〈3-2〉絶対触らない
ほたるがリビングに行くと、ノエはしゃがんで棚に木箱をしまい込んでいるところだった。「あ、ちょうどよかった」ほたるの視線に気付き、ノエが振り返る。「これ俺がいない時に触らないでね」という言葉と共に示したのは今まさにしまっていた木箱。両手で抱えられる程度の大きさだ。見たことのないそれにほたるは首を傾げると、「大事なものなの?」と言ってノエの方へと歩いていった。
「大事っちゃ大事かな。ここの権利書やら何やら入ってるから」
「どう考えても大事じゃん。箱の中にあるんだよね? 絶対触らない」
「そんな気負わなくていいよ」
おかしそうに笑い、「まァ箱は触らないって覚えてもらった方がいいか」と納得したように呟く。
「分かりやすいようにあんま触って欲しくないものはこういう箱に突っ込んどいた。別にほたるなら見てもいいんだけどね、知らないうちに場所が変わると困っちゃうから」
「分かった、得体の知れない箱には近付かない」
「そのうち中身紹介しようか?」
「いい、近付かない」
「ははっ」
そんな重要そうなものに絶対に触れてなるものかと意思表示するほたるが面白いのか、ノエが「今度枕元にでも置いとこうかな」と悪巧みをするような顔で呟く。「絶対やめて」渋面で返したものの、ほたるもノエと同様にこの空気を楽しんでいた。大事なものには触れないようにしようという気持ちは本物だが、ノエとこういう冗談を言い合うのは好きだからだ。
できればこのまま笑い合っていたい。いつものように冗談を言って、楽しく会話していたい。
けれど、聞かないわけにはいかない。
ほたるはここに来た目的を思い出すと、「あの、ノエ……」とおずおずと口を開いた。
「ん?」
「昼間のことなんだけど……」
「エルシーが言ってたやつ?」
意外にもノエはいつもどおりだった。その様子に安堵するも、昼間の反応が忘れられない。「うん……」頷いた声が小さくなったのは、彼のこの態度があの怒りを隠そうとするもののように思えてしまったから。自分に向けられた感情ではないのだとしても、ノエがあそこまで心を乱したのは何故だろうと考えると、やはりほたるの顔には憂いが帯びた。
「……記憶を探るの、ノエはやって欲しくない?」
ほたるを見るノエの目が、ほんの少しだけ翳る。
「ほたるが決めな、って言えたらいいんだけどね。こればっかりは駄目」
へにゃりと困ったように笑うノエに、ほたるが「そんなに危ないの?」と問いかければ、ノエはしゃがんでいた体勢からゆっくりと立ち上がった。
「こっちおいで」
ソファに座り、ほたるを呼ぶ。言われたとおりほたるがその隣に腰を下ろすと、ノエはほたるを自分に寄りかかるよう引き寄せながら、彼女の頭に優しく唇を押し当てた。そしてそのままそこに頬を当て、「大抵はそこまで危なくないよ」と話し出した。
「だけど思い出せないってことは、単純に忘れてるだけじゃなくて、ほたる自身が忘れなきゃいけないって思ってしまい込んだ記憶かもしれないってことでもある。スヴァインが隠す前に、幼いほたるがもう見たくないって消そうとした記憶かもしれない」
ほたるからノエの顔は見えない。けれどいつもよりも重たい吐息が、その心情をほたるに伝える。
「エルシーがほたるの記憶を欲しがるのは、ノクステルナと繋がる場所を正しく把握しておきたいってだけだと思う。今思えば、スヴァインは多分そこを使ってノクステルナと外界を行き来してたんだろうしね。てっきりクラトスから鍵でももらったのかと思ってたけど、安全な道があるならそれも必要ない。でも本当にそんな場所があるなら、ノストノクスが放っておけるはずがない。ほたるはあんま実感ないだろうけど、外界との行き来ってかなり厳格にノストノクスが管理してるのよ」
そこまで言って、ふうと息を吐き出す。ほたるの耳元で、ノエの頬に擦れた長い髪がくしゃりと小さな音を立てた。
「エルシーならほたるに無理はさせないと思う。そこは俺も信じられる。だけど他の連中は? そんな場所の情報をどこから得たんだって話になったら、エルシーはほたるのことを言わなきゃいけなくなる。勿論スヴァインとの関係を知ってる奴に限られるけど、そういう奴ってエルシーより権力があるんだよ。当然欲もある。それなのにほたるのことはエルシーほど大切にはしてくれない」
それまでよりも少し苦しげに続いたその言葉に、ほたるはやっと「エルシーさんより偉い人がいるの?」と反応を返すことができた。
「たくさんいるよ。あいつが取り仕切ってるのはあくまで今のノストノクスだけ。隠居した年寄りは口出してくるし、稀にだけどノストノクスに属さない奴だっている。クラトスみたいに面倒臭いのがまだまだいるんだよ」
ノエがほたるの頭から頬を離す。代わりにその手でほたるの頬に触れ、自分の方を向かせる。
促されるままほたるがノエを見上げれば、やはりそこには苦しげな顔があった。
「そういう奴らにとって、スヴァインの持ってた情報は凄く魅力的だよ。誰も知らない自分達の起源だったり、ノクステルナの仕組みだったり……。それにラーシュとオッドは今でも人気だからね。あの二人に関する情報も手に入るかもしれないと思えば、ほたるにはいくらでも無理させると思う」
その彼の懸念はほたるにも理解することができた。子供の頃に聞いたおとぎ話なんてどこまで事実か分かったものではないが、僅かにでも事実である可能性があるのなら、ノエの言う者達はこの記憶を求めるのだろう。
けれど、よく分からないこともある。
「ノエがやりたくないって言っても駄目なの?」
序列の力がある以上、ほたるに紫眼を使うことができるのはノエだけ。そしてそのノエは、このノクステルナの誰よりも序列が高い。それこそノエの言う者達すらも操れるだけの力を持っているのだから、当のノエ本人の意思が通らないとは思えなかった。
だがそれは甘い考えだとほたるが気付いたのは、ノエが「今の俺は罪人だよ」と苦笑したからだ。
「アイリスの指示下だったって認められないものがあれば極刑になる可能性が高い。裁判の結果には手を出せなくても、その過程なら別。だからあいつらは俺を脅せる」
「っ……」
「だから最初からやらない方がいい。ほたるのその記憶のことも知られたくない。少しくらいなら大丈夫だなんて楽観的には考えられない」
そう言ってノエはほたると額を合わせた。自らの後頭部に触れるノエの手に、ほたるが目を閉じる。
ノエは己の命の危険を語ったように聞こえたが、実際は違うのだ。彼がこちらの身を案じてくれているのが、痛いほど感じ取れるから。
しかし、諦めきれない。
「……エルシーさんにも内緒でこっそりやるのも?」
問うたのは、ノエが今語った懸念はあくまで周りに知られた時のものだからだ。誰にも知られなければ、少なくともノエの身に危険はない。
ならば誰にも教えず、この家の中でやれば――ほたるが目を開ければ、ノエが額を離して顔を覗き込んできた。
「何か知りたいことがあるの?」
「……ちょっと」
過去の追体験ができるというのなら、幸せだった日々をしっかりと思い出したい。だが、それ以上に。
過去を見たら、父の行動の理由が分かるかもしれない。
彼がこの記憶を隠していた理由も、母を愛した理由も、そして――自ら死を選んだ理由も。
それを知るためだったら、多少の危険は受け入れられる。リスクを背負うのが自分だけでいいのなら、朧気となっている記憶に触れてみたい。
しかしほたるのその決意とは裏腹に、ノエは眉を曇らせた。
「……できればやりたくないかな。悪い奴らに知られなくても、最初に言った危険は変わらないから」
その声は、目は、ほたるが今までに見たことがないくらいに切実な色を帯びていた。
「……そっか」
小さく頷いて、ノエの首に腕を回す。甘えるように顔を擦り寄せて、腕にぎゅっと力を込める。「ほたる?」聞こえてきた不思議そうな声は、自分がこういうことをするのが珍しいからだろう――そうと分かっても、ほたるは顔を上げることができなかった。
「やめとく」
ノエの首元に顔を埋めたまま、告げる。
「いいの?」
「うん。……そこまでして知りたいことじゃない」
その言葉にノエが自分を抱き締めてくるのを感じながら、ほたるは己の顔を隠し続けた。