〈2-3〉私、何かまずいこと言ったの……?
一悶着の後にノエの荷物を二人で片付けていると、部屋の玄関ホールで来客を知らせるベルが鳴った。いきなり近くから聞こえた音に驚いたのはほたるだけ。ノエは当然のように音の出処に行くと、壁にかかった木箱の飾りに手を伸ばした。
「はーい」
手に取った飾りを耳に当て、ノエが木箱に向かって話す。その姿にほたるはやっとその木箱が何かを理解した。装飾品かと思っていたが、これは電話だ。古い時代を舞台にした映画で出てくる、とても古い電話。その光景に感動を覚えながらノエの様子を見守っていると、受話器を置いたノエが「どうしたの?」と不思議そうに振り返った。
「それ、初めて見たから……」
「あァ、このタイプ古いもんね」
「電気なくても動くの?」
「確か中に発電するやつがあるんじゃなかったかな。外のもそうだよ。こないだ見に来た時に入口のとこのやつからここに直接かかるようにしといたから、ただ出るだけで大丈夫。入口のも守衛にちゃんと名乗った奴だけにしか使わせないから安心して」
「ん、んん……?」
説明されてもよく分からず、ほたるの首が傾く。するとノエはおかしそうに笑って、「受ける専用の電話だと思って」とほたるの頭に手を乗せた。
「それよりほら、エルシー待たせてるから下行こうか」
「あ、やっぱりエルシーさんだったんだ」
「声聞こえてた?」
「うん。でもいつもと聞こえ方違ったから」
人外の聴力になってから、多くの音が聞こえるようになったと感じる。普段はあまり意識しないが、ふと今聞いているのは以前は聞こえなかったほどの小さな音だったり、同じように見えなかったほど遠くのものを普通に見ていたりしているということに気が付くと、自分はもう人間ではないのだと実感する。
けれど、意外と嫌な気はしない。人間のままであったならノエと今の関係になることはなかっただろうし、もしなったとしても、彼と自分では生きる時間の長さが違うのだと、きっと悩むことになっていただろうから。
――お父さんは、それなのにどうしてお母さんを愛したんだろう。
不意に過った疑問の答えは、恐らくもう知ることはできないのだろう。「ほたる?」不思議そうに見てくるノエに「なんでもない」と笑みを返し、彼と共に一階へと向かう。
「エルシーさん、何て?」
「ラミア様の城にほたるの服あったでしょ? ペイズリーが買い込んだやつ。あれ全部こっち持ってきてくれたって」
「わ、助かる」
外界でノエに買ってもらった服は、一着があの争いの中で駄目になってしまった。だからこの数日は残った服をノエの服を借りながらどうにか着回していたのだが、やはり限界はある。やっと着替えに悩まなくて良くなると考えながら一階に辿り着き、ノエが玄関の扉を開けると、そこには「遅い」と不機嫌顔のエルシーがいた。
「しょうがねェじゃん、階段下りなきゃいけないんだから」
「跳べ」
「……まァ、そうね。この高さならなんとか骨は折れないかな……」
頬を引き攣らせながらも、ノエがエルシーを屋内に招く。そして彼女に続く形で二名のノストノクスの使用人が箱を持って入ってきた。エルシーの指示で階段を上っていくのは、その中身がほたるの服だからだろう。そうと分かるとほたるは自分でやると言いたくなったが、それより先にノエが「ほたるもこっちおいで」と言うものだから、その機会を失った。
ノエがほたるを呼んだ先は階段の奥にある空間だった。それが何のための場所かほたるは知らなかったが、ノエとエルシーが当然のように向かうあたり、応接間のような場所なのかもしれない、と自分の知識と紐づける。現にそこにはソファもテーブルも置かれているから、似たような用途で使われる空間なのだろう。
「相変わらず質素だな」
ソファに腰を下ろし、エルシーが周りを見渡しながら言う。
「これが……質素……?」
「言ったでしょ、エルシーの感覚はおかしいって」
驚愕の面持ちでこぼすほたるにノエが苦笑すると、エルシーは「変なことを教えるなよ」とノエを睨みつけた。
「教えてないって。それより服以外もあるって言ってたけど?」
「ああ、ほたるに言語の勉強用にこれを渡そうと思ってな。日本語だから理解しやすいと思うぞ」
そう言ってエルシーがほたるに差し出してきたのは数冊の本だった。それを受け取り、ペラペラとめくる。日本語の文章にこちらの文字が混ざったそれは教科書と言っても差し支えのなさそうなもので、ほたるはよかった、と胸を撫で下ろした。
「でもよく日本語用なんてありましたね。なんかマイナーそうですけど」
「作ったのが壱政だからな。複数言語で用意されているが、あいつが作ったものなら大抵日本語のものもある」
「壱政さんが……?」
ほたるがぽかんと口を開ければ、ノエが「あいつガリ勉なんだよね」と呆れたように補足した。
「あとノエには尋問の予定表を持ってきた。どれだけ時間がかかるか分からないから、ひとまず様子見で一週間分だけだが……とりあえず時間は守れよ」
「いつから?」
「来週からにしようと思っている。ほたるの生活を整える時間も必要だろう? 足りなければ言ってくれ。そのくらいの融通は利かせてやる」
「そりゃこんな高いモン買わされたからな」
ノエがうんざりしたように鼻を鳴らす。その反応を見てほたるは一瞬それだけノエには痛手になったのだと信じかけたが、実際はそうでもないと言っていたことを思い出した。
となるとこれは演技で、あまり心配するものでもないのだろう。しかしエルシーに怪しまれないためには、少しは心配する素振りを見せた方がいいのだろうか――悩んで、自分にはそんな演技は無理だ、と思い至る。
ならばここは下手に反応せず、別の話をした方がいい。幸いエルシーには聞きたいことがある。
そこまで考えると、ほたるは「あの……」とエルシーに声をかけた。
「ここって、本当に私が住んでもいいんですか……? ノエが家主だから大丈夫だとは思うんですけど、元々はアイリスやお父さんのための建物だったってことは、気に入らない人もいるんじゃ……」
「ノエがいいと言うなら誰も文句は言えないよ。アイリスとスヴァインの死は今後折を見て正式に公表するし、ノエがスヴァインと同じ序列であることは紛れもない事実なんだ。しかも貸与ではなく買い取りなんだから、ここに誰を住まわせようとノエの自由。それに表向きはどうであれ、お前はスヴァインの子だ。元々使用権を持つ者なら誰でも招けるから、そういう意味でもほたるはここにいて問題ない」
「……それならいいんですけど」
エルシーの答えにほっと息がこぼれる。自分がここにいても問題ないと言われたこともそうだが、父の子であることもそれを裏付けると聞いて胸に迫るものがあったからだ。
たとえ名乗れなくても、完全に繋がりが切れてしまうわけではないのかもしれない。
そのことにほたるが安堵していると、ノエが「しっかしこの名前はどうにかなんねェの?」と呆れたように言った。
「買い取っても名前は変えちゃ駄目とかさァ……つーか黒の館って誰が決めたワケ? アイリスっぽい色なら白だろ。スヴァインはー……灰色?」
「ラーシュ様とオッド様のご意向だそうだ。ここの内装もな。この点に関してはお二方ともすぐに一致したらしい」
「あの人達そういう話すんの? アイリスの生死すら周りにちゃんと話さなかったんだろ?」
「この件に関しては対応してくださったそうだ。私もアレサ様に聞いただけだから詳しくは知らない」
「ふうん?」
エルシーが説明したものの、ノエはあまり納得がいかないらしい。難しい顔で「にしても黒ってなんか別の意味あったっけ……?」と首を捻る彼に、ほたるは「別の意味があるかもしれないの?」と問いかけた。
「言語によっては色とは違う意味があることもあるよ。昔は全然違う意味の言葉だったけど、いつの間にか色の名前になってたりとかさ」
「へえ……でもここの黒って、黒い谷のことじゃなくて?」
「あァ、そういえばスヴァインが何か言ってたね」
二人の会話に、エルシーが「スヴァインが?」と怪訝な顔をする。
「そうそう。なんかアイリスは黒い谷の底から生まれた化け物だっつってたかな。つーかお前、麗から聞いてねェの? あの場で起こったことはあいつに報告させたんだろ」
「……麗の奴、面倒で省いたな」
エルシーは疲れたように溜息を吐くと、「それで、黒い谷というのは?」とノエに目を向けた。
「お前はアイリスから聞いていないのか」
「そういう話したことねェもん。何のことかさっぱりよ」
「――四人で住んでたとこでしょ?」
肩を竦めるノエを見て、ほたるが声を上げる。
「確か黒い谷の底に紫色の綺麗な洞窟があって、そこを逆さまに見ると山になるから、てっぺんに上るとかなんとか」
父から聞いた話を思い出しながら口を動かす。言葉だけで実物は一切分からなかったが、見たことのない景色を想像して胸を踊らせたことは覚えている。
その気持ちも思い出したからだろうか、ほたるの顔には自然と笑みが浮かんだ。しかし一方でエルシーは驚いたように少し目を見開いて、ノエもまた同じような表情をしていた。
「……スヴァインから聞いたの?」
そのノエの声には驚き以外の感情もあったが、父との記憶に頬を緩ませるほたるは気付かなかった。
「うん。小さい頃にしてもらった谷のかいぶつの話だから、実話じゃないかもしれないけど……あ、そういえばその山に上ると月が二つ見えるって言ってた。もしかしてノクステルナのこと……っ――ふぁに?」
楽しく話していたほたるの口をノエの手が塞ぐ。一体何をするんだとほたるはノエを睨むように見たが、当のノエはエルシーに顔を向けていた。
「エルシー、聞かなかったことにして」
「無理だ。他のことならともかく、外界とこちらが安全に繋がっている場所があるなら調べないわけにはいかない」
ノエに答えたエルシーの顔は険しかった。ほたるが思わずもう一度ノエを見れば、やはりノエも少しだけ強張った表情をしている。「ふぉえ……?」不安げにほたるが呼ぶとノエははっと手を離して、「急にごめんね」と眉尻を下げた。
「私、何かまずいこと言ったの……?」
「うーん……まずいっていうか……」
「ここで聞くくらいならいいだろう」
珍しく歯切れの悪いノエに、エルシーが低い声で言う。「まァ、確認するくらいなら」渋々といったノエの返事にエルシーは軽く頷くと、「ほたる」といつもの調子でほたるに向き直った。
「その話、もう少し具体的に思い出せないか?」
「えっと……ごめんなさい、ぼやっとしてて」
「……だろうな。思い出したのが最近とはいえ、隠されていたものが見えるようになっただけだ。通常の記憶と同じように曖昧になっているだろう」
そう頷いたエルシーは困ったような笑みだった。一体何故そんな顔をするのか――ほたるがそれを問いかけるより先に、ノエが「はい、じゃァこの話はおしまい」と遮った。
「ついでに用事も済んだだろ。今日はもうここまでね」
「ノエ」
「ほたるが覚えてないって言ってんだからそれ以上は無理だろ」
「ほたる自身にも関わる話だ。お前の一存で説明もせずに決めるな」
一触即発といった雰囲気だった。だがほたるには自分の思い出の話がきっかけになっていることは分かっても、どうして彼らがここまで緊張感を漂わせているのかが分からない。
「あの……?」
ほたるが恐る恐るエルシーに答えを求めれば、エルシーは「古い記憶は掘り起こせる」と口にした。
「お前が望むなら、もう一度過去の記憶を追体験することができるんだ」
「え……」
それは、朧気になっている部分を知ることができるということ。ほたるがそう理解したのと同時のことだった。
「――そんなことさせるワケねェだろ」
怒りを孕んだノエの声が、ほたるの思考を止めた。