名乗っていた可能性はあるが、どことなくそうではないような気がした。
「日本じゃ配偶者が死んでも手続きをしない限り名字は変わらない」
「あ、そうなんですね。でもこのお墓って、父方のですよね? 私、祖父母っていうのはいないんですけど……」
「母方の祖父母はお前が生まれる前に死んでいるが、父方は縁を切っただけらしい。調べていないから経緯は知らないが、スヴァインが面倒を避けたと考えるのが妥当だろう。この墓は先祖から続くものではなく、お前の両親しか入っていない」
抑揚のない淡々とした説明を聞きながら、ほたるは胸がざわつくのを感じた。今壱政に聞かされたことは全て、ほたるの知らなかったもの。自分の家族のことなのに知らなかったという悲しさと、それから知ることのできた嬉しさが、ほたるの口を動かす。
「私、おじいちゃんおばあちゃんがいるんですか?」
「どこかにな。存命かは知らない。調べたいなら長官に言え。費用はアレサ様が出すから断られはしないはずだ」
その言葉にほたるの浮き上がった気持ちが少し下がった。勿論何か頼み事をするのに頭を下げるだけのつもりはなかったが、費用という単語を出されると途端に気後れを感じる。
「やっぱりお金がかかるんですね……」
「当然だろ。こっちは仕事でやってるんだ」
それはそうだ、とほたるは壱政に頷いてみせた。エルシーからは、この同行も本来は執行官の仕事ではないと聞いている。しかし今は麗との取引で壱政が動かしやすく、更には彼がほたるの事情を把握しているという点でもちょうどいいため、エルシーは壱政を指名したのだそうだ。
「ちなみに、結構お高いんですか?」
「お前に金の心配はいらないだろう。こういった内容なら親は出し渋らない」
「でも人のお金ですし……――あ! そういえばこのお墓の維持費ってどうなってますか? お墓ってタダじゃないですよね!?」
墓の維持にどれだけ金がかかるかは全く分からないし、考えたこともない。しかしこうして霊園の土地を借りるというのなら、そこには勿論費用が発生しているはずなのだ。
流石にそれまでアレサに出してもらうのはおかしいだろうとほたるが慌てれば、壱政が「払い終わってる」と冷静に答えた。
「えっ……終わっ……?」
「永代使用だ。管理費もまとめて支払われているからしばらくは心配いらない」
「えいたい……?」
「買い取りと同じようなものだと思え。どうせスヴァインがやったんだろう。自分の金なのか、お前の母親の金なのかは知らないがな」
壱政は呆れたように言うと、「勉強はしておけよ」と溜息を吐いた。そこにはほたるも異論はない。墓の費用の仕組みなど知らないし、壱政の説明だって理解できていない。なんだったら発せられた単語の漢字すら分からない。
これは帰る前に調べた方がいいだろう――ほたるが目を泳がせていると、壱政が「その後の維持費もすぐに心配する必要はない」と続けた。
「少額だし、母親の遺産もある。お前の家はまだスヴァインに関連する証拠品としてノストノクスが管理するが、それもそのうち終わる。そうなれば正式にお前が引き継ぐことになるから、その後は売るなり貸すなり好きにしろ」
「あ、そっか……そういうのもあるんですよね……」
全く考えてなかった、とほたるは頬を引き攣らせた。学校のことは気にしたが、家や母の遺したもののことは全然考えていなかった。母を思い出せる遺品を欲しいと思ったことはあるが、置き場所がないなとすぐに頭から追い出したのだ。
しかしこれは、思っていた以上に考えなければならないことがあるのかもしれない。エルシーに何も言われていないということはまだ気にする必要はないのかもしれないが、教えられるのをただ待っているだけではまずい気もする。
「……外界の本って、買うの大変ですかね?」
「本?」
「こういう、遺品整理の手引きみたいな……やらなきゃいけないことをまとめてくれた本とかあるといいなと……」
「全く分からないのか?」
「……恥ずかしながら、これっぽっちも」
ほたるが絞り出せば、壱政の方から大きな溜息が聞こえてきた。その反応にほたるが仕方ないじゃないかと思ったのは一瞬だけ。分からないことは許容してもらえても、今まで気付かなかった部分に関しては言い訳のしようがないと分かっていたからだ。
「今度見繕って届けさせる」
「……え?」
意外な言葉にほたるの理解が遅れる。しかし「何だ」と嫌そうな顔されたものだから、「いえ、お手数おかけします」と大人しく頭を下げることしかできなかった。
「それからスヴァインの方は奴の持っていたものがまだ一切分かっていないが、何かしら出てきたらお前にも話がいくはずだ。受け取れるとは限らないがな」
「あ、そっちも……」
「スヴァインの件は要望がなければ何もする必要はない。そもそも事が大きすぎてお前の手には負えない」
「……はい」
ほたるは自分が情けなくなったが、助かったと思ったのは否めなかった。何をすればいいのか見当も付かないから、何かする必要がないのはありがたい。そのことにほたるが胸を撫で下ろしていると、壱政が「話は終わりだ」と告げた。
「俺は向こうで待ってる。済んだら呼べ」
そう言うなり壱政が姿を消す。「あ、あの……!」どのくらいなら待っててくれるのか、どうやって呼べばいいのか――後から浮かんだ疑問はもう尋ねる機会を失って、ほたるは呆然と壱政のいた場所を見つめた。
§ § §
「――私、何も知らないんだね」
壱政が去った後、ほたるは気を取り直して墓に向き直っていた。だが、あまり言葉は浮かばない。何を言っていいのか分からない。
「お母さん、と……それから、お父さん」
どうにか呼びかけてから、違和感にほたるは渋い顔になった。自分にとっての父はスヴァインで、この墓で眠っている人のことは全く知らない。そうなった経緯を考えればここにいる相手の方こそを父と呼ぶべきだと分かるのに、実感がないせいで気持ちが追いつかない。
「……ねえ、二人に何があったの?」
浮かぶのは、疑問だけ。断片的に把握している事実だけでは、彼らの死とどう向き合っていいのか分からない。
「知りたいよ……なんでお父さんは、本当のお父さんのこと殺しちゃったの? お父さんはなんでお母さんと一緒にいたの? なんで二人を一緒のお墓に入れてくれたの? もしかしてお母さんは、お父さんのことを本当のお父さんだと思い込まされてたの……?」
知りたい。自分が生まれた頃、何が起こったのか知りたい。知らなければ両親に何を語っていいか分からない。
本当の父親は何故殺されてしまったのか――ただの被害者なのか、それとも母に酷いことをしていたから父が守ろうとしたのか。
母は最期まで、父を夫だと思っていたのか――何も知らないまま死んだのか、それとも全部知って、夫を殺した父を恨みながら死んだのか。
そして、アイリスを愛していたという父はどうして、ただの人間の母の元にいたのか。
彼ら三人の関係性が全く分からない。こうして夫婦が同じ墓に入っていることを喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、それすらも分からない。
そんな状態では、彼らの死を心から悼むことなどできるはずがない。
その真実に近付く方法は、ある。
『古い記憶は掘り起こせる。お前が望むなら、もう一度過去の記憶を追体験することができるんだ』
もし過去の自分に父が真実を語っていれば。もしくは、その片鱗だけでも自分の目に見せてくれていれば。
過去を追体験することで、知りたいことを知ることができるかもしれない。
「……でも、ノエの嫌なことはしたくないよ」
自分に紫眼を向けた時の彼は、あんなにもそのことを恐れていた。彼の行動そのものというよりも、見えない何かに怯えているように見えた。
あの時ノエのことを怖いと思わなかったのは、あの行動がノエの意思によるものではないと感じたから。
自分の知らない何かが、ノエの中にはある。そしてそれが彼を苦しめている。しかしノエは、そのことをこちらに明かす気はないのだろう。
少し寂しいけれど、本人があれだけ恐れているのなら無理に聞き出したくはない。口にすることすら恐ろしいのかもしれない。
それに完全には隠さず、辛いと思っていることはこちらにも伝えてくれるのであればそれで十分だ。その原因が分からずとも、苦しい時に寄り添って、少しでも彼が楽になる手伝いをしたい。
もらったものを返すというのなら自分の方だ。ノエが傍にいてくれたから平気でいられたことが多いのだから、自分もノエに同じものを返したい。
「ちゃんと分かったらまた来るね。何年も後になっちゃうかもしれないけど」
何年でも待とう。ノエがその力を自分に向けてもいいと思えるまで、この疑問には蓋をしておこう。彼らの死に向き合うのは、その後にしよう。
たとえその日が来ないかもしれなくとも、ノエの気持ちを一番大事にしたいから。