〈1-3〉凄く拗ねてる
エルシーとの話し合いを終え、部屋に戻った後。ほたるはソファに座って、隣にいるノエに目を向けた。
「……ノエ、怒ってる?」
そう尋ねたのは、ノエの口数が少なかったから。エルシーの執務室を去る時は笑みだったが、どうやらその前の会話を思い出したらしい。あの部屋で話をしていた時と同じような顔をしたノエにほたるが眉尻を下げると、ノエはちらりとほたるを見て、小さく息を吐いた。
「怒ってはない。温度差を感じてるだけ」
「温度差って……」
ノエが何を指しているかはほたるも分かった。三日前に恋人同士だと宣言された時から、ノエの態度がその言葉どおりのものになったことも感じている。時々熱烈すぎて正直身が持たないと思うこともあるが、その愛情を実感できることに悪い気はしていない。
ただ、分からない。ノエの想いではなく、一般的な感覚がまだまだ自分には足りていないという自覚がほたるにはあった。
「週一ってそんなに少ない? 周りの子、割とみんなそのくらいだったんだけど……」
恋人同士というのは、そのくらいの頻度で会えば十分だと思っていたのだ。実際にほたるにも経験のある短い交際の時もそうだったし、周りも同じような意見だった。
同じ学年やクラスで毎日会えるのなら別だが、それ以外の場合はみんなたまのデートを楽しみにしていた。だから一般的なのかと思っていたが、ノエのこの様子では違うのかもしれない。
しかし社会人ならば普通のようにも思えるし、けれどノエを人間の社会人と同じ括りで考えるのもおかしい気がする、とほたるが頭を悩ませていると、ノエは「周りはどうでもいい」と口を尖らせた。
「大事なのはほたるがどうしたいかでしょ。俺は今まで毎日一緒にいたからこれからもそうしたいなと思ってたし、そうするものだと思ってたけど。でもほたるはそうは思ってないってことならそれでいい」
「凄く拗ねてる」
「当然じゃん」
普段よりも幼く見える顔は、ノエの心情が言葉どおりのものだということ。それが少し可愛いなと思ったのはほたるは黙っておくことにした。ノエの眉がくっと下がったからだ。
「俺、ほたるの行動を制限したくはないんだよ。だからほたるが学校に行きたいって言うなら行かせてあげたい。それでたまにしか会えなくなっても別にいい。友達がいるうちに学校に行きたいなら、それって今しかできないことだしさ。だったら引くべきは俺じゃん? ただほたるが週に一回会えば十分って思ってるのが気に入らない」
最後の一文に棘を感じながら、ほたるは「十分って思ってるわけじゃないけど……」と声を落とした。するとノエが少しだけ表情を元に戻して、「本当?」とほたるの方へと抱きつくように身を乗り出す。
「本当だよ。……っていうか体重かけるのやめて。重い」
「だってほたるがなかなか倒れてくれないから」
「なんで倒そうとするの」
「それ聞く?」
「話し中! ――……わっ!?」
ノエの重さに耐えていた身体は、膝裏に回された腕が引かれたことですとんと仰向けに倒れた。ソファのツルツルとした素材感が憎たらしい。これでもう少し摩擦のあるものならこんなにも簡単には倒れなかったのに、とほたるが顔をしかめると、にっこりと笑ったノエが上から覆い被さった。
「どんな体勢でも話はできるよ」
「……おかしいでしょ」
「まあまあ。ほら、続けて」
何をいけしゃあしゃあと、とほたるの顔が歪む。
「何話してたか忘れた」
「ほたるが週に一回以上俺と会いたいって話」
「なんか違くない?」
そんな話だったろうか、と記憶を辿って、似たようなものか、とほたるはふうと息を吐いた。
「まあ……学校には行きたいけど、向こうで暮らさなきゃいけないって聞いてちょっと迷ってるのは本当だよ。週に一度行き来できればいい方ってことは、確実じゃないわけでしょ? だけどノエの言うとおり今しかできないことだし、それに……その……」
「何?」
「……寂しいからやめるなんて言ったら、ノエに気を遣わせちゃうじゃん。ノエはここから出られないのに、自分のせいで私がしたいこと諦めるって感じさせたら悪いと思って……」
ノエは罪人なのだ。こうして二人でいると全く感じないが、一歩部屋の外に出れば常に見張りがいる。それは首の細い枷を付けて戻ってきた時からで、その見張りはノエがどこに行くにも付いてくる。
それだけ窮屈な生活な上に、ノエはこのノストノクスから出ることができない。ノエ自身にはどうにもできないこの状況が、自分の行動の障壁になっているとは思わせたくない。
ほたるが表情を曇らせれば、ノエが力を抜かせるように眉間に口付けた。
「……またすぐそういうことする」
頬に熱を感じながらも、大袈裟に反応したら喜ばせるだけだと声を抑える。ノエがくすくすと笑うのは、そんなほたるの心境を察しているからだろう。そう思うと余計にほたるの眉間には力が入ったが、一方でノエの目元は楽しそうに弧を描いた。
「じゃァほたる、毎日一緒がいいって思ってくれてる?」
一つ前のほたるの言葉に返す形でノエが問いかける。
「毎日、っていうか……今までどおりできるだけ傍にいたいとは思ってる」
「朝起きた時も夜寝る時も?」
「まあ……今がそうだからそうなるね?」
人間としてノエに守られていた時から、その関係が変わった後も。いつの間にかこれが当たり前になっていたせいか、ノエと離れて暮らすと言われてもイメージがしづらい。
そういえば自分はいつまでノエの部屋にいていいのだろうかとほたるが考えようとした時、ノエが遮るように話を続けた。
「つまりほたるは俺と一緒に暮らしたいってことだよね?」
「……学校のことはまだ悩んでるよ?」
「その場合は土日だけでも」
「それは……そうなる」
ほたるが答えれば、ノエの口角がニンマリと上がった。
「何その笑い方」
「言質取れたと思って」
「げんち?」
なんだろう、その単語――知らない言葉を使われ、ほたるの眉根が寄る。ゲンチと聞いて浮かぶ漢字は〝現地〟だけ。しかしイントネーションが違ったし、話の流れとも合わない。他に漢字を当て嵌めようにも、それらしきものも思い付かない。
ノエが間違えたのだろうか。それとも古い言葉か、単に自分の語彙力の問題か。それにしてもこれだけ流暢に日本語を話すノエは一体どうやって言葉を覚えたのだろう――とほたるが考え込んでいると、ノエが「ほたる」とその意識を引き戻した。
「何?」
「明日引っ越すよ」
「…………ん?」
引っ越す――その言葉の意味は分かったのに、ほたるはどういうことだ、とうんと険しい顔になった。