〈16-1〉やっぱり父親には死なれたら嫌?
見知らぬ建物、絡まれたくなかった相手。そして、そこにはいるはずのないほたるの姿。
最初は違う誰かだと思った。麗と同じマントで全身を覆い隠しているから、彼女の系譜の者かと。だがそれはほんの一瞬のこと。その匂いを、顔を、どうして別人と思えるだろう。
間違えかけたのは、ここにいるはずがないと、こんな場所にいてくれるなという願望のせい。
「なんで……」
ノエが思わずこぼせば、ほたるは「ごめん……」と後ろめたそうな表情を浮かべた。
そんな顔をするなと手を伸ばしかけて、ノエは自分が未だ地面にへたり込んだままだと思い出した。
こんな姿をほたるに見せるわけにはいかない。彼女を不安にさせるわけにはいかない。
自分を叱咤し、立ち上がる。少しよろければほたるが急いで駆け寄ってきて、ノエの体を支えると同時に腹の傷を見て苦しげに眉根を寄せた。
「見張っといてやるからさっさとその怪我どうにかしろ」
麗が血液の入った瓶をノエに投げつける。それを受け取って一気に煽れば、ノエは回復の消耗による怠さが引いていくのを感じた。腹の怪我はまだ完全には治りきっていないが、もう手で押さえておかなくても問題はなさそうだ。大怪我をしたまま影となったせいで全身を苛んでいた痛みも治まった。
だがそうすると今度は思考がはっきりしてきて、ノエは弾かれたように麗とほたるを交互に見やった。
何故この二人が一緒にいる? そもそも何故麗が自分を助けるようなことをした?
その答えが浮かぶと同時に、ノエはザァッと顔を青ざめさせた。
「まさか……」
驚愕の面持ちでほたるを見れば、そのほたるはきゅっと唇を引き結んだ。
「ほたる……何したの……?」
ほたるに麗を動かせるとは思えない。何せ彼女は誰の言うことも聞かない。序列上位の者ですら、そうそう彼女に命令を出すことなんてできない。
それができるのは――辿り着いた答えに小さく首を振る。どうか勘違いであってくれと願いながらノエはほたるを見たが、それが勘違いではないことは彼女の表情が物語っていた。
「……クラトスと取引した」
「取引って、どんな……」
「あの人の仲間になる」
「ッ――――!」
その瞬間、ノエの頭が急激に熱を持った。
「なんでそんなことした!? あいつと手を組んだらどうなるか教えただろ!? それなのになんで……!!」
「っ……」
ノエの怒声にほたるがビクッと肩を揺らす。きつく閉じられた瞼は何か恐ろしいものに出遭った時のよう。その姿にノエははっとすると、自分を落ち着かせるように深呼吸した。
「……ごめん、きつく言い過ぎた」
怖がらせる気はなかった。怖がらせたくはなかった。ただ自分が、己の感情を制御しきれなかっただけ――そう込めてノエが言えば、ほたるは恐る恐る目を開けて、「……ノエが怒った」と確認するように口にした。
「怖がらせてごめん」
眉をハの字にしながらほたるの頬に手を伸ばす。その手が拒まれなかったことに安堵していると、ノエはほたるの口が窄んでいることに気が付いた。
怖がっているのかと思ったが、この表情には見覚えがある。これは……――
「ほたる……もしかして喜んでる?」
そんな馬鹿な、と眉をひそめる。けれどほたるは「ごめん、つい」と気まずそうに目を逸らすと、「怒られることして悪いとは思ってる」と言って、おずおずとノエを見上げた。
「でも……ノエが私に怒るの初めてだったから」
「……そんな場合じゃないでしょ」
へにゃりと表情を崩し、はあ、と深い溜息を吐き出す。毒気が抜かれてしまった。しかしだからと言って全く気にしないで済むかと言えば、そういうわけにもいかない。
頭ごなしに怒りたくはないが、ほたるのやったことがまずいのは事実なのだ。そこまで能天気でもないはずなのにどうしてという気持ちと、その行動を咎めなければならないという気持ちがひしめき合って、うまく言葉にすることができない。
するとほたるの方が気を取り直すように背筋を正して、「ノエが嫌がることしたって分かってる」と真剣な面持ちとなった。
「あんな反応しちゃったけど、怒らせたかったわけじゃない。嫌なことをしたかったわけでもない。ただ、ノエを助けたかっただけ。この行動のせいで何が起こるかも分かってる。それでも何もせずにはいられなかった」
「尚更質が悪いよ。ふざけてやったって言われた方がまだ良かった。大真面目に考えてこんなことするって……」
冗談ならどれだけ良かったか、とノエは額に手を当てた。こちらを怒らせたかったから、閉じ込められたことに腹が立ったから仕返しをしたと言われた方がまだ救いがあった。それならばもう用は済んだはずだし、クラトスとの取引のことだってわざと大袈裟に言っただけかもしれなかったからだ。
だが、これは違う。ほたるは本気で言っている――ならば彼女の言葉は全て事実なのだと嫌でも理解させられて、ノエの顔は当惑でどんどん険しくなっていった。
「でも、やったことはノエと一緒だよ。ノエが私の安全のために私を遠ざけたのと一緒。私はノエの安全のために自分から離れた。それだけ」
「……それだけで済まないって分かってるでしょ」
「でも今じゃない」
ほたるが真っ直ぐにノエを見る。声と同じくらいに強い目にノエがたじろいだ時、ほたるがぐっと眉根を寄せた。
「ノエは今死ぬかもしれなかった」
「……死ぬつもりはなかったよ」
「そんな怪我してるのに?」
ほたるの目が、ノエの腹を映す。傷はもうだいぶ塞がったが、同時に引き裂かれた衣服は戻らない。それから、そこを汚すおびただしい量の血液も。
ほたるはもう一度辛そうに目元に力を入れると、ゆっくりとノエの顔に視線を戻した。
「今回は運が良くて死ななかっただけかもしれない。だったら運が悪ければ死ぬかもしれない。そんな状況なのに死ぬつもりはなかったとか言われても信じられない」
「本当に死ぬつもりはなかった」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だよ。死んでもしょうがないくらいは思ってたでしょ」
「それはっ……思ってたけど! でも死ぬ気はなかった。少なくともスヴァインを殺すまでは」
言ってから、ノエはしまった、と顔を強張らせた。ほたるに責められるとこれだから困るのだ。彼女にはどういうわけかこちらの嘘が気付かれてしまう時があるし、その時は誤魔化そうとしても見逃してくれない。その上図星まで指されるものだから、どうにも判断力が鈍ってしまう。
そのせいで余計なことまで口走ってしまったとノエは弁解しようとしたが、開きかけた口はほたるの表情を見て止まった。
「……あの人のこと、殺すの」
無表情に近い、暗い顔。自分を恐れていた時のような、相手を拒絶する顔。その表情に全てが終わった先にあるものを悟って、ノエは一気に冷静さを取り戻した。
やはりこれしかないのだ――自分の選択は正しかったとノエが確信した時、ほたるの口がゆっくりと動き出した。
「……捕まえるだけじゃ駄目なの?」
「事情が変わったんだよ」
「どんな事情?」
「ほたるには関係ない」
「嘘」
「…………」
確かに嘘だった。けれど、すぐに認める気にはなれなかった。認めたくなかった。
この手で殺さずに済むならどれだけ良かったか――未来を思って眉間に力を入れたノエに、「どうせ私に関係あるんでしょ」とほたるが暗い声のまま続ける。
「だから私のこと閉じ込めたんでしょ。私が反対すると思ったから。私が反対しても、ノエは考えを変える気がなかったから」
ほたるが悔しげに顔を険しくする。その理由は、言葉にされずともノエには分かった。
だが、分かっただけだ。信じられるのも考えものだと、ノエは内心で苦笑した。ほたるは何も知らないはずなのに、彼女は恐らく疑っていない。自分のこの行動が彼女のためのものだと、そしてそのために自分がスヴァインを殺すのだと。
ならばもう隠していても無駄だ。どちらにせよ、その時になればほたるも知ることになっていた。それが、少し早まっただけ。
ノエは静かに息を吸い込むと、未だ暗いほたるの瞳を見つめた。
「俺が殺さないと、あいつはほたるにかけた洗脳を解かない」
その言葉に、ほたるの眉がぴくりと動く。
「……そんなの放っといていいよ」
「よくない」
「いいよ。別にそこまで不自由してないもん」
「それは記憶が消えた自覚がないからだろ」
少し強い声で言えば、ほたるが喉を動かしたのが分かった。彼女にしてみれば嫌な現実。だがそれは自分にも同じなのだと、ノエが口を動かし続ける。
「俺がもうあんなの見たくないんだよ。だから全部外させる。そのためにあいつを殺す。ほたるが望もうが望ままいが、俺が俺のためにすることだから止めても無駄だよ」
「……駄目だよ」
力なく否定したほたるに、ノエの顔には嘲るような笑みが浮かんだ。
「やっぱり父親には死なれたら嫌?」
あんなことをする奴でも、ほたるにとってはやはり父親なのだろうか。だから自らの自由よりも相手が死なないことを望むのだろうか――考えただけでもむしゃくしゃしてくる。
何故あんな奴がほたるに情を向けられるのか。何故彼女に想われるのか。
何故、ほたるには自分だけでは駄目なのか。
ノエが奥歯を噛み締めた時、「そうじゃない」とほたるが首を振るのが見えた。
「ノエは自分の意思で人を殺しちゃ駄目って言ってるの」
「あいつは人じゃない」
「人だよ」
「ほたるをモノとしか見てないのに?」
ノエが言えば、ほたるはきゅっと下唇を噛んだ。今にも泣きそうな表情で瞳を揺らし、けれどぐっと堪えるように目元に力を入れる。
「それでも……人だよ。ノエがどう思おうと、間違いなく人なんだよ。そう簡単に殺しちゃいけない。なんで分かってくれないの」
「綺麗事だからだよ」
「ただの我儘だよ。私が自分の意思で人を殺すノエを見たくないだけ。ノエの理由と一緒」
そこまで言うと、ほたるはきつく目を閉じた。涙を押し込めるように深呼吸して、再び目を開く。目尻を指で拭ったが、それは閉じたことで濡れた睫毛の水を払っただけだ。その瞳にはもう揺れはなく、絶対に引かないと言わんばかりにノエを見据える。
「他のことは何でも我慢する。閉じ込められようが記憶をいじられようがいくらでも我慢できる。だけど、これだけは譲れない」
その眼差しは強く、敵意すら感じるほどに。ほたるには珍しい姿にノエが答えるべき言葉を見つけられないでいると、「――盛り上がってるとこ悪ィけど」と目隠しをした麗が二人に声をかけた。
「来るぞ」
 




