〈16-2〉それも駄目なの……?
「――来るぞ」
その直後だった、ほたる達の前に黒い風が吹いたのは。その風は一瞬にして人の形となって、そこからスヴァインが現れた。
久々に見るその姿にほたるの喉がごくりと動く。見慣れているはずなのに別人のように思えてしまうのは、最後に会った時に自分達の命を奪おうとしたからだろうか。父だと思っていた人が母を食い殺し、自分を、そしてノエをその爪で斬りつけた――あの夜の光景が、目に焼き付いているからだろうか。
それともその手に、見たことのない武器を持っているからか。エルシーの槍とも、麗の薙刀とも違うそれは、ここ最近に見たどの武器よりも凶悪な見た目をしていた。長い柄の両側についた大きな三叉の穂にはいくつも返しのようなものが付いていて、一度刺されたら簡単には抜けそうにない。抜けたとしても、ただ刺さった時よりも傷は広がるだろう。
あんなものを、もしかしたら――見ているだけでほたるの全身に力が入る。あれが吸血鬼達の本来使う武器だと麗から事前に聞いていたとはいえ、実際に目にすると恐ろしくてたまらない。
ほたるが思わずその三叉槍に釘付けになっていると、スヴァインがゆっくりと麗に顔を向けるのが見えた。
「誰かと思えば青軍の問題児か。何故邪魔をする? クラトスに泣きつかれたか」
「いんや、泣きついてきたのはそこの小娘だよ」
麗が笑いながらほたるを示す。するとスヴァインの目がほたるを映した。目が合った瞬間、ほたるはどきりと身を強張らせたが、ぐっと拳を握って怯えを追い払う。敵を前にただ見られただけで恐れていては駄目だと自分を叱咤して、「もうこんなことしないで」と声を発した。
「もう十分ノエに怪我させたでしょ。これ以上はやめて」
「何故?」
「ッ、二人にこんなことして欲しくないの! このままじゃどっちかが本当に死んじゃう!」
「当たり前だ。俺はこいつを殺そうとしているんだから」
「それをやめてって言ってるの!」
「少し黙ってろ」
その言葉と同時だった。ほたるの視界が突然バッと何かに塞がれた。
けれどほたるが驚いたのは一瞬だけ。すぐにその何かがノエの手だと気付いたからだ。彼がそうした理由は、考えなくても分かった。
また操られそうになったんだ――落胆が、ほたるの胸に落ちる。
いくら敵だと思っていても、そこにいる男のことは父親だと認識していたのに。その相手がまた、自分を操ろうとしたのだ。
「……ノエ、もういいよ。自分で見ないようにするから」
「けど……」
「大丈夫。話したいだけ……――っ」
「ほたる!」
ノエの声が遠くに聞こえる。思考が霧散する。けれどそれも、ほんの束の間のこと。
「――…………?」
目に映った景色で今のこの状況を理解しても、ほたるの中の記憶は一致しなかった。
ノエの手のひらが目の前にあったはずなのに、何故今は両肩を抱かれている?
いつの間に手が外された?
何故自分を呼ぶノエの声がこんなにも辛そうなの?
混乱するほたるに、ノエが肩を掴む力を強くした。
「あいつと話したいって考えるな。禁止されてるからそこで記憶が塗り替えられる」
「それも駄目なの……?」
そんなことすらも私はできないの? ――ノエから教えられた現実に、ほたるは自分の置かれた状況を知った。
ノエが断言するということは、恐らく何度も同じ条件でこれは起きているのだ。今それを教えてくれるのは知らないとまずい状況だからだろう。ノエがこれまで自分に教えなかった理由を思い、下唇を噛み締める。
こんなに簡単なことだったのだ。本当にいつ起こってもおかしくないことだった。何か大きな決意が伴うようなことでもなく、特殊な条件が必要なものですらなく。ただ、これだけ。スヴァインと、父と話したいと思うだけで、この記憶は消されてしまう。
『俺がもうあんなの見たくないんだよ』
先程聞いたばかりのノエの声が脳裏に蘇る。彼には珍しく憤りを感じさせる声が、最初に聞いた時とは違うものに感じられる。
そして何も不自由していないと、困ったことはないから気にすることはないと言った自分が、酷く滑稽に思えた。
私は知らなかっただけ。自分がされたことを知らないから、そう言えただけ。
ほたるは両手で顔を覆うと、その隙間から震える吐息を漏らした。
――スヴァインが動き出したのは、そのすぐ後だった。
「いい加減お前の遊びにも飽きた」
冷たい声と同時に響いたのは、金属のぶつかる音。ほたるがはっとして顔を上げれば、その先には麗の背中があった。スヴァインの攻撃を彼女が止めてくれたのだ。
「邪魔をするならお前から殺すぞ」
「いいねェ、遊んでくれるのか!」
嬉々として麗が薙刀を振るう。牢で見た時よりもずっと速く、大きく空気を裂くそれを受けていたスヴァインは鬱陶しそうに顔をしかめ、「邪魔だな」とほたる達の方へと進路を変えた。
「ッ、あっぶねェな!!」
鈍い音は、ノエの顔の前から。銃とナイフを使って攻撃を受けたノエがちらりとほたるを見る。離れろと言われているのだと理解したほたるが誰もいない方へと駆け出した時、スヴァインの背後で鈍色の刃が光を放った。
「無視すんなよ!」
薙刀の大きな刃がスヴァインの左腕を斬り裂く。だが、浅い。スヴァインが避けたからだ。
それを見たノエは「麗!」と声を上げた。
「ほたるを連れてけ! 攻撃されなくても巻き込まれるかもしれない!」
「断る!」
「なっ……!?」
ノエはうんと顔をしかめたが、そうさせた麗はもうそこにはいなかった。一瞬のうちにスヴァインのところまで移動して、再び相手と刃を交えている。
ノエはその光景に自分がほたるを安全な場所に連れて行こうかと考えたが、スヴァインが右腕しか使っていないことに気が付いて考えを改めた。負傷しているのだ。先程の麗の攻撃が、左腕を使えなくさせる程度には入っている。
ならば今、畳み掛けるしかない。この傷が治る前にもっと多くの怪我を負わせるしかない。
ノエは瞬時にそう判断すると、後ろ髪を引かれながらもスヴァインに向かっていった。
「銃使ったらぶっ殺すぞ!」
ノエが来たことに気付き、麗が牽制するように言う。「どっちの味方だよ!」スヴァインに攻撃をしかけながら言いつつも、ノエは麗がそう言う意味は理解していた。
壱政の時と同じだ。麗も壱政も、音を頼りに周囲の状況を把握しているのだ。だから銃を使われると困る。当たるかどうかではなく、その音が大きすぎるせいで目に閃光を浴びた時と同じことになるからだ。
この状況で彼女の邪魔をするわけにはいかない。スヴァインを殺すような攻撃はできないだろうが、それ以外ならば彼女はできる。そしていくら目隠しをしていても自分よりずっと戦力になると知っているから、ここで引くべきは自分の方だ――納得すると同時に、ノエは銃を捨てた。
そこからはもう、これまでと違った。罠を張る必要がない。そんなことをせずとも、ただ攻撃するだけで麗自身が罠となって追撃してくれる。
スヴァインが麗の攻撃を防げばその隙にノエが無防備な箇所を狙い、その注意がノエに移れば麗がすかさずその手足を狙う。ほんの少し前まで一切手傷を負わせられなかったのに、今はそれが嘘のように攻撃が入る。
ノエにもまだ殺す気がないせいで深手には至らないが、それでも時間を追うごとにスヴァインの身体には小さな、けれど無視できないであろう傷が増えていった。
「鬱陶しい……!」
忌々しげに吐き出すと、スヴァインは二人から大きく距離を取った。だが、離れたのは一瞬だけ。すぐにノエと麗が追いかける。そのほんの一時の間にスヴァインは爪で自分の腕を切り裂いて、麗が薙刀を振り下ろしかけると同時にその腕を大きく振った。
「っ!?」
放物線を描く赤い雫に、麗が攻撃を中止して後ろに飛び退く。しかし彼女の後ろからノエが構わず飛び出し、ナイフで相手の胴体を狙う。
その切っ先から、皮膚を貫く感触が伝わってきた時だった。
「なっ……」
自らナイフに飛び込むようにスヴァインが一歩前に出て、その鋭利な爪でノエの左腕を引き裂いた。
「ノエ!!」
ほたるが叫んだのは、ノエの腕が完全に切り離されたから。スヴァインの腹に刺さったナイフを握った手はそこに取り残され、一方でノエの体がぐんと後ろに引っ張られた。
「さっさとくっつけろ!!」
ノエを退避させた麗はそう怒鳴ると、スヴァインの元に残されていた彼の腕を取って後ろに投げつけた。
その腕を受け取り、ノエが自らの傷口に押し当てる。「ッ……!」骨と骨の合わさる痛み、割かれた神経の悲鳴。あまりの痛みにノエが顔を強張らせれば、ほたるが「ノエ……!」と近寄ろうとするのが見えた。
「来るな!」
「っ……」
止めたのは、この血はほたるにとって毒になるから。ノエは服の切れ端で腕を無理矢理固定すると、一人スヴァインと攻防を続ける麗の元へと戻った。
「…………」
その姿を、ほたるは見ていることしかできなかった。彼らの戦いに入れる気がしない。そもそも動きがほとんど追えない。見えても何がどうなっているのか、理解することができない。
ただ、膠着状態に陥りそうなことは分かった。先程まではノエ達が押しているように見えたが、今はもう違う。二人がかりなのに未だスヴァインは膝を突くことすらしない。
その理由は、ほたるにも分かった。
『ノエが何を狙ってるか次第だよ。私は結局スヴァインを殺せない。だからノエに合わせるしかない』
ここに来る前に聞いた、麗の言葉を思い出す。
『ノエがさっき教えた三叉槍を持ってなきゃ、望んでるのは生け捕りだろうな。それ以外で私らを殺すのは難しいから』
けれどそれは、ノエの話と矛盾している。彼はスヴァインを殺すと言っていた。しかしその彼が手にしているのは、ほんの小さなナイフだけ。ナイフとしては大きのかもしれないが、麗やスヴァインの持つ武器と比べるとおもちゃのようにしか見えない。
だからやはり、ノエは現時点では生け捕りを狙っているのだろう。ならば、それは。
『スヴァインに逃げられる前に腹括りな。奴の目的がノエを殺すことなら、無駄な削り合いが続くと思えばすぐに消えて仕切り直そうとしかねない』
今がその時だ――ほたるはずっと続いている小競り合いにゴクリと唾を飲み込むと、震えそうになる身体を叱咤した。
ここでスヴァインを逃がしてはいけない。いつまでもノエの命を狙わせるわけにはいかない。
「麗さん!!」
声を張り上げ、麗を呼ぶ。
覚悟はできた。いつでもできる――そう込めて麗を見つめれば、それまでスヴァインに向かっていた麗が姿を消した。
「よっしゃ来い!」
次に現れたのは、ほたるの前。ほたるの腕を掴み、彼女ごと身体を影に変える。
「何やって……!?」
彼女らの行動に驚いたのはノエだった。しかし驚いてばかりもいられない。スヴァインの攻撃の手が止まらないからだ。「ッ、それどころじゃねェだろ……!」苛立ったように言うも、スヴァインは表情を変えなかった。あくまで自分の獲物はお前だけだと言わんばかりにノエに槍を向け、その胴を貫こうと鋭い突きを繰り出す。それを皮一枚で避けたノエの前に黒い風が吹き、かと思えば離れていろと言わんばかりに腹を重たい打撃が襲った。
「痛ってェな麗!!」
弾き飛ばされたノエが怒声を上げる。その目に灰色の布が映る。小さな身体を覆う、大きなマントだ。薙刀を持ったその人影に、「お前も鬱陶しい」とスヴァインが槍を向ける。
その三叉の穂の先が、マントに隠れた胸に届く寸前だった。
「――お父さん」
「ッ……」
直後、灰色のマントが赤く染まった。