〈17-1〉お前はとても役に立ったよ
その時、ほたるには何が起こったかすぐには理解できなかった。
向かい合っていたスヴァインが突然驚いたように目を見開いて、次の瞬間にはこの身体を抱きかかえていた。少し離れたところに着地すると彼は崩れ落ち、その腕に抱かれたままだったせいで自分は正面から相手に抱き付く体勢になった。
そんな、単純に起こった事柄だけなら分かる。しかし何故そうなったかのかが分からない。更にその次に感じたもののせいでほたるは余計に訳が分からなくなった。咄嗟に相手の背へと伸ばしていた手に、背中にはあるはずのない硬い感触が触れたから。
それが抉られた骨だと分かったのは、どろりとした液体が手に付いたから。
「おとう、さん……?」
声が震える。状況が理解できない。何が起こったのか把握しようと必死に周りを見れば、自分が先程までいた場所にノエが立っているのが見えた。
俯いていて顔は見えない。けれどノエには見たことのない爪が、そしてそこから滴る血が、ほたるに彼のしたことを教えた。
「ノエ、なんで……――っ」
問いながら、ほたるは自分の思い違いに気が付いた。
ノエはスヴァインを狙ったのかと思ったが、これは違う。そのスヴァインが傷を負ったのは自分を抱きかかえた後だ。彼の腕の中で、爪が肉と骨を抉る音を聞いた。ならばノエが狙ったのはスヴァインではない。
ノエが狙ったのは、私だ――辿り着いた答えに、ほたるは言葉を失った。
頭が真っ白になって何も考えられない。「どうして……」こぼれた声は意識したものではなく、ただただ口から勝手に出ていっただけ。
それでもノエならばその疑問は聞こえていたはずなのに、彼が答えることはなかった。顔を上げることすらしない。今までの彼にない行動が、ほたるの中の不安を膨らませる。
まるでノエが、ノエではなくなってしまったかのような嫌な違和感。それが恐ろしくてほたるが彼から目を離せずにいると、ザリ、と足音が聞こえてきた。
「――火種だからだよ」
足音の方から、聞き覚えのある声がした。女の声だ。先程まで自分達がいた位置のやや後方、今ではノエと同時に視界に入れておけないその場所に目を向ければ、やはりそこには見覚えのある人物がいた。
「ラミア様……?」
ほたるが呆然と呟けば、少し離れた場所で麗もまた「なんであいつがここにいるんだよ」と驚いた声で言うのが聞こえた。となるとやはり、ラミアがここにいるのはおかしいのだ。
どうして彼女がここに――ほたるが考えようとした時、その腕の中でスヴァインがゆっくりと動いて、ラミアに顔を向けた。
「……アイリスか」
痛みに耐えるような声だった。しかし、その言葉はしっかりと聞き取れる。それでもどういうことなのかほたるには分からなかった。あそこにいるのはラミアなのだ。アイリスの名前が出てくるはずがない。
だが、そう思えたのは一度瞬きする間だけ。次に飛び込んできた光景に、ほたるは己の目を疑った。
「なっ……!?」
ラミアの姿がぐにゃりと歪んだのだ。粘土のように顔が、身体が、衣服が形を変えて、褐色だった肌と暗い色の髪が白くなっていく。その白さは、人では有り得ないくらいに。雪の中で暮らす生き物と同じくらいに白くなって、しかし紫色の瞳だけが妙に浮いて見えて。
豊満だったラミアの姿から、いつの間にかスラリとした見知らぬ人物の姿になっていた。身体付きも、白い布を巻き付けたような衣服にも性別を示す特徴が見当たらず、女なのか男なのかは判断が付かない。いや、そもそも人のようにも思えない。形は間違いなく人なのに、あまりにもそこから逸脱した色と雰囲気が、ほたるを恐れさせる。
あれは何だ? ――本能が、すぐそこにいる存在に忌避感を抱かせた。
「久しぶりだね、スヴァイン。一〇〇年ぶりかな?」
アイリスと呼ばれた何かがスヴァインににこやかな笑みを向ける。美しかった。けれど、不自然だった。何が不自然かははっきりとは分からないのに、何かがおかしいとほたるを身構えさせる。
声は、女だろうか。少し低いが男のものには聞こえない。知りたい。少しでもこの得体の知れない存在のことを把握しておきたい。
ほたるがそれだけ自分が相手を警戒していると気付いたのは、アイリスに呼びかけられたスヴァインが何も答えなかったからだ。
敵か味方か分からない。相手の目的が分からない。知る術がない。それは自ずとほたるの警戒心を刺激して、その目を相手の方へと縫い付ける。
だが一方で、予感があった。今のノエのおかしな様子にはあれが関わっていると、それだけは何故か予感していた。
「相変わらず無口だね。まあいいか」
アイリスはスヴァインの態度に肩を竦めると、ほたるに視線を向けた。
「ありがとう、ほたる。お前のお陰で知りたいことが全部知れた」
「え……?」
にこやかな笑顔がほたるの思考を止める。それはその言葉の内容もそうだが、一瞬、ほんの一瞬だけ相手を知っているような気がしたから。
柔らかい笑み、そこに帯びる微かな哀愁。それは、父を想って泣く母によく似ていて。
「っ……」
そんなはずはない、とほたるは慌てて頭を振った。あんな化け物が母と似ているはずがない。ノエにおかしなことをしているであろう存在が、母と似ていていいはずがない。
ほたるが自らの馬鹿な考えを追い出した時、「お前はとても役に立ったよ」とアイリスが続けた。
「初めて会った時にね、少し仕込んでおいたんだ。種子ってほどではないんだけど、お前の目で見たことは私にもよく見える」
そう言うアイリスのことは、もう母には見えなかった。だから安堵した。しかし、それも短い間だけ。
アイリスが何を言っているか、ほたるには分からなかった。初めて会ったというのはラミアのことだろうか。しかしそれでも身に覚えがない。彼女とはそもそもそんなに多くを話したこともない。
ほたるが戸惑っていると、アイリスが「ああ、そっか」と手を打ち鳴らすような動作をした。
「幻覚だと思っているんだっけ。違うよ、現実だ」
「現実って、何が……」
「ラミアの姿をしている時にお前の首を咬んだだろう? あれだよ。スヴァインに悟られないように記憶は書き換えられなかったけれど、ノエが幻覚だって思わせてくれたじゃないか」
「咬んだ……」
その言葉にほたるの脳裏に浮かんだのは、初めてラミアに会った時のことだった。
赤みの残る紫色の空、その光の中にいたラミア。彼女の強烈な紫眼に見つめられ、その色の美しさに見惚れ――
『……▓▓▓、▓▓▓▓▓▓▓▓▓』
――その声と共に、首を咬まれた。
『ぅぁ……ぇ……?』
全身を包む多幸感。夢の中にいるかのような、心地良い微睡み。
だがその次に目にしたのは、不思議そうなラミアの顔。何もなかったとでも言いたげなラミアと、ノエの態度。
『幻覚か何か見ちゃった?』
そう、言っていたのに。一瞬のことだと思っていたのに。
「あ……」
ラミアの部屋を出る時に見た空は、青かった。あんなに短い時間でこの世界の夕暮れ時は終わらない。つまり実際はそれだけの時間が経っていたのだ。時間の経過を感じなかったのはきっと、あの多幸感をもたらしたもののせい。ラミアの、アイリスの牙の毒のせい。
『毒が効いてるうちは意識がぼんやりするから、そもそも記憶に残りにくいんだよ。思い出そうとしてもあんまり思い出せないでしょ?』
ほたる無意識のうちに首に触れば、「痛みはなかっただろう?」とアイリスが微笑んだ。
「ちゃんとノエに手当てさせたからね。まあ、あの子は私がただ血を飲んだだけだと思っていたみたいだけど」
その言葉に思わずノエに目を移す。だが、俯いた彼は未だ動かない。まるでそれがアイリスの思いどおりになっているように感じられて、ほたるの唇にきゅっと力が入った。
「私はお前を通してスヴァインのことが見たかっただけなんだ。でもまさか、ノエの裏切りまで見ることになるなんて」
にこやかだったアイリスの顔が、ほんの少し剣呑な色を帯びる。その顔を向けた先にいるのはノエだ。アイリスの眼差しに、不快感が滲む。
「ノエにはね、自由な思考を許していたんだよ。ほら、この子の仕事は人を裏切るだろう? だったら私を裏切るように見せかけなきゃいけない時もあるかもしれないから、あんまり制限すると支障が出るかなって。だけどそれが悪かったね。本当に裏切るだなんて馬鹿な子だ」
「ノエに何をしたの……? なんで動かないの……?」
「仕事をさせているだけだよ。お前もスヴァインも、間違いなく火種だから」
それは、ノエが操られているということ。今の彼は本人の意思ではなく、アイリスの意思によって動いているということ。
その事実はほたるにこの状況への納得感を与えたが、彼女の顔は苦しげに歪んだ。自分を襲ったのはノエの意思ではないと安堵することはできても、その自由が奪われているならば喜ぶことはできない。
一方でアイリスは元の笑みに戻って、「心当たりはあるだろう?」とほたるに向かって首を傾げた。
「お前はノエの忠告を聞いた上で自ら火種になろうとした。その先に起こり得ることを理解していたのだから言い訳はできない。そんな悪い子は生かしておけない。スヴァインは当然、兄弟を殺した罪を償わなければならない。ノストノクスに任せようと思っていたけれど、ノエがそのノストノクスを使って私を騙そうとしてしまった。だったらもうノエも廃棄すべきだから、ここでまとめて処分してしまおうかなって。ちょうど必要な面子は揃ってるし」
ちょうどいいと言わんばかりにアイリスが両手を広げる。ほたるがそれに何か言うより先に、「さあ、ノエ」と言葉が続いた。
「仕事だ。スヴァインとほたるを殺しなさい」
その言葉と同時だった。これまでずっと動かなかったノエが動き出した。
「ノエ……!」
ほたるが悲鳴のような声を上げることしかできなかったのは、動けないから。未だぐったりしたスヴァインの身体が重たい。持ち上げようにも背中の酷い怪我を思い出し、動かそうという気持ちを引き止める。けれど動かなければノエに自分達を殺させてしまう――混乱で固まったほたるの目に、動くものが映った。
「クッソ……! ワケ分かんねェけどこれは駄目だろ!!」
間に入った麗がノエの両手を掴んだのだ。しかしノエも止まらない。すぐさま牙を剥き出しにし、麗に咬みつこうと大口を開く。だがその動きを「あ」というアイリスの声が止めた。
「麗はまだ殺しちゃ駄目だよ。最後にお前を殺してもらわなきゃ」
「ああ!? つーか本物のラミアはどうしたよ! あいつはアンタが自分になりすますのを受け入れるようなタイプじゃねェだろ!?」
「ラミアならとっくに死んでいるよ。だからあの子の姿を借りていた。それにラミアが死んだから、私はノエを血族に招き入れた」
アイリスが答えれば、麗が驚いたように「は……」と声を漏らした。
「ああ、戦争が激しくなる前はお前はラミアと親しかったんだっけ? 可哀想に。ラミアは頑張っていたよ。ノストノクスを設立して、この地に平和をもたらそうと努力していた。私も陰ながら応援していたんだけどね、結局反対派に殺されてしまったんだ。だから秩序を守るためには何物にも縛られない駒が必要だと気が付いた。それでノエを用意したんだよ」
アイリスの目がノエに移る。それまでの不快感の混ざった眼差しではなく、過去を思い出すような目だ。
「ノエは優秀だったよ。ラミアを殺した子が誰なのかよく分からなかったけれど、ちゃんと探し出して始末してくれた。私の指示に従って火種となる者を処分し続けてくれた。だから気に入っていたんだけど、やっぱり物はいつか壊れる。記憶を消してしまってもいいけれど、長い時間をかけてできた歪みに応急処置をしたってどうせすぐにまた同じことになる。だったらもういらない。分かるだろう?」
そうアイリスが問いかけた先にはほたるがいた。だからノエも殺すのだと言わんばかりのその様子に、ほたるが愕然とした面持ちとなる。
この人は一体何を言っている? ――浮かんだ疑問は、声にならなかった。だがそれは、その疑問が弱いからではない。
相手の言い分が全く理解できないからだ。言葉は理解できるのに、何故そんなふうに言えるのか理解できる気がしない。
アイリスの物言いはこの場にいる者達全員をモノのように扱っているようにしか聞こえない。自分のこともスヴァインのことも。そして、これまでアイリスの下で人を殺してきたノエのことでさえも。
「なんで……なんでそんなふうに切り捨てられるの!? ノエが今までどれだけ我慢してあなたの言うこと聞いてきたと思ってるの!? それをこんなっ……モノみたいに……!」
「私のものだよ。どう扱おうが私の勝手だ」
「モノじゃない! あなたの好きにしていいはずがない!」
「分からない子だね」
やれやれとばかりにアイリスが苦笑をこぼす。「ノエもお前達も、みんな私のものなんだけど」困ったと言いたげに、しかしその声には全くそんな響きはなく。
全く理解できそうにない相手の言動にほたるが困惑していると、近くでスヴァインが「無駄だ」と苦しげに口を動かした。
「共感も説得もできない。お前の話が通じる相手じゃない」
「でも……!」
「アイリスは人間として生まれていない。人間の価値観は理解できないし、する気もない」
「人間じゃないって……」
スヴァインが何を言っているのかほたるには分からなかった。確かに自分達は人間ではない。だが、元は人間だった。人間だった頃に吸血鬼に種子を与えられたのが自分達のはずだ。
なら、アイリスは? ――ふと、疑問が過る。
全ての吸血鬼の祖であるというアイリスのことは、誰が吸血鬼にした?
ほたるがそこまで考えた時、スヴァインの言葉が続いた。
「アイリスは人間でも吸血鬼でもない。ただの化け物だ」




