〈18-2〉おかしいだろ
黒い革張りのソファにちょこんと座り、ほたるはやはりおかしい、とこの状況に疑問を抱いた。
ここは外界にあるノエの家だ。そこで風呂に入り、着替えを借りて、今はノエが風呂から出るのを待っている。
麗と別れた後、彼に言われるがままのこのこついてきてしまったが、自分がここにいるのはやはりおかしいと思った。
まだ騒ぎは収まっていないから、ノストノクスに戻りづらかったのは分かる。風呂も、お互い血塗れだったから入らなければならなかったと分かる。ついでに食事を与えられたのも、怪我を治すために消耗していたせいだと理解もできる。
けれどやはり、ここにいるのはおかしい。麗の言うとおりノエと話したいことはたくさんある。もう二度と会えなくなるのなら、伝えたいことも、聞きたいこともたくさんある。
だが、そんな話をする資格なんて自分にはないのだ。
『とんでもない取引したね。自分の責任の範囲外のことまで約束しちゃったの』
ノエの言うとおりだと思う。クラトスとの取引で、自分以外の行動まで条件に含めてしまった。いくらそうしないと頷いてもらえなかったとはいえ、自分でもなんて馬鹿なことをしたのかと分かっている。
そしてそれが、所詮子供の浅知恵だということも。
『ノクステルナから出てけってことか』
ノエにして欲しいことをしっかりと伝えられなかったのに、クラトスの仲間になると言っただけで彼がそこまで理解したのはそういうことだ。誰でも思いつくくらい、稚拙な取引。
それに麗が簡単に自分の前から姿を消したことも、どうせお前は逃げないと言われているのと同じようなものだと思った。しかしそれはただ侮られているだけでなく、間違いなく事実なのだ。
逃げない。逃げられない。逃げ道がない。
何故ならそうしないとノエが殺されてしまうから。ノエが自分からノクステルナを離れてくれるよう説得できなければ、今度はクラトス達に命を狙われることになる。
だから、逃げない。逃げられない。ノエから居場所を奪わなければならない。
たとえそれで、ノエにどう思われようとも。
『甘いよ、ほたる』
あの声には確かに怒りがあった。なんて勝手なことをしたのかと、突き放すような響きがあった。
けれど、生きているのなら。ノエが安全に生きていけるのなら――ほたるが抱えた膝に顔を埋めた時、リビングのドアが開いた。
「――隣座ってもいい?」
部屋に入ったところで、ノエが遠慮がちに尋ねてきた。風呂で洗い流したからか、もう彼から血の匂いはしない。自分と同じように、彼の怪我も完全に治っているのだ。ほたるはそのことに安堵しながら「ん……」と小さく返事をすると、ノエが座れるようにソファの端に寄った。
心做しかいつもよりも大きく開いた空間。ノエはそれを見て小さく息を吐くと、空いたその場所に腰を下ろした。
「俺が怒ってるの分かる?」
そう問うノエの声は、怒っていると言いつつも優しい。顔を埋めたままほたるは肩の力を抜くと、「……うん」と答えを返した。
「怒ることは予想してた?」
「……怒るというか、見放されるかも、とは」
「ならなんであんな取引したの。せめてエルシーに相談すればよかった。あいつならほたるが頼めば同席してくれたはずだよ」
「ッ、それじゃあ意味ない!!」
ほたるが勢い良く顔を上げる。するとノエは少し驚いたように目を見開いたが、ほたるは構わず口を動かし続けた。
「誰かに甘えるしかできないのはもう嫌だったの……! 自分の望みなのに、誰かに頼ることしかできないなんて嫌だったの……!」
「でも結局俺には頼ってるじゃん。ああ、頼るって感覚じゃないのか。自分の命を盾にとって言い包められるんだもんね」
「ッ……」
そんなことはないと否定しかけて、ほたるは結局何も言うことができなかった。ノエからしたら、そうとしか取れないのだと分かったから。
「目の前でわざとスヴァインに殺されに行ったほたる見た時の俺の気持ち分かる? 必死に守ろうとしてた子が自分から死にに行くとかどんな冗談よ」
「……ごめん」
「報われるとは思ってなかったけど、まさかあそこまで無下にされるとは思わなかった」
「違っ……!」
ほたるが否定しようとすれば、冷たい表情のノエと目が合った。そこに笑みはなく、優しさも感じ取れない。自分が失ったものを思い知らされたほたるに、「違わないよ」という声が追い打ちをかける。
けれど、受け入れられなかった。自分のしたことの愚かしさを責められるならいくらでも責めてくれていい。だが、悪意のように取られるのは嫌だった。
「――違う!」
口を突いて出たのは、ノエの認識が間違っていることを主張する言葉。それから、牢の中で感じた恐怖。
「じゃあそれを言うならノエはどうなるの!? 私はノエに死んで欲しくなかったのに、知らないうちに気絶させられて、起きたらノエが死ぬかもしれない状況になってるってどれだけ怖かったか分かる!? あんなに頼って欲しいって言った! 一人で抱えないでって言った! でもっ……私じゃ頼れないのは分かったから……だから、少しでもノエが頼れるようになりたかった……自分でちゃんとできるよって、ノエに見せたかった……失敗しちゃったけど、だけど……どうにかしたくて……」
牢で抱いたノエの行動への不満は、途中から己の行動への失望に変わった。
自分でどうにかしなければならないと思った。ノエに頼ってもらえないのならば、頼ってもらえるような存在にならなければと思った。
しかし結果がこれだ。麗を借りて、確かに少しは変わったのかもしれない。だがその代償にノエから居場所を奪うことになった。人々との繋がりも、取り上げることになった。そしてそれをノエ本人に了承を取らず、自分一人で決めてしまった。
考えれば考えるほど自分はなんて馬鹿なことをしたのかと自己嫌悪に陥って、ほたるから気力を奪っていく。
「どうにかしたいと思うことと、どうにかできるのは別だよ」
ノエにまではっきりと言われてしまえば、ほたるにはもう反論する気は起きなかった。
「……うん。それは、思い知った。クラトスの仲間になれば十分だと思ったのに、全然足りなかったんだって……」
「それにこれはアイリスが死んだから成立してるんだよ。取引した時にそこまで考えなかった?」
「ぁ……」
そうだ、とほたるは愕然とした。アイリスが生きていれば、ノエはそちらの命令を優先していただろう。ならばいくら自分がノクステルナから出ていってくれと懇願したところで、ノエは選べる状況ではなかった。ノエなら自分の頼みを聞いてくれると思ったが、彼の意思ではどうにもならないのならそれも意味はないのだ。
アイリスが生きていたら、ノエはノクステルナを去ることを受け入れなかった。そんなことをすればアイリスがノエを許さない。つまりどう転んでも、この取引のせいで彼の命は危険に晒されていたのだ。こんなことも考えつかずになんて条件を飲んでしまったのかと、ほたるの口から震えた吐息がこぼれ落ちた。
「そもそもアイリスが死ななかったら、俺はほたるを殺しに行くことになってた」
ノエが厳しい声で言う。しかしその声でほたるは冷静さを取り戻した。ノエのこの懸念には対応を考えてあったから。
「その時はっ……先に、死ぬつもりで……」
「は?」
低い声にほたるの肩がビクリと震える。思わず顔を俯かせると、上から「何それ」と同じくらいに低い声が降ってきた。
「もしかして、俺がほたるを殺さなくて済むように先に死ぬつもりだったって言ってる?」
「……他に何があるの」
「おかしいだろ」
怒りに満ちた声が、ほたるの全身を緊張させる。
「なんでそこまで分かってるのにそんな発想になるんだよ」
「…………」
ノエが苦しまなくて済むように――浮かんだ答えをほたるは口にすることができなかった。彼はできれば自分を殺したくないと言ってくれたから、だからそうならないようにしたいと思った。
だが、これはただの自己満足だ。既にこれだけノエを怒らせてしまったのに、失望させてしまったのに、その上こんな自己満足を押し付けるだなんてできるはずがない。
返す言葉が見つからなくてほたるが黙り込めば、ノエが大きく深呼吸をするのが聞こえてきた。怒りに震えるような、何かを耐えるような、そんな重たい吐息だ。
「あーもう……なんでこんな……」
「ごめ、なさ……」
「……このまま逃げるんじゃ駄目? あんなおっさんとの取引なんて馬鹿正直に守ってやることなんて、」
「駄目!!」
ノエの発言に咄嗟に顔を上げる。そうして見えたノエには相変わらず笑みがなくて、「それは……駄目……」と繰り返す声は弱くなった。
「理由は?」
「……言えない」
言えるはずがない。こうしなければ今度はクラトスがノエの命を狙うなどと、言えるはずがない。そんな事情だったなら仕方がなかったねと、同情で許されたくない。
ほたるがぎゅっと拳を握り締めれば、ノエはふうと息を吐いた。
「どうするの? これから」
「……明日ノエとクラトスが話したら、そのままあの人のとこに行く。何するかは知らないけど、でも……借りた分は返さなきゃ……」
「それも知らないのか……」
呆れたような声に、ほたるもまた同じ気持ちになった。ノエに問われれば問われるほど、自分の不出来が見えてくる。自分自身の行動にこんなに呆れているのに、ノエからしたらそれはもっと大きいだろう。こんな奴のせいで自分は居場所を失うのかと、改めて怒りを感じていたっておかしくはない。
「なんて取引したの?」
「ノエと、お父さんを、止めて欲しいって……それで、争うのが止まったら、私がクラトスのとこ行くって……」
「ふうん……」
そのノエの声にはもう、怒りはなかった。恐らく呆れ果てたのだろう。こんな奴に怒ったところで無駄だと、完全に見限られたのかもしれない。
そう思うとほたるは辛くて仕方なかったが、しかし当然だ、と受け入れた。自分はそれだけのことをしたのだ。それなのに嫌わないで欲しいだとか、見限らないで欲しいだとか、自分本位なことを言えるはずがない。
「迷惑かけて本当にごめんなさい。ノエから居場所を奪ってごめんなさい。許して欲しいとは言わない。でも、できれば……どこかで、幸せになって……」
「…………」
ノエは答えない。だがほたるは納得していた。この期に及んで自分勝手なことを言っている自覚はあったからだ。間違いなく本心だが、ノエに自分の願望を押し付けているだけだと自覚していたから。
ほたるはソファから立ち上がると、階段に続くドアの方へと身体を向けた。
「どこ行くの」
「やっぱり、私がここにいるのおかしいから。どこか……邪魔にならないとこ行く」
とはいえ、そんな場所など思い浮かばなかったけれど。
ここはノエの家で、ノエの居場所なのだ。リビングや寝室などの生活スペース以外には、浴室とランドリールームしか知らない。邪魔にならないようにするにはその先の廊下くらいしかないだろう。
だが、それでいい。ノエの視界に入らないところに行きたい。自分を見ることで怒りや失望を感じさせてしまうのなら、せめてこの存在を意識しなくていいようにしたい。
そう思って歩き出そうとしたほたるを、「ここにいていいよ」というノエの声が止めた。
「いい。出てく」
「確かにほたるには迷惑かけられたけど、俺だってほたるの父親を殺したよ。だからそんなに気を遣う必要ないよ」
その言葉にほたるは父を失った悲しみを思い出したが、「……いい」とどうにか堪えた。
「だって……あれ、お父さんが全部仕組んでたじゃん。ノエが殺したことにはならない」
「でも本気で殺そうとしたよ」
「……お父さんだってノエを殺そうとした」
だから父のことでノエが気に病む必要はない――そう込めて答えれば、ノエが「もうスヴァインとは呼ばないんだ?」と声を落とした。
「……お父さん、だったから」
間違いなく、スヴァインは自分のとっての父だった。ならば父と呼ばない理由はない。
ほたるが答えると、ノエが息を呑む音が聞こえた。その理由は分からない。問いかけたくとも、自分には資格がない。
「じゃあ……」
逃げるように足を踏み出す――その瞬間だった。
「っ……また奪っただけじゃん」
苦しげなその声と共に身体が後ろに引っ張られて。抗う間もないまま、ほたるはソファに引き戻された。




