〈2-1〉ケチだよね
ノストノクスはその広大な敷地内に複数の建物がある。だがほとんどの建物同士が通路で繋がっているため、ほたるはずっとひとつの建物だと思っていた。
しかし今いる中央の中庭のような場所から見ると、建物ごとに少しずつデザインが違うのがよく分かる。それでも重厚感漂う石造りの壁は全ての建物に共通しているからしっかりと調和が取れており、遠目からだとやはりひとつの建物のように見えた。
なら、ここはなんだ――ほたるが呆然と見上げるのは、三階建ての立派な屋敷。家のようだが、どう見ても家だなんて軽い言葉で表現していい建物ではない。更には建物の周囲には立派な木々が植えられていて、他の建物からの目隠しのようになっていた。
映画の中で見かける富豪の邸宅のような外観。ノストノクスの敷地内にあるというのに他の建物とは繋がっておらず、外観も無骨なノストノクスのそれとは違って、窓や柱の繊細な装飾に洗練された雰囲気がある。その上明らかにこの屋敷を守っているであろう守衛らしき人影もあるものだから、ほたるの頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「――いやァ、ちゃんと言ってなかったんだけど、俺執行官辞めたのよ。で、あの部屋って執行官に貸し出されてるものだからさ、なんか住み続ける権利なくなったらしくて」
屋敷の前で固まるほたるの肩に手を置いて、ノエが「ケチだよね」と付け足す。その話にそういえばノエは執行官を辞めたのだったとほたるは思い出したが、今聞きたいのはそこではない。
「ここ、何……?」
「ノーブルハウス」
「のーぶるはうす……?」
「の、別館ね」
「別館……」
教えてもらったのに何も解決しない、とほたるの目が泳ぐ。一方でノエはほたるの肩に置いていた手を背に移動させると、「まァ入ろうか」と中へと歩き始めた。
「ノストノクスは中立の機関だけど、設立当初にラーシュ様とオッド様のためにゲストハウスを用意しなきゃってなったらしくて。それがノーブルハウス。英語っぽい名前なのはノストノクスの施設とはまた別だっていうのを表したかったとかなんとか。ここ来る途中に立派な建物二つあったでしょ? あれがそう。どっちが本館ってワケでもないんだけど、ノーブルハウスって言ったら普通あの二つを指す。ちなみに名前は日本語だと安易に赤の館と青の館」
そういえばそんな建物を見かけたな、というほたるの感想は、目の前の光景で蹴散らされた。外観から予想してはいたが、中もやはり豪華なのだ。広いホールには左右に上階へと伸びる階段があり、その階段と階段の間、何もない部分の奥には扉で区切られていない部屋らしきものがあって、そこから高価そうな調度品がこちらを覗いている。
まるで城だった。ラミアの城ほど広くはないが、しかしほたるにはそうとした表現できない。思わず足を止めかけたほたるの背をやはりノエの手が押して、ほたる達は階段を上り始めた。
「でもあの二人にゲストハウスを用意したならスヴァインには? ていうかアイリスには? っていう変な気遣いで造られたのがここね。さっきのより小さいのは、当時から既にアイリスは生きてるかよく分からなかったのと、スヴァインはどうせ来ないだろっていう諦めみたいなあれで予算が縮小されたから」
ノエの説明が淀みなく続く。ほたるは緊張と困惑で階段に躓かないようにしながら、その話を聞くのがやっとだった。
「ンでその読みは正しくて、赤と青は何度か使われたけど、ここは一回も使われてない。それなのにいつでも使えるように常に綺麗にして、家具も定期的に入れ替えて……ってしてたから、無駄金の塊みたいな物件。あと名前は何故か黒の館」
二階に上がったところで一度止まり、「どこにも黒要素ないのにね」とノエが呆れたように笑う。その声でやっとほたるは緊張から解放されたが、未だ困惑はなくならない。これだけノエは説明してくれたが、肝心なことをまだ聞いていないからだ。
「どんな建物かは分かったんだけど……なんでさっきからここに荷物が運ばれてるの?」
これだ。豪華な建物というのは、ノクステルナで過ごす中で割と見慣れてきていた。それなのにここに来てからずっと放心状態だったのは、今朝二人で箱に詰め込んだノエの荷物が、先程から着々とこの屋敷に運ばれてきているから。
運んでいるのはノエではなくノストノクスの使用人だ。彼らが館内の清掃や、部屋で出た洗濯物の回収をしていることは何度か見かけてほたるも知っていた。その使用人達は一階と二階を通り過ぎ、三階に上ったところで荷物を置いて、また下へと戻っていく。
彼らの様子を見ながら、まさかノエはここの部屋を借りたのか、とほたるは頬を引き攣らせたが、返ってきた答えはそれを上回るものだった。
「買い取らされたから」
「え? 買い……?」
ノエは今何と言ったのだろう――聞こえた単語を考え直す間もなく、ノエが「だから買い取らされたんだよ、この建物」と溜息と共に繰り返した。
「エルシーにね、ノストノクス内での軟禁がいいならここに住めって。元がアイリスかスヴァインみたいな、赤軍と青軍どっちにも属さないアイリスの子用として建てられたから、俺も一応使う権利はあるらしくって。っていうのは明らかに建前で、あいつは俺にここを買い取らせて負債を回収したいだけだったと思うんだけど。じゃないとほら、もう絶対に使われないことは決まりきってるし」
「事情は分からなくもないけど……凄い値段なんじゃないの?」
「そりゃ建物だからね。人間でも保釈金ってあるでしょ? 逃走資金を奪うみたいな。あれも兼ねてるからさ。まァ保釈金と違って返ってこないけど。あと俺の正体的にも周りに怖がられるから、あんま人が来ないところにいさせたかったみたいで」
つまり今日からここがノエの家。一部屋ではなく、全てが。先日エルシーが言っていた、牢ではなくノストノクス内での軟禁を叶えるための無茶の要求というのはこれかもしれない。
という記憶は繋がっても問題なかったが、ついでに繋がった考えにほたるの口がぽかんと開いた。
「もしかして、私もここに住むの……?」
「当然じゃん。一緒に暮らしたいって言ってたでしょ?」
「……こんなとこだとは思わなかった」
てっきりこれまでどおり、ノエの部屋に住むものだと思っていた。それが駄目なら、また別の似たような部屋かと。
しかし現実はこれだ。これまでノストノクスやラミアの城で部屋を借りたことはあったが、それはあくまで客人として。ついでに費用はノストノクス持ちで、自分は保護されている身だった。
それが今は居候となる。少し前までノエの家で暮らす気でいたからそこに疑問はなく、だが疑問がないからこそ気持ちが追いつかない。
「や、家賃……」
「取るワケないじゃん。俺がほたると住みたいんだから」
ほたるの震え声に返したノエはおかしそうに笑うと、「普段から全部使うワケじゃないから」と安心させるように言って、また階段を上り始めた。
「実際に住むのは三階だよ。一階は遊び場みたいな感じで、二階はゲストルームしかないからね。三階は丸ごとアパートの部屋みたいになってるから、そういう意味では今までとそんなに変わらないよ」
その言葉どおり、辿り着いた三階には長い廊下と、両開きの一対の扉しかなかった。廊下にはこれまで運び込まれたであろう荷物の箱が並び、その存在を主張している。
「ほたる、外界の俺んちは平気だったでしょ? あれと同じようなモンだよ。ちょっと広くて内装がノストノクス仕様なだけ。ほら」
言いながらノエが片方の扉を開ける。するとそこに広がったのは玄関ホールのような小さな空間だった。「あ、もう一個先だった」思い出したように苦笑したノエがその奥の扉を開けて、改めてほたるを出迎えたのは広い部屋。
ダイニングテーブルに、大きなソファ。それから書き物のできそうな机と、いくつかの区画に分けられて家具が置かれている。そしてどの家具も高価そうではあるものの、比較的シンプルなデザインだった。
ここはリビングダイニングだろうか――そう思うとほたるもノエの言うことが理解できて、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「……確かに。広いけど意外とゴテゴテしてないね」
「ね。俺ももっと見栄え気にした感じだと思って家具全部買い替えるつもりだったんだけど、これくらいならそのままで良さそうじゃない? どれも未使用だし」
「全部買い替える……」
さらりと告げられた言葉にほたるが思い出したのは、いつだったかテレビで見た芸能人の自宅訪問。そこで紹介された家具の値段を知って、そんなにお金をかけてどうするんだと思った記憶がある。そして、今見ている家具はそれよりも高級そうだ。ノエの好みならシンプルなものなのだろうが、この部屋に見合う大きさとなるとそれだけで値段は上がるに違いない。
結局買わないらしいが、しかしそう気軽に全部入れ替えるだなんて考えていいのだろうかと、どうしても心配になってしまう。
「あの……私が言うのも変だと思うんだけど……お金、大丈夫なの……? 逃走資金をなくすってことなら結構減っちゃったんじゃない?」
* * *