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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【前篇】第二章 波間の呼吸
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〈5-2〉それはどういう感情?

 ほたるが部屋に戻ると、最初と同じ位置で待っていたノエが意外そうな顔をした。


「あれ? シャワー浴びるんじゃなかったの?」


 その問いかけを受けながら浴室のドアを閉める。そのままほたるは数歩歩いてベッドに腰掛けると、皺くちゃのスカートの裾を直しながらノエの方を見た。


「……流石にあなたをお待たせしているので」

「別にいいのに。ていうか遠くない?」


 この部屋は二つのスペースに分かれている。部屋の入口から近い方と、遠い方。ソファが置かれた側と、ベッドが置かれた側。そしてノエが座っているのはソファで、ほたるがいるのはベッドの上だ。

 この広い部屋で会話をするために必要な近さの、一番遠くに陣取ったほたるに、ノエが怪訝な顔で首を傾げる。


「……二日近くお風呂に入っていない気がするので」

「だから?」

「え……いや、普通に気になりません?」

「あー、そういやほたる日本人か」


 思い出したようにノエが言う。流暢な日本語を喋っているくせに何を言っているのだろうとほたるは思ったが、もしかしたら言語だけ完璧で文化にはあまり触れていないのかもしれない、と思い直した。


「二、三日シャワー浴びないとか別に珍しくないよ? ま、本人が気にするなら仕方ないけど」


 それはあなたの顔が良いからでは? ――ふと浮かんだ文句に近い問いは口にしなかった。

 顔が良くても不清潔なものは不清潔だ。確かに毎日入浴するのは日本人くらいだと聞いたことはあるが、流石に三日は誰でも臭くなるのではと眉をひそめたくなる。

 と、ほたるが考えていると、窓の方に目をやったノエが納得したように、「あ、そういうことか」と呟いた。


「じゃァそれ履かなかったのも、やっぱ他人の靴は嫌だったってことか」


 それ、と言われて、ほたるは窓の近くにあるものの存在を思い出した。サンダルだ。「あ……」無意識のうちに声が漏れたのは、相手の善意を無下にしてしまったと気付いたから。

 だが、違う。そういうわけではないのだ。ほたるは失礼なことをしてしまったと慌てると、「あの……!」と声を上げた。


「それ、違くて! 人の靴が嫌っていうか、私の足が汚いから、汚しちゃうと思って……」

「汚れたら洗えば良くない?」

「……借り物を汚すのは、ちょっと」


 気が引ける。たとえ相手が承知していたとしても、できれば綺麗に使いたい。

 勢いをしぼませたほたるにノエは難しい顔をすると、「ってことはもしかしてこれも着れないかな」と言って、ソファの陰から紙袋を持ち上げた。


「え?」

「着替え。ほたるに貸してくれた奴がいるんだけど、着ると汚れるから着れない?」

「あ、それは着ます」

「なんでだよ」


 訳が分からないとばかりにノエが顔をしかめる。「……お風呂に入った後ですけど」とほたるが付け加えれば、「ほう……?」と今度は不思議そうに首を捻った。


「まァいいや。とりあえず冷えてるならコーヒー飲む? ポットに入ってるからまだ温かいと思うよ」

「い、いただきます。けど……そこに置いていただく感じで」


 そこ、とほたるが指差したのはベッドとソファの間にある棚のようなものだった。一般的な机よりも少し高いそれの上にはいくつか装飾品が飾られているが、マグカップを置くスペースは十分にある。

 そのスペースとほたるを見比べて、ノエの顔がどんどん険しくなっていく。怒りというよりは呆れを表すような険しさだ。そしてその左右の眉根がうんと近付ききったところで、「……あァもう!」とノエが天を仰いだ。


 その直後だった。彼の姿が消えた。黒い霧すら残さず、一瞬にして。


「ッ、ひ!?」


 ほたるが驚いたのはノエが消えたからではない。消えたことを驚く前に、自分の身体がぐんと持ち上げられたからだ。


「えっ、なっ……ええ!?」


 ほたるはノエの腕の中にいた。ベッドに座っていたはずなのに、ノエに横抱きにされているのだ。

 ノエはほたるに何も言わないままぐんぐん歩いていくと、ソファに戻ってきたところでほたるの身体を優しく、けれど放り投げるようにしてその上に落とした。


「なっ……なっ……!?」

「はい、オッケー。もう近いから色々気にしてもしょうがない」

「本人が気にするなら仕方ないって言ったのに!」


 バッ、とほたるが距離を取る。と言ってもソファの上で端っこに寄っただけた。全身を熱くする羞恥心は運ばれ方と、それから自身の汚れを思ってのもの。完全に密着されたなら絶対に嗅がれたと、ノエを睨みつけながらこっそりと息を吸い込んで自分の匂いを確認する。


「お、敬語取れた」

「ッ……!!」


 座り直しながら指摘してきたノエに、ほたるの顔がぐっと歪む。羞恥と悔しさの混ざった表情だ。そんなほたるにノエは苦笑をこぼすと、「やっぱ意識してやってたのか」とほたると目を合わせた。


「日本人って相手と距離取りたい時にも敬語使うんでしょ? だから使っちゃ駄目」


 だからこそ使うんだと言いたいのに、ほたるの口はうまく動かない。安全な場所に着替え、それから靴と、なんでも揃えてくれている相手にそんなことを言ってもいいものかと良心が咎めるのだ。


 けれど、近付きたくない。物理的にも、精神的にも。唯一の味方とも言える相手に気を許してしまえば、自分の中で何かが変わってしまうかもしれないという不安があった。それを防ぐための最後の砦とも言えるものが言葉遣いだったのに、良心がちくりちくりと刺激されるせいで、これは砦ではなくただの我儘なのかもしれないと思えてきてしまう。


「気ィ張ってるとしんどくなるだけだよ。遠慮だっていらない。ほたるは俺らの都合でここに置かれてるんだから、もっとふんぞり返っときな」


 ほたるを気遣うような言葉だった。無理矢理自分を攫ってきた側とは思えない発言に、困惑と罪悪感がほたるを苛む。


「……誘拐犯のくせに」


 どうにか絞り出した声が弱くなったのは、相手にしてみれば誘拐ではないと理解してしまっているからだ。

 ノエはただ、仕事をしただけ。自分達の法に従って動いただけ。それはほたるからすれば誘拐以外の何物でもないが、ノエにとっては保護に近いものだったのだろう。


 だが、ノエがほたるの発言に嫌な顔をすることはなかった。


「誘拐って……そうね、それは間違いない」


 へにゃりと申し訳なさそうに笑う。それがまた、ほたるの良心を引っ掻く。


「勝手に連れてきたのは本当に悪いと思ってるよ。あのまま向こうにいればほたるの親が種子をどうにかしたはずだから、ほたる自身は死ぬ心配する必要もなかっただろうし」

「親って……うちのお母さんは人間です」


 母を悪く言われた気がしてほたるが声を尖らせれば、ノエは「あ、そっちの親じゃなくて」と首を振った。


「俺らって人間みたいな方法で子供作れないのよ。だから人間に種子を与えて、それを発芽させることで仲間を増やすワケ。で、その関係性を親子って表現するんだよ。だからほたるを〝子〟としたら、ほたるに種子を与えた吸血鬼がほたるにとっての〝親〟。俺が親って言ったら大体そっちの意味だと思って」


 ならば母を悪く言ったわけではなかったのかと、ほたるが小さく息を吐く。


「……じゃあ、あなたが誰かに種子をあげたら、あなたが親?」

「そういうこと。そうやって素直に聞き返してくれるってことは、色々受け入れられてきた?」


 人好きのする笑みでノエが問う。その問いにほたるはぐぬぬと顔に力を入れると、「……少しだけ、ですけど」と渋々頷いた。


「〝です〟?」

「……少しだけだけど」

「ん」


 満足そうに笑ったノエの顔は、やはり誰が見てもそう思うだろうというくらいに整っていた。その笑みにほたるは思わず当てられそうになって、ただの愛想笑いだ、と自分に言い聞かせる。

 彼はきっと自分の顔面の価値を知っているのだろう。だからこうやって笑顔の大安売りをするのだ。そう思うと笑顔如きで自分が落ちると思われているのかと腹立たしくなってきて、ノエを見るほたるの目はじっとりとしたものになった。


「それはどういう感情?」

「……愛想の良さに騙されないぞという決意」

「ははっ、なにそれ」


 爽やかな笑い声は、これまでの自己暗示のせいか、ほたるには馬鹿にされているように聞こえた。

 流石にそれは被害妄想か、と自分の中の認識を調整する。多分馬鹿にはされていない。真面目に受け取られていないだけだ。しかしそれはそれで馬鹿にしているのと同じなのでは――ほたるが考えていると、「あ、そうだ」とノエが続けた。


「やっぱ俺のことはノエって名前で呼んでよ。なんか寂しい」

「…………」


 やはり馬鹿にされていたのかもしれない、とほたるの眉間に力が入る。寂しいから名前で呼んで欲しいとは、ナンパ男のような雰囲気がある。


「疑うなって。日本語の〝あなた〟ってなんか冷たくて好きじゃないんだよね」


 そんなことはない――言おうとした時、ほたるのお腹がきゅうと鳴った。一瞬どきりとして、しかしこれなら大丈夫だ、と胸を撫で下ろす。授業中に腹の虫を抑え込む戦いは何年もしてきたのだ、今回の音が周りに聞こえるものかどうかくらいすぐに分かる。

 それでもほたるの目は自然とローテーブルの上にある陶器製のポットに向いた。なんだかんだで飲めていないコーヒーが入っているポットだ。

 今のは空腹で鳴ったはずだから、コーヒーを飲めばしばらく鳴らないだろう。毎回聞こえない音で鳴ってくれるとは限らないから、今のうちに対策しておいた方がいい。

 と、長年の経験から答えを導き出した時、ノエが「腹減ってんの?」と首を傾げた。


「……え?」

「だって腹鳴ったじゃん」

「は!? 聞こえ……!?」

「耳が良いんだよね。意識すればこの距離でも心臓の音だってギリ聞こえる」


 そうだ、彼は人間じゃないんだ――自分の耳を指差すノエに、ほたるの顔がみるみる羞恥に歪んでいく。「あ、恥ずかしいんだ」ノエは今気付いたとばかりに言うと、「へえー?」とニヤニヤと笑い出した。


「ほたるにとって空腹で腹が鳴るのは恥ずかしい、と」

「……何が言いたいの」

「ん? ほたるが恥ずかしい思いをしないように俺も気を付けるから、俺の〝あなた〟呼びは寂しいって気持ちも認めて欲しいなァって」


 言われて、ほたるの唇が真一文字に引き結ばれる。その目はノエを睨みつけているものの、悔しさが滲むせいで威圧感は全くない。むしろ情けなくすら見えるほたるの姿にノエは「じょーだん」と笑うと、「シャワー浴びといで」と浴室を視線で示した。


「メシ食いに行こう。けど食堂だからさ、俺以外の奴もうろついてるんだよね。一緒に行くから危険はないけど、風呂入ってないの気になるんでしょ?」


 まるで子供をあやすような口振りに、ほたるの顔が更に情けなくなる。しかし食事は魅力的で、その口からは「……分かった」と素直に答えが出た。


「でも、お風呂の間は外にいて欲しい……」

「駄目ー。もしかしたら今後離れられない状況になるかもしれないから今から慣れといて。別に覗きやしないよ」


 やはりノエの言葉は子供に向けるかのようで。意識している自分の方がみっともないではないと感じてしまったせいで、ほたるはそれ以上何も言うことができなかった。

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