〈5-1〉単っっっ純……
どうしたものか、とノエは頬を掻いた。
朝になったからほたるを呼びに来たのに、部屋の外からノックをしても返事がなかった。だから確認のために中に入り、その姿を探し、そして彼女を見つけたのがこのベッドの陰。
ミノムシのようにシーツに包まり、しかしノエが足音を気にせず近付いても全く気付かないまますやすやと眠っている。
「……これは警戒心が強いの? 弱いの?」
どちらだろう、と首を捻る。警戒心が強い人間は大抵周囲の気配に敏感なものだが、この少女は可愛らしい要塞を作るだけ作れば安心してしまうタイプらしい。
そういえば自分が昨日窓から入った時も声をかけるまで気付かなかったな、とノエは思い出した。最初こそその警戒心を試すために音を立てないようにしたが、部屋に入っても全く気付く様子がなかったため、内側から鍵をかける時は特に注意して行動しなかったのだ。
「普通はもっとしっかり警戒するように変えるよなァ……」
それなのにこの中途半端さ。エルシーに時間が欲しいと言っておいて良かったと、ノエが小さく息を吐く。
「……待つか」
ついでにコーヒーでも持ってきてやろうかと考えながら、ノエは眠っているほたるからそっと離れた。
§ § §
ほたるが目を覚ました時に感じたのは寒さだった。
身体が冷え切っている。寒い。暖を求めて身動ぎすれば、今度は背中から腰にかけて鈍い痛みに襲われた。
「痛……」
伸びをしようと身体を動かしかけて、狭さに阻まれる。そうだ、自分は床に寝たのだ。それもベッドと壁の間という狭い場所に。
寝る前の記憶が戻って来る。いつの間に寝てしまったのかと思いながらベッド伝いに隙間から這い出す。ガチガチに固まりきった身体を柔らかく受け止めてくれるマットレスに、こちらで寝ればよかった、と後悔した。
「寒い……」
ベッドに這いつくばるように登り、腰下あたりまでそこに乗せたところで脱力する。ああ、これは駄目だ。身体が溶ける――とほたるが二度寝の誘惑を受け始めたところで、「コーヒー飲む?」と声が聞こえてきた。
「ッ、な! んで……!?」
ガバリと顔を上げれば、ソファに座るノエと目が合った。途端、ほたるの頭が混乱する。何故ここに。一体いつから。いや、彼は鍵を持っている。でもだからと言って勝手に入っていいのか。しかし既に一度やっている――考えれば考えるほど混乱していって、ほたるはただベッドの上で口をパクパクと動かすことしかできなかった。
「うわ、顔にすんごい痕ついてる」
「ッ!?」
バッ、と両手で顔を覆う。勢いを付けすぎて良い音が鳴った。そして痛い。
けれどそれ以上にほたるを苛んでいたのは羞恥心だった。寝る前に胸を覆っていた恐怖はどこかへ飛んでいき、代わりにとんでもない恥ずかしさがほたるの冷え切った身体を熱くする。
これは、そう。全校集会の場で部活の壮行会が行われた時、その壇上で思い切り転んでしまった時の恥ずかしさと同じくらい、いや、それを上回る恥ずかしさだ。
何せ寝起きなんて誰にも見せられるものじゃない。それなのにあろうことかこの顔面に痕が付いているらしい。そしてそれを指摘してきた男の顔がモデルか何かかと聞きたくなるくらい良いものだから、自分の有り様との対比でどんどん羞恥心が膨張していく。
「あぇっ、か、かがっ……!」
「鏡? 浴室はあっち」
慌てふためくほたるとは違い、ノエが落ち着いた様子でベッドの近くにあるドアを指差す。それを見たほたるは一目散に指が指し示す先へと走っていって、やけに分厚いそのドアを開けると同時に体を滑り込ませた。
「わっ、すご……」
初めて見た浴室は、他と同じくホテルのような造りをしていた。しかし今のほたるにそれを楽しむ余裕はない。キョロキョロと目を動かして鏡を見つけると、その前に飛び込んで自分の顔と向かい合った。
「やば……」
右の頬に、目尻から口の横まで続く大きな赤い痕。明らかにシーツの痕だ。細かい布の皺まではっきりとついている。
この顔であの顔の前に出たのか――ほんのりとした絶望感がほたるの頬を引き攣らせる。痕ばかりに気を取られていたが、全体的に顔がテカテカしている。目ヤニも付いているし、薄っすら引いていたアイラインも滲んで下瞼を茶色く不格好に染めていた。
そうだ、風呂に入っていないのだ。ここに来てどれくらい経ったのか、正しい時間はよく分からない。しかし腹具合からして最後の食事から一日近く経っていそうな気がした。塾に行く前に食事を取ったから、もしかしたら丸一日経ってしまったのかもしれない。そして顔を洗ったのは、その日の朝。
「お風呂……いやでもあの人いるし……」
知らない相手、それも男性がいるのに無防備に入浴などしていいものだろうか。考えて、そもそも自分は無防備に寝ていたのだと思い出した。
そしてまた、絶望する。今度は自分の身だしなみではなく、神経に。
寝る前にあれだけ恐怖を感じていたのに、今は全く感じない。それが強烈な羞恥心のせいならばよかった。けれどほたるには、違うという自覚があった。
安心しているのだ、あの男が近くにいることに。自分を守ると明言している者がいるお陰で、この部屋の中は安全だと感じてしまっている。
「単っっっ純……」
これはもう、認めるしかない。自分にはあの男が、守ってくれる人が必要だと。種子とやらに殺されないためにも、自分に悪意を向けてくる者達に襲われないためにも。あの男の言うことはある程度信じて、受け入れるしかないのだ。
そう思うと気が重くなったが、一方で肩から力が抜けるのが分かった。
自分の常識が通じず、更には知っている人間が誰もいない中で、頼れる相手がいるというのはこういうことなのだ。その実感が、ほたるの口から深い息を吐き出させる。
「……とりあえず顔洗お」
まずはあの男にもっと詳しいことを聞かなければならない。昨日は自分に信じる気がないから話すことを減らしたようだったから、こちらが姿勢を変えれば教えてもらえることも増えるかもしれない。
そんなことを考えながら備え付けの石鹸で顔を洗い、歯も磨き、多少はマシになった自分の姿を見て、ほたるはもう一度深呼吸をした。
正直なところ、風呂に入りたい。体を洗いたい。あの夜道で逃げ帰った時に相当冷や汗をかいたのか、それとも単に走ったからか。流石にあちこちベタベタするし、自分の体臭だって気になる。しかも相手の見た目が無駄に良いものだから、余計に居心地が悪くなる。
けれど彼が部屋にいるうちは憚られると自分を納得させて、ほたるは部屋に繋がるドアに手をかけた。