〈17-3〉本当に悪い子だ
「なっ……!?」
ノエが動き出した途端、振り払われた麗が驚いたように声を上げた。「お前そんな馬鹿力だったか!?」すぐさまノエを追って取り押さえようとするも、彼女より先にスヴァインが動いていた。
自分を狙うノエを引き付け、槍を拾い、相手の爪を弾く。攻撃ごと大きく飛ばされたノエは着地と同時にまたスヴァインを斬り裂こうと飛びかかって爪を振るい、スヴァインがそれを受け流す。しかし、彼は反撃しない。攻撃を捌くだけで精一杯の状態だからだ。
その光景がほたるには不思議だった。戦いのことは分からない。だが、ノエは明らかに単調な動きになっている。動物のように爪を振りかざすだけの攻撃しかしていないように見えるのに、それまでよりもスヴァインを押しているのだ。
あの人の怪我まだ治りきってないから? でもそこまで背中を庇っているようには……――その時、ノエの目が一瞬だけ見えた。
「ッ……!!」
ほたるの背を怖気が走る。
獣のようだった。紫色の瞳に美しさはなく、大きく見開かれたそれは理性を失った従属種を彷彿とさせる殺意に満ちて。ただただ相手を殺すという強い意志で以て、スヴァインに襲いかかっている。その殺意が彼の身体を突き動かし、スヴァインを圧倒しているのだ。
ほたるの知るノエではなかった。操られて無表情なだけならまだしも、あんなにも強い殺意を湛えているだなんて思いもしなかった。まるでその殺意がノエのものに見えてしまうくらいに強い、身を竦ませるような、おぞましいほどの狂気。
こんなノエを、見ていたくない。
「やめて……もうやめてよ……ノエをあんなふうに使わないで……!!」
わざとああなるように操られているのだろうか。それとも、彼自身の殺意が増長されているのだろうか。分からない。分からないが、あれが誰の仕業かははっきりと分かる。
だからほたるが懇願するようにアイリスを見れば、当の本人は涼しい顔で「この仕事を受け入れたのはノエだよ」と穏やかに言った。
「だとしても! ノエは人殺しなんてしたくないんだよ! もう限界なの!!」
それをはっきりとノエの口から聞いたことはなかったけれど。しかし彼がこの役割を快く思っていないことは知っている。自らの状況を自業自得だと語り、しかしやめることはできないと困ったように言っていた彼が、これを望んでいるはずがない。
自分のようなただの小娘にすら近くにいてくれと懇願してきた彼が、苦しんでいないはずがない。
「だから処分すると言っているだろう?」
「ッ、なんで分からないの!? ノエが限界でも頑張ってたのは、他の誰かにこんなことさせたくないからだよ! ノエはあなたからみんなを守ってたの! あなたのせいで誰が苦しむか分からないから、だからそうならないようにノエは一人で耐えてたの!!」
どうか伝われと、力いっぱい叫ぶ。アイリスがこの目に映ったものを見ていたのなら、ノエが苦しんでいるところだって見ていたはずだ。そうでなくとも、これまでノエが耐えてきたことくらい気付いていたはずだ。
四〇〇年も自分のための仕事をしてきたノエに、少しくらい思いやりはあるはずだ――けれどほたるのその期待は、一瞬で失望に変わった。
「それはノエの問題で、私には関係ない」
それまでと全く同じ表情で、ごく当たり前のことのように。
「っ……」
話が通じない。スヴァインに言われて知っていたが、しかしここまで通じないとは思っていなかった。
こんな人のためにノエは苦しんできたの? こんな人のために、ノエは今も嫌なことをしているの?
こんな人のせいで、みんな殺されるの?
「――――!!」
感じたことのないほどの激情が、ほたるの全身を熱くした。
今にも叫び出したいくらいに、頭を無茶苦茶に掻き毟りたいくらいに。自分では制御しきれないような大きな感情が体の中に渦巻いて、ほたるの呼吸を震わせる。
ふと目に入ったのは、少し離れた場所に落ちている鉄の塊。ノエが捨てた銃だ。それが何か理解するや否やほたるはその小さな金属に飛びついて、迷うことなく銃口をアイリスに向けた。
しかし、銃声が響くことはなかった。
「ぁ……?」
身体が動かない。息すらも、うまくできない。全身が石のように固まって、トリガーにかけた指に力を入れることも、そこから指を離すこともできない。
「お前に私は殺せないよ。上位の者を殺してはならないと、全ての血族の認識に埋め込んであるからね」
そのアイリスの言葉はほたるに自分の置かれた状況を理解させたが、だからと言って身体が解放されることはなかった。
「本当に悪い子だ。それはお前が私への殺意を収めるまでどうにもならないよ。子供なら自分の感情を制御できなくても仕方がないけれど……だけど、同情の余地はない。元はと言えばお前がノエをおかしくしてしまったのに、そうやって私のせいにして殺そうとしているんだからね」
「ッ……!!」
どの口が言っているんだ――叫びたいのに、ほたるの身体は未だ動かない。
アイリスはそんな彼女をしばし考えるように見つめると、「うん、そうだ!」と思いついたように表情を明るくした。
「やっぱりお前から死んでもらおうか」
名案とばかりにアイリスが言う。途端、スヴァインを狙っていたノエが方向を変えた。
彼が向かう先にいるのは、勿論ほたる。しかしその顔に湛えられているのは、ノエが決してほたるに向けたことのないもの。ノエなら絶対にしないとほたるが信じているもの。
「ノエ……」
無念が、ほたるの中にあった殺意を打ち消す。ノエに敵意を向けられることではなく、彼にこんなことをさせてしまうこの状況が、そしてそれをもたらしたのが己であるという自覚が、自責の念が、ほたるの激情の温度を下げる。
それでもほたるは動かない。動けない。身体はもう自由に動くと感じているのに、永遠にも感じる時間の中でただひたすらにその時を待つことしかできない。
だが、その時は来なかった。
「ッ!」
ノエの足が止まる。彼がそうしたのは、目の前に突然何かが飛び込んできたから。それは低い音を立てて地面を穿ち、ノエの進行方向を塞いだ。
ノエの前にあったのは槍だった。三叉の槍だ。それを持っていたはずのスヴァインは何かを投げ切ったばかりかのように腕を伸ばし、かと思えば「女、手を貸せ」と麗に告げながらノエの方へと向かった。
「あ? なんだよ急に!」
麗が答えた時にもう、スヴァインはノエのすぐ傍にいた。そしてノエも、再び獣のようにほたるに襲いかかろうとしていた。その首を横から掴んだのはスヴァインの手。そして、無理矢理自分の方へと向ける。
「誰も殺すな」
紫眼でノエの双眸を射抜く。ノエの動きが止まる。その隙に麗が後ろからノエを押し倒して、薙刀の柄で背中を突き刺した。
「ノエ!!」
ほたるが叫ぶ。「黙ってろ!」麗は言い返すも、その顔はノエに向けられたまま。うつ伏せになったノエの上に座り、片腕では薙刀を、もう片方の腕ではノエの左手を押さえつけ、更に足も使って残った右腕をも地面に縫い付ける。
「――ッ……ぅぁ……!」
ノエの目が本来の色に戻ったのは、そのすぐ後だった。
「っ……」
ドッ、とノエの額から脂汗が吹き出す。大きく見開かれた目に狂気はないが、酷い苦痛を感じているのだと誰が見ても分かるものだった。きつく歯を食いしばった口元からは飲み込みきれなかった唾液が流れ、荒い呼吸は土埃を起こす。
「離、せ……!」
痛みに悶絶するような声でノエが絞り出せば、彼の背中に乗った麗は驚いたように眉を上げた。
「何お前、これ初めてなの?」
「るせ……っ……」
弱々しく言い返すノエから麗が離れる。背を突き刺していた薙刀の柄が抜かれても、ノエはほとんど反応しなかった。そんなことは気にしていられないとばかりに額を地面に押し付け、頭の中で暴れ回る痛みを逃そうとそれを何度も地面に叩きつける。
「無様だな」
そんなノエを見てスヴァインが吐き捨てるように言った時、一部始終を見ていたアイリスが「へえ、意外」と声を上げた。
「お前がノエの手助けか。どうして解放してやったんだい? そんなことをしなくてもお前がノエを殺せば済んだはずだ」
「手助けじゃない。自分の意思のないこいつを殺しても気が晴れないだけだ」
スヴァインはそう言うと、未だ地面に投げ出されたままのノエの手を踏みつけた。
「ッ……お前……!」
「ノエ!」
スヴァインの行動にほたるが悲鳴を上げる。今起きた一連の出来事が何なのか、ほたるは完全には理解できていなかった。しかしスヴァインと麗の行動がノエを正気に戻したことは分かる。
それを成し遂げるために黙っていろと言われたのならば、もうノエには近付いてもいいはずだ――立ち上がろうとしながら「お父さんやめて!!」と声を張り上げれば、紫色の目がほたるを止めた。
「来るな」
「ぁ……」
ほたるの身体から自由が消える。「よせ!」ノエは止めようとしたが、スヴァインは「何故?」と見下すように問うた。
「俺のものだ。何をしようが俺の自由に決まってる」
「ッ……違うだろ……!」
地面に突っ伏したまま、ノエがスヴァインを見上げる。彼が身体を起こそうとすればスヴァインが更にその手をギリリと踏みつけ、ノエの行動を咎めた。
「ほたるは俺のものだし、あいつも俺を父と呼ぶらしい。だったらそう演じてやるのもいいかもな。お前に関する記憶を全て消して、お前に向けていた情をこちらに向け直して」
「な……」
「俺だけを盲信させれば、あいつは他を見なくなる」
「ッ、ふざけんな!!」
その瞬間、ノエが怒りで瞳を紫に染めた。鋭い目で相手の紫眼を睨みつける。だが、そうされたスヴァインは鼻で笑っただけだった。
「嫌なら殺せばいい。まあ、ほたるに見られることを恐れて手を止めた奴では無理だろうが」
「っ……」
「所詮お前はその程度だ。だからアイリスに利用される」
ギリ、とスヴァインに踏まれた手が地面に擦り付けられる。
「お前は誰も守れない。だからみんな死ぬ」
「――――!!」
一瞬のことだった。ノエの身体が黒い霧に変わり、スヴァインの後ろに現れた。
真後ろから爪を振りかざし、スヴァインの首を狙う。その怒りと殺意に満ちた目は、アイリスの支配下にある時の彼を彷彿とさせた。
「待って……!」
ほたるが自由を取り戻したのは、ノエの爪がスヴァインの首を掠った時。しかしすかさずスヴァインが足を振り抜いて、ノエの体は大きく後方に飛ばされた。
「それで殺せるつもりなのか?」
スヴァインが嘲笑うように言えば、ノエは「《うるせェよ!!》」と声を張り上げた。だが顔を上げた時にはもうスヴァインの膝が眼前にあって、ノエは咄嗟に横に倒れ込んだ。
そこで指先に触れたのは、少し前に自分を足止めしたスヴァインの槍。ノエはそれを迷うことなく手に取ると、怒りのままに相手に襲いかかった。
「《絶対に殺してやる……!》」
口から出た呪詛は、スヴァインへの怒りか。それともその言葉が嫌なことを思い出させたからか。ノエにはもう、どちらなのか分からなかった。分かるのは、自分が相手に明確な殺意を抱いているということ。そして相手がほたるをモノ同然に扱っているということ。守ったように見えたのは自分の所有物に手を出されるのが嫌だっただけで、そこに情などというものは一切ない。
アイリスと同じなのだ、この男も。たとえ人間として生まれていようと、かつては人間らしい情を持ち合わせていたことがあったとしても。長い間アイリスと共にあったこの男はとうに人間性を失った。
そんな奴に、人を語る資格はない。ほたるの父を名乗る資格も、彼女に情を向けられる価値もあるわけがない。自分から彼女を奪っていいはずがない。
怒りに任せ、何度も何度も三叉槍を振るう。自分でも稚拙な動きだとは分かっていた。だが制御が効かないのだ。腹の底から湧き上がるこの怒りは、殺意は、どこにそんな感情があったのかと思えるくらいに全身を蝕んで、冷静に策を練ることを阻んでくる。
ただ、殺さねばと。生かしてはおけないと。
それだけに支配されたノエがスヴァインを追い続ければ、やっと相手が体勢を崩した。
三叉の槍を振りかぶる。全身の力を込めて、その背に突き刺す。
「――駄目!!」
ほたるの悲鳴がノエに届くより先に、ノエの手に肉を抉る感触が伝わった。




