〈3-1〉だからお前が勝手に決めるな
「……全然埋まんない」
衣装部屋に届いた服をしまい終えたほたるは、未だガラガラのクローゼットを見て呆然と口を開けた。ラミアの城から運び入れられた服はそれなりの数があったはずなのに、ほたるに割り当てられた区画が全然埋まっていない。それはノエの服でも同じで、彼はそれなりに衣装持ちな方だと思っていたのに、こちらもまた隙間だらけの状態だ。
必ずしも全てを埋める必要はないとは思うが、ここまで空いてしまうと泥棒に盗まれでもしたのかと感じてしまうほど。これは衣装以外の荷物も置けそうだなと空いたスペースの有効活用を考えようとするも、残念ながら活用できるほどの私物がないためすぐに思考は打ち切ることになった。
となると、片付けはこれで終わり。自分の荷物をしまっているノエを手伝おうかと考えかけた時、ほたるの脳裏に昼間の出来事が蘇った。
§ § §
「――そんなことさせるワケねェだろ」
それは、ノエが本当に怒っている時の声。ここ最近の間で何度となく聞いた、敵意すら感じさせるほどの重い声。
その声を、エルシーに向けている。
一体、どうして――ほたるが無意識のうちにきゅっとスカートを握り締めた時、エルシーが「だからお前が勝手に決めるな」とノエに返した。
「ほたるの問題だ。本人に説明くらいはさせろ」
その怒りに怯みもせず、エルシーがノエを睨み返す。
「それがいらねェって言ってんだよ」
「ほたるのことをお前が決めるな」
エルシーがぴしゃりと撥ね付ければ、ノエはぐっと口を噤んだ。
「驚かせて悪いな、ほたる。話だけ聞いてくれるか?」
優しい声だった。表情もまたそれまでの厳しいものから、いつもどおりの穏やかなものに戻っている。そのことにほたるは安心したが、すぐに頷くことはできなかった。「でも……」エルシーと向かい合っているのに、視線が勝手にノエの方へと動く。
ノエが怒る理由は分からない。けれど、彼が自分のために怒っているのは感じ取れる。それに知っている。ノエが自分の前で怒りを顕にする時は、いつだってこちらのために怒ってくれているのだ。
それなのに、ノエの意に反してエルシーの話を聞いてもいいのだろうか。
ノエの顔色を窺いたいわけじゃない。裏切りたくないだけだ。
そのせいでほたるが何とも言えない顔をすれば、エルシーは困ったように「いずれ知る機会が訪れることだ」と付け足した。
「今から話したいのは、我々にとっては当たり前のことなんだ。いくら今ノエが情報を入れないようにしたところで、お前はいつか知ることになる。――ノエも、自分のいない場所でほたるに中途半端な情報を与えられるよりはいいだろう?」
ほたるに語りかけていたエルシーは、途中からノエに目を向けていた。諭すようなその視線に、ノエが重たい深呼吸をする。
「……公平に話せよ」
渋々と言った様子でノエが了承を示せば、エルシーは「当然だ」と頷いた。
「なら……聞きます」
ノエが受け入れたのだから、ほたるにはもう聞かない理由はなかった。むしろ知らない誰かから聞かされるより、この二人のうちどちらかの口から聞きたい。
そのほたるの返事にエルシーは「ありがとう」と微笑むと、ゆっくりと話し出した。
「人間でも催眠療法というのがあるだろう? あれを紫眼で行えるんだ。紫眼の場合は強制力が強いから、催眠よりもずっと確実に過去を思い出せる。まるでその場にいるかのように追体験することもな。古い記憶を探るために昔から取られている方法だよ。長い時間を生きていると忘れてしまうことも多いから」
そんなことができるのかという驚きはほたるにはなかった。紫眼の強制力は、ほたるはもう身に沁みている。記憶や思考が勝手に塗り替わること、そして動きを制限されること。なんだったら父に身体を乗っ取られたことすらある。
人の思考を簡単に操れるのだから、過去を思い出せという命令も容易なのだろう。そう納得しながらほたるがここまで理解したと頷いてみせれば、エルシーは「だが、勿論危険もある」と続けた。
「思い出す内容によっては、本人がそこから現実に戻りたくないと思ってしまうかもしれないんだ。紫眼にできるのは本人の意識を過去に導くところまで、一度眠ってしまった相手を強制的に呼び戻すことはできない。眠っているだけだからいずれ目覚めるが、すぐに目覚めたとしても現実との折り合いが付けられなくなる者もいる」
「折り合いが付けられなくなる……?」
「恐ろしい記憶なら恐怖を鮮明に思い出して日常に支障を来す場合もあるし、幸せな記憶ならそれを味わうために何度も過去の追体験を繰り返してしまう場合もある。我々は肉体の怪我はすぐに治るが、精神的なものは人間と同じだ。精神を病んだ場合、起こり得ることは人間と変わらない」
エルシーは濁したが、ほたるにも彼女の言いたいことは理解できた。最悪の場合、本人が死を選ぶことも有り得る――たとえ吸血鬼でも簡単に死んでしまうことがあると既に知っているからこそ、エルシーの声が重たくなったことも不思議には思わなかった。
「ノエが懸念しているのはそこだよ。父親の記憶がお前にとって幸せなものだったとしたら、お前はその記憶の中で生きたいと思ってしまうかもしれない。父親がいるなら、母親もいるかもしれないしな」
それは、なんて幸せな夢だろうか。
自然と浮かんだ感想に、ほたるの口から息がこぼれる。その音を聞いたノエが顔を強張らせたが、一瞬だけだったそれにエルシーの方を向いていたほたるは気付かなかった。
「ほたるの記憶が欲しいのは確かだ。だが、お前自身がやりたくないと思うならやる必要はない。このリスクを背負うのはお前だけだから」
気遣うように言って、エルシーがちらりとノエを見る。その目はすぐにほたるの方へと戻って、「それから、」と続けた。
「ほたるに対してこの方法を実行できるのはノエだけだ。仕事で何度かやっているから腕は気にしなくていいが、ノエがやらないと言うなら基本的に無理強いすることはできない。そのあたりも踏まえて考えてみてくれ」
§ § §
エルシーの話を思い出し、ほたるの視線が落ちる。
あの話の後、ノエは何も言わなかった。それはエルシーの話しぶりが公平であり、彼女が必要な情報をきちんと明かしてくれたという証だろう。
ならば、あとは自分がどうしたいかなのだ。エルシーの言っていたリスクを冒して、過去の記憶を辿るかどうか。
けれど一方で、ノエが未だ何も言ってこないことがほたるには気がかりだった。あの後の彼はすっかりいつもどおりに戻ったものの、この話題は一切口にしない。
彼には珍しいその行動が、ほたるを不安にさせる。
だが、話さないわけにはいかない。こんな方法があるのなら、見て見ぬふりはしたくない。
ほたるは意を決すると、リビングで荷物を片付けているノエの元へと向かった。