誰かさんが毎日自信持たせてくれるからね
張り詰めた空気がほたるを包む。
広い円筒状の空間、壁側には手すり。オペラの観覧席のように、中央部分を一望できるフロアが何層にも積み重なっている。
そこから中央に向けられるのは、無数の目。悪意、敵意、好奇――様々な感情を湛えるそれらの視線が、中央に立つ人物に注がれる。
「これより、最後のアイリスの子・ノエの公開裁判を行う」
とうとう始まった――ほたるはゴクリと喉を動かすと、中央に立つノエを見つめた。
§ § §
「効率が悪すぎる」
この日の裁判が終わった後。ノストノクスの敷地内にある自宅に戻ってきたノエはどっかりとソファに座ると、不機嫌な顔でそう呟いた。
「なんで一回の裁判で一件しか処理しないんだよ。あと何回やるのあれ……何年かけるつもりなの……」
今回の裁判に要した時間は約三時間。人間のそれのように検察側と弁護側に分かれるのではなく、彼の行ったことと、それがアイリスの指示下であったこと、この二つを審問を担当した者が説明、保証するという形で進んでいく。そしてそれを聞いた裁判官達が指示下の行動であったと承認すれば、その件に関しては無罪判決となるのだ。
だからノエは延々と裁判関係者達の話を聞かされるだけで、あの場でやることはほとんどない。ただただ傍聴席の者達の好奇の目に晒されながら、彼らと共に判決が下される瞬間を待つのみだ。
それでは疲れもするだろうと、ほたるはノエにコーヒーと甘い菓子を出しながら苦笑をこぼした。
「だって準備が大変だから。それに他にも裁判はあるもん、ノエの分は多くても月に一回できれば良い方だよ」
「なんでほたるはそっち側なの」
「お給料もらってるので」
「…………」
ノエがじっとりとした目をほたるに向ける。ほたるはその視線を躱すと、自分のカップを持ってノエの隣に腰を下ろした。
「ていうか〝最後のアイリスの子〟っていうのも嫌い。何あの変な呼び方。他の連中みたく序列最上位でいいじゃん」
「でもノエ、自分の子いないでしょ。それもあって区別したいんだって」
こくりとコーヒーを飲みながら答える。ノエも同じようにカップに口をつけると、はあ、と重たい溜息を吐き出した。
「ほたるさ、そっち側ならもっと裁判の頻度増やせって言ってやってよ。俺としては毎日やってもいいから一年以内に全部終わらせてくれると有り難いんだけど」
「やだよ、事務処理の仕事増えちゃう」
「俺より自分の仕事が大事なの……?」
く、とノエが眉尻を下げる。そんな彼を見ながらほたるはクッキーを齧ると、「そういう問題じゃないよ」と呆れたように返した。
「だって仕事が増えると帰ってくるの遅くなっちゃうでしょ。ノエはそれでもいいの?」
「……口が達者になったね」
頬を引き攣らせるノエの口に食べかけのクッキーを押し込む。ノエは大人しくそれを咀嚼しながら、けれど不満げにほたるを見つめた。
「最近すぐそうやって誤魔化そうとしてこない?」
「気の所為だよ」
クッキーと一緒に用意していたナプキンで手を拭いて、ほたるがノエの首に手を伸ばす。
「早くこれ取れるといいね」
そう言って逃亡防止用の枷に指先で触れれば、ノエはほたるの腰に手を回した。
「一個も有罪出ないかは確実じゃないけどね」
「怪しいのは全部司法取引したんじゃなかったっけ?」
「まァね。けど俺が気付いてないやつもあるかもしれないし……それに悪いことしたならちゃんと償わないと」
「けどノエ、もう結構ノストノクスに無償奉仕してるじゃん。そういう刑罰もあるんでしょ?」
「そりゃ裁判の結果待ってる時間が勿体ないもん。実刑判決出てもなるべく相殺できるものは用意しておいた方がいいでしょ」
「……やっぱり、早く自由になりたい?」
枷に指を這わせながら、ほたるは視線を落とした。元はと言えば自分が理由でノエは自白したようなもの。ノエは自身の都合だと言ったが、それはこちらに気負わせないための建前で、実際は違うのだとこれまで共に過ごした時間で十分に理解している。
だからほたるは声に罪悪感を滲ませたが、ノエはあっけらかんと「とりあえず旅行に行きたい」と答えた。
「旅行って……」
思わずほたるが呆れ声をこぼせば、ノエは「旅行は大事でしょ」と不服だと言わんばかりに眉根を寄せた。
「だって今ずっと監視ついてるし、外界どころかここの外さえ自由に行けないし。俺、外界でほたるを連れ回したいとこいっぱいあるのよ。あんまのんびりしてると国が変わっちゃう」
「国は変わらないんじゃないかな……」
「意外としょっちゅう変わるよ。場合によっては前の国のものとか結構壊されちゃうから、行くなら早くしないと」
言いながらノエがほたるを抱き寄せる。当然のようにその額に唇を押し当てて、「んー」と考えるような声を漏らす。
「まず人を増やそっか。ンで新しい人員が育ってきた頃に裁判の頻度上げようって話になればほたるの帰宅時間は守られる」
名案だと言わんばかりのノエの言葉に、ほたるははっきりと呆れを顔に浮かべた。
「ノエにそんな権限ないでしょ」
「そんなのなくても別件で人を採らざるを得ない状況にすることはできるよ。それが解決したら増やした人手がまるまる浮くからそっちに回せばいいじゃん」
「……またエルシーさん達に怒られるよ」
「平気平気、あいつら人を怒鳴りつけてストレス発散してるところあるから。理由作ってやったらむしろ喜ぶよ」
まるで悪戯をする子供のようにおかしそうに笑う。しかし彼がしようとしていることが悪戯では済まされないことだとほたるは知っていた。これまでに何度か似たようなことをしてノストノクスを困らせ、そのたびに解決を手伝ってやると言って自身に有利な条件を呑ませてきたのを近くで見てきたからだ。
だからノストノクスで働く今、ほたるがすべきはノエを窘めること。だがそうと分かっていても、ほたるは自分の頬が緩むのを止められなかった。
「なんかノエ、凄く楽しそう」
「楽しいよ。何やっても全部自分のためだからね」
その言葉は、かつてほたるがノエに望んだもの。それを臆面もなく、嘘も全く感じさせずに言う彼に胸が温かくなる。
しかしそれでも、少しだけ心配はあった。
「不安じゃないの? 裁判、どうなるかまだ確実じゃないし……」
ノエの罪がどうなるかはまだ分からない。今日初めて行われた裁判は、これから続く途方もない回数のそれの、一回目。
今回はアイリスの指示下であったことが認められ、ノエに罪はないとされた。だが、次もそうとは限らない。
「そうだけど、そんな先のこと考えて不安がってたってしょうがなくない? 第一、裁判の結果なんて俺が決められるモンじゃないんだからさ。だったら旅行計画立ててた方がずっと楽しい」
言って、「よいしょ」とノエはほたるを持ち上げた。自分の膝に跨るように座らせて、「ほたるが不安がることないよ」と優しく見上げる。
「それにやっぱ嫌なことしなくて済むのはいいね。ほたるが前にあれだけやめろって言ってきた意味が分かった」
「私に言われるまで分かってなかったの?」
「色んな感覚バグってたんだよ」
へらりと笑って、誤魔化すように肩を竦める。そんなノエの姿を見て、ほたるの口がむふ、と少し窄まる。
「なんでそんな嬉しそうなの?」
「だって嬉しいじゃん。ノエがそういうふうに考えてくれるようになったの」
かつて自分のためにその身を蔑ろにしないでくれと何度も伝えた。けれど、なかなか伝わらなかった。
それが今、ノエはその言葉を理解したと言っている。彼の言動もそれが嘘ではないと示している。
これを喜ばずして何を喜べるだろう。ほたるが幸せをふんだんに込めて微笑めば、ノエがその頬に手を伸ばした。
「ほたるは我慢してない? 俺に付き合わせてるところ結構あるでしょ」
「私がしたくてしてるんだもん、我慢することなんてないよ」
触れてきた手に頬を押し当てる。こうされるのは好きだと、その仕草で伝える。
目を閉じて、頬を離して、手のひらに口付ける。いつからか自然とできるようになったこの行為に時間の流れを感じながら、ほたるは最近のことを思い返した。
「それに自分でお金も稼げるようになったし、友達もできたし。あ、そういえばこないだ後輩もできたんだよ」
そうだった、とほたるが言えば、ノエがむっと眉根を寄せた。
「……男?」
「うん。ついでに日本人でね、年も近いの。執行官になりたいらしいんだけど、あれって色々な事務業務の経験が必要なんだってね?」
「あー……なんか俺があまりに書類仕事できないからってそうなったみたい」
「ノエのせいなの?」
「俺のお陰って言って」
ノエはほたるの頬に当てていた手を下ろすと、そのまま両手を彼女の腰に添えた。そして考えるように視線を動かして、かと思えば「今度挨拶しに行こうかな」と呟く。
珍しいノエの行動にほたるは目を丸くすると、「なんで?」と首を傾げた。
「ノエ有名人だから向こうは知ってると思うよ?」
「罪人としての俺をでしょ? それじゃ足りないからさ、礼儀的に」
「ノエに礼儀なんてあったんだ」
「それがあるのよ」
「凄く嘘っぽい」
わざとらしいノエの言い方に笑って、彼の肩に手を乗せる。
「そうだ、今度外界行ったら旅行ガイドブックたくさん買ってくるね」
「ほたるも楽しみになった?」
「うん。ノエが楽しそうだと私も楽しい」
ほたるが満足気に笑ってみせれば、ノエは「行けないかもしれないけどいいの?」と苦笑いした。
「またそういう……」
その話題は終わったはずでは、とノエに半眼を向ける。その先にあるノエの顔には相変わらず笑みがあったが、しかしそこにはすっかり見慣れた、彼の気遣いが浮かんでいた。
「行けないのは確かにそうかもしれないけどさ。でも不安がって何もしないより、私も楽しいこと考えてたい」
少し前のノエの言葉を借りて、自分の考えを伝える。するとノエは柔らかく笑って、「そっか」とほたるの胸に顔を埋めた。
「なんでノエがそんなに嬉しそうなの?」
「悪い癖がだいぶ抜けたなァと思って」
その言葉に、ほたるはいつだったかノエに言われたことを思い出した。
それは、自分の嫌いな自分の狡さ。直したいと思ってもなかなか直らなかった、自分だけを守ろうとする行動。
傷付きたくないから、相手の好意を受け取らない。また傷付けられるだけだと怯えて逃げてる、そんな弱さ。
けれど今はもう、傷付けられるかもしれないとは思わない。
「誰かさんが毎日自信持たせてくれるからね」
あの頃からずっと変わらず、同じ気持ちを向け続けてくれている。それがいつだって感じ取れるから、疑う気持ちは微塵も起きない。
変わったとすれば、自分の方。その情を恥ずかしがらずに受け止められるようになった。この想いを口に出せるようになった。
「ノエ」
呼びながら相手の頬に手を添える。今は自分の顔の方が高い位置にあるから、少し上を向いてくれと指先で訴える。
「大好き」
はっきりと口にして、しかし何か言われる前に急いで相手の唇を塞ぐ。いくら想いを伝えられるようになっても、こちらの想定を上回る言葉を返されたらやはりどうしても恥ずかしいから。
唇を離し、よく晴れた青空のような色の瞳を見つめる。そこに映る少女が顔を真っ赤にしているのに気が付くと、ほたるはそれを隠すようにもう一度唇を押し当てた。
マリオネットララバイ −完−
最後まで読んでいただきありがとうございました!
(最終話とエピローグの間の後日譚もあります。何故か長編ボリュームですがよろしければどうぞ*ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭*)