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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【後篇】最終章 がらくたの葬送曲
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〈18-3〉嫌なわけない

 何が起こった? ――呆然としながらも、ほたるは必死に状況を把握しようと試みた。


 立っていたはずが、今は座っている。ノエに後ろに引っ張られ、そのままソファに座り直させられたのだ。しかし、それまでの位置ではない。ノエに後ろから抱きかかえられるようにして座っている。

 そうと分かるとほたるはどうしたらいいか分からなくなって、「ッ、あの……!」と咄嗟に立ち上がろうと身体に力を入れた。


「動かないで」

「…………」


 強い声にほたるの動きが止まる。何故ノエはこんなことをするのだろう――考えても、答えは浮かばない。

 ほたるが動けずにいると、耳のすぐ近くでノエが息を吸い込む音が聞こえた。


「スヴァインは、ほたるの父親だった?」


 落ち着いた声だった。しかし問われた内容に、ほたるは胸が苦しくなるのを感じた。父に隠されていた、たくさんの記憶が頭を過ったから。


 何度も撫でてもらった。何度も抱き締めてもらった。

 表情はほとんど変わらずとも、その手は優しく、その目もまた安心する眼差しをくれて。

 いろんな話を聞かせてくれた声は、ずっと聞いていたいと思うくらいに穏やかなもので。


 父の腕に抱かれてその話を聞く時間が、たまらなく好きだった。


 改めて実感すると、ほたるの目には自然と涙が溜まった。


「うん……消されてただけで、可愛がってもらえた時もあった。怖い時もあったけど、だけど……私、お父さんのこと大好きだった」


 ほたるが答えると、腹に回されたノエの腕の力が強くなった。首筋に触れているのはノエの顔だろうか。吐息は少し苦しそうで、ほたるは自ずとノエがこんなことを聞いてきた理由を理解した。


「俺はスヴァインが嫌いだよ。昔のほたるにはどうだったか知らないけど、俺の知るあいつは最低な奴だから。だから殺した。あいつが仕組んだかもしれないけど、そうじゃなくても俺はあいつを殺してた。アイリスの命令なんかなくても、自分の意思で」

「っ……」


 淡々とノエが語る。彼がこんな話をする理由はほたるにも分かった。敵ではなく、自分の父親を殺してしまったのだと、自分をモノのように扱い苦しめていた悪人ではなくて、娘として可愛がってくれた人を殺してしまったのだと感じているから、彼の声にはこんなにも罪悪感がこもっている。


 そんなノエの行動に、ほたるは思わず自分を捕らえる腕に手を伸ばした。視界が涙で滲む。それを堰き止めるように、ノエの腕を強く握る。


「……俺を憎んだ方がいいよって話をしてたつもりなんだけど」

「分かってる。だけど、そんな簡単なことじゃない」


 ノエの意図は分かる。けれどそれに従うわけにはいかない。


「お父さんのことが大好きだったって思い出したけど、でもノエのことだって好きだもん。お父さんが酷いことしたのは事実だし、ノエがしたことも分かってる。でも……じゃあノエのこと嫌いになるかって言ったら、そんなことない。恨むかって聞かれても、そんなふうには思えない。誰かが誰かを殺しちゃうのは駄目だと思うけど……だけどっ……そういうのじゃないんだよ……正しいことが何かって考えて、それでそのとおりに気持ちが動くわけじゃないんだよ……」


 それはもしかしたら、自分が子供だからかもしれない。相手の気遣いを受け取って、そのまま聞き分けられるほど大人だったら、こんなことにもなっていなかったのかもしれない。ならば既に失敗してしまった以上、自分は大人になるべきかもしれない。


 そうと考えられても、やはりそのとおりにするのは嫌だった。聞き分けて、我慢して、そして失うものを最小限にする――しかしその最小限の中に絶対に失いたくないものが含まれているのなら、到底受け入れることなどできない。


「だからっ……私にノエを憎ませようとしないで……大好きな人を好きなままでいられないのはもうやだよ……」


 牢の中で、ノエの思うとおりに待ち続けることが正解だったのだとしても。こうしてノエの話を聞いて、誘導されるまま彼のことを恨むのが正解だったとしても。

 その先に待つのがノエを失うことならば、自分はきっと何度だって同じことをするのだろう。相手に嫌われても、見限られても、完全に失わずに済む方法を探すのだ――ほたるがノエの腕を握る手に力を込めれば、ノエの腕にもまた力が入ったのが分かった。


「そういうこと言わないでよ……」


 弱々しくノエが呟く。「ごめ……」咄嗟にほたるが謝れば、「あー……クソ……」と独り言のような悪態が聞こえてきた。

 首にノエの額が押し当てられて、その少し下を思い悩むような重い吐息が温める。「憎んでくれた方が良かった」消え入りそうなその声が、ほたるの胸を締め付ける。「無理だよ……」ほたるが返したその瞬間、首筋に何かが強く当てられる感触がした。


「っ……」


 ほたるの肩が跳ねたのは、咬みつかれたと思ったから。しかし、違う。歯が当たった感触はない。それなのに一瞬でもそんな考えが過ったのは、以前彼に首筋を咬まれた時の感覚に似ていたからだろうか。

 だが、結局分からなかった。ただ似ていただけで、鼻や頬が当たっただけかもしれない。速くなった鼓動をほたるが落ち着かせていると、首に触れる熱が離れて、ノエが息を吸い込む音がした。


「……俺の方こそごめんね」


 少し前と同じ、弱い声でノエが言う。


「何が……?」

「ほたるのやったこと。正直何馬鹿なことやったんだとしか思えないんだけど、そうさせちゃったのは俺がほたるのこと追い詰めちゃったからでしょ」

「……違うよ。私がそうしたいって思っただけ。ノエが死んじゃうかもって焦ったのは本当だけど、そうじゃなくてもノエに頼ってばっかじゃなくて、自分で何かしたいとは思ってた」

「それが追い詰めたってことだよ」


 首筋にまた、ノエの顔が押し付けられる。その強さが彼の心情を物語っているようで、ほたるの眉間にもまた力が入った。


「ごめんね、大事なものの扱い方よく分からなくて。安全なところに閉じ込めとけば安心だって思って」

「…………」

「もう間違えないから。だから安心していいよ」


 ノエはその言葉と共にもう一度腕の力を強くすると、すぐにその腕をほたるから離した。


「寝室行きな。俺がこっちで寝るから」


 立ち上がることを促すように、ノエの手がほたるの背中を押す。触れていた箇所が熱を失って、背中から身体を冷やしていく。


 ――これが最後……?


 ほたるの脳裏に過ったのは、この時間の終わり。今この瞬間ではなく、こうしてノエに触れられることすらももうこれが最後なのだと、ここで完全に離れてしまったらもう二度と触れられないのだと、急に実感したから。


 ノエの手が離れるところまで浮かしかけていたほたるの身体が、くるりと振り返る。その勢いのまま、ほたるは正面から相手の胸に飛び込んだ。


「っ……急に危ないでしょ、何やってるの」


 ノエがほたるの身体を支える。けれどその手が自分を引き剥がすように力を入れているのに気付き、ほたるはノエの首に腕を回した。


「……やだ」

「ほたる?」

「少しでいいから……もう少しだけこうさせて……」


 これ以上ノエに自分の存在を感じさせないようにしようと思ったのに、彼から触れられてしまえばもう駄目だった。まだそうしてくれるのかという喜びと、別離の悲しみや罪悪感で感情がぐしゃぐしゃになって、どれだけ嫌がられてもこの手を離したくないと望んでしまう。


「俺と離れるんでしょ? 自分で決めたんだからしっかりしなよ」

「っ……」


 そのとおりだ――かけられた言葉に、ほたるが下唇を噛み締める。ノエが生きてさえいればそれでいいと、どこか離れたところで無事でいてくれればそれで十分だったのに、言うことを聞かない自分の感情が嫌になる。

 けれどこの手を離したら、もう二度とこうして触れられない。そう思えば思うほど腕の力は強くなって、心の底から離れたくないと叫びたくなる。

 それを我慢したくてノエの首元に顔を強く(うず)めれば、ノエは一瞬だけ身体を強張らせて、溜息と共にほたるに触れていた手をそっと離した。


「ほたるさ、俺が距離感おかしくしちゃった自覚はあるんだけど、今後はちょっと懐いただけの相手にこういうことしちゃ駄目だよ。襲われても文句言えないよ」


 諭すように。呆れたように。その声に胸がぎゅっと締め付けられて、ほたるの目に(こら)えていたはずの涙が再び溜まった。


「……襲うの?」


 涙を誤魔化すようにどうにか返せば、ノエは「俺?」と困ったような声を出した。


「俺はしないよ。だってほたる、俺にそういうふうに見られるの嫌なんでしょ?」


 問われて、ほたるは以前の会話を思い出した。その気持ちは、今も変わっていない。


「……だってノエは付き合いでするだけじゃん。そんな人達と一緒にされたくない」


 ノエにとっては、どうでも良い人達。自分もその中に入れられてしまうのは嫌だった。他の人達よりも大事にしてもらっているという自負があるのに、その価値がなくなってしまいそうなのが耐え難かった。

 そう思いながらほたるが答えると、ノエが「……そんな理由だったの?」と唖然と呟いた。


「他に何があるの」

「俺が嫌とか」

「嫌なわけない」


 むしろ……――考えかけて、ほたるは固く目を瞑った。それは言っては駄目だ。口にしたらいよいよ離れられなくなってしまう。この一時(ひととき)だけで十分だと、自分に言い聞かせられなくなってしまうようなことはしてはいけない。


 それに、ノエだって困るはずだ。そういう対象として見ることはできても、そこに自分のような気持ちはない。彼がこれまで自分の傍にいてくれたのは、男女の間に生まれるような情による行動ではなくて、きっと家族や仲間に向けるような、そんな情によるものだ。それなのに自分がこの気持ちを伝えれば、同じものは返せないと困らせてしまうだろう。そのせいで最後のこの時が台無しになってしまうなら、何も言わない方がいい。


 ほたるが言葉を飲み込むように抱き付く力を強くすれば、ノエが「あー……」と困ったような声を漏らすのが聞こえてきた。

 ほら、やっぱり――襲ってきた感情に奥歯を噛み締める。子供がぐずるように頬をノエの頭に押し付ける。どうか何も言わないでと願ったが、その願いは届かなかった。


「っ……ほたる、ちょっと離れようか」


 また、突き放すような言葉。自業自得だと分かっているのに、受け入れなければならないと分かっているのに、言うとおりにすることができない。


「本当に離れて。ただの話の流れっていうのは分かってるんだけど、流石にそろそろ手が出そう」

「…………」

「引いた? なら早いとこ離れな」


 茶化すようなその言い方が、ほたるの自尊心を刺激する。言ってはいけないと分かっている。抱くべきではない感情だと分かっている。けれどこうも子供扱いされてしまうと苦しくて仕方がない。

 ノエを困らせたくない。しかしここまで何とも思われていないのが気に入らない。これ以上ノエに呆れられたくないのに、もう二度と会えないのだと思うと些末な問題にすらならないと思えてくる。


 葛藤して、どうにか自制心が打ち勝って。それでもすぐに離れてしまうのは嫌で。


「……やだ」


 小さく絞り出せば、ノエが「もしかして伝わらなかった……?」と訝しげにこぼした。


「えーっとね、このままじゃほたるの嫌なことになるよって言ってるんだけど」

「っ……もう少しだけ……離れたらもう会えないから、あとちょっとだけ……」


 そうしたら離れるからと、心の中で自分に言い聞かせる。しかしノエはまた溜息を吐くと、「駄目」と少し強い声で言った。


「それだけが理由なら本当に離れな。ほたるの嫌なことはしたくないんだよ」


 自分を気遣うその言葉に、ほたるはぷつりと何かが切れる音を聞いた気がした。

 このこだわりは本当に必要なのだろうか。たとえ大勢の中の一人になってしまっても、二度と会えないのならそれを感じることすらないのではないか。


 ――だったらもう、この感情を我慢しなくていいのではないか。


「ほら、ほたる。もう行きな」

「違う」

「何が?」

「離れるのは嫌だけど、それだけじゃない」


 ノエの首元から顔を上げる。いつの間にか流れていたらしい涙を必死に手で拭い、相手の目を見つめる。初めて見た時からずっと綺麗だと思っていたサファイアブルーの瞳が驚いたように自分を映して、その上にある眉がくっと歪んだ。


「この状況でそんなこと言うって、意味分かってる?」

「……私、ノエが思ってるほど子供じゃないよ」


 子供ならこんな感情は抱かない。こんなにも心を掻き乱す強く深い愛情を、あなた以外には抱けない。


 けれど、その想いを口にする勇気はなかった。言葉にしてしまえばもう、別離に耐えられなくなるから。

 ならば、そうなる前に。全てを思い出として愛せるように。


 たとえそこに心が伴っていなくとも、ノエにとってどうでもいい人達と一緒になってしまうかもしれなくても。

 もっと触れていたい。触れて欲しい。そして、少しでも自分を覚えていて欲しい――口にできない気持ちを込めて、ノエを見続ける。


「知ってるよ。だから困ってたんじゃん」


 その言葉どおり、ノエは眉をハの字にして。


「後で怒らないでね」


 その意味も考えられないまま、ほたるは噛みつくような口付けを受け止めた。



 § § §



 暗闇に白い肌が浮かぶ。以前見た時には毒に侵されひんやりとしていたその身体は、今はどちらのものか分からない熱で上気していた。

 自らの荒い呼吸。その合間に聞こえる切なげな吐息。己の動きに合わせてそこに小さな嬌声が混じれば、得も言われぬ満足感がノエの頭を熱くした。


「好きだよ」

「っ……」


 伝えるたびに涙を溢れさせるその姿がいじらしい。うんうんと必死に頷いて、何かを言いかけてはぎゅっと口を噤む。


 だから最初はただの勢いかと思った。自分との会話で引っ込みがつかなくなって、流されるように応えただけかと。そのことを後ろめたく思っているから、何かを言おうとしているのかと。

 もうそれでも良かった。少なくとも拒まれていないなら、もう逃がしてやることはないと捕まえた。そして、以前伝えられなかった言葉を伝えた。たとえほたるにその気はなくとも、自分もそうかもしれないと錯覚してくれればいいと、何度も何度も言い聞かせるように口にし続けた。


 煽った方が悪いのだ。人がどれだけ我慢していたかも知らないで、一時の感情でその身を差し出してくるから。忠告したのに聞かないから。だから自分のような奴に付け込まれて、その気持ちとは違うことになるのだと。


 だが、ほたるは流されたわけではなかった。

 そうと分かったのは、想いを伝えるたびにきゅっと唇を窄ませるから。それが彼女の本当に嬉しい時の仕草だと知っているから、何も言わないようにしている理由も自ずと分かった。そして時折翳る、その表情の理由も。


 暴きたい。飲み込んでいる言葉も、彼女を苛む不安も、全部吐き出させたい。可愛らしい自制心が邪魔をするのなら、何も考えられなくなるほどに乱して、全て忘れさせてしまえばいい。

 けれどその先にある僅かな可能性が彼女を傷つけかねないから、ノエは己の加虐心をどうにか抑え込んだ。


「ほたる」


 何も心配することはない――そう伝える代わりに名前を呼ぶ。暗い感情に引き摺られそうになっていれば、呼吸を奪って引き戻す。

 こちらの言葉を真に受けないようにしようとしている彼女に、信じるしかなくなるまで何度でも伝えよう。言葉も行動も全てを尽くして、疑う気持ちなど一欠片も抱かないように。不慣れだと聞いたからあまり無理をさせたくはなかったが、その程度ではきっと伝えきれない。


「もう少し頑張れる?」


 今にも目を回しそうなくらいに浅い呼吸を繰り返すほたるに問えば、その腕が首に伸びてきた。大丈夫だと答えるように腕に力が入る。自分に縋ってくるかのような仕草が、ノエの胸を満たす。


 いくらでも甘えればいい。頼り切ればいい。自分でもどうにかしたかったと望む気持ちは分かるが、それでその身を危険に晒すのだけは駄目だ。ほたるが蔑ろにするその命は、自分にとっては一番大切なもの。それを危ぶませる行動は、たとえほたる本人のものであっても看過できない。

 けれど一方で、ほたるにとってもそうなのだろうなとは理解していた。自分がこの命を軽視することを、ほたるは拒む。だから己の命を軽んじてこちらを助けようとする。

 だから噛み合わない。だから愛おしい。道具としてしか使ってこなかったこの身に、それだけ深い情を割いてくれることが心地良くてたまらない。


 やっと手に入れたと思うのは、自覚するよりももっと前から求めていたからだろうか。口では信頼されずとも構わないと言いながら、どこかではずっと与えた分だけの情が返ってくることを求めていたのだろうか。

 だが、今更そんなことはどうでもいい。ほたるがこの腕の中にいる。本気で諦めた彼女が、自分の求めに応じて全てを差し出してくれている。その事実だけで十分。


 こんなに大事なものを二度と手放してなるものかと、華奢な身体を抱く腕に力を込めた。

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