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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【後篇】第三章 砂上の幸福
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〈10-1〉……そういえば見えたね

 温かい湯に浸かりながら、ほたるはふうと息を吐いた。

 頭の中にあるのは、ノエに言われたこと。もう彼を頼ることはできず、その上他の吸血鬼ともまともに関われないから、自分は一人で生きていかなければならないらしい。

 それは、とても心細く思う。人間として一人暮らしすると考えただけでも心細いのに、人外の存在として一人ぼっちで生きていかなければならないと考えると不安でたまらない。けれど自業自得だという自覚もあるから、受け入れるしかないと感じている。

 ノエが悪意でこちらを突き放しているわけではないことは分かる。むしろ善意だ。その証拠に一人で生きていく方法は教えてくれると言うし、こうして風呂も着替えも全て用意してくれている。あれだけ迷惑をかけたのに、彼の態度にこちらを見限っていると感じさせるものは微塵もない。


 だから私がすべきは、ノエに言われたことを受け入れること――そう自分に言い聞かせながら、ほたるは浴槽の湯を抜いて身体を洗い始めた。

 体中を汚していた血液の汚れは、ノエがあらかた洗い流してくれたらしい。けれど湯をかけただけだから匂いは消えていないと言われ、嗅いでみれば確かに体中から血の匂いがした。だからまだ体は重たかったが、気持ちを整理したいこともあって勧められるまま風呂に入ることにした。


 これまでと違って血の匂いに鉄臭さをあまり感じないのは、人間ではなくなったからだろうか。自分の記憶にある匂いと感じ方が違うせいで全く気付かなかった。それか、既に洗い流されていたからか。しかし髪に馴染ませたシャンプーの泡はほんのり赤く染まったから、まだ結構汚れは残っていたのかもしれない。


 そうやって別のことを考えながら全身を洗い終え、ノエのものらしい服を着て、ドライヤーで髪を乾かす。

 久々のドライヤーは楽だ。ノクステルナではずっと電気がなかったから、長い髪を乾かすのが億劫でしかなかった。

 けれどもう、それはあまり気にしなくていいのだろう。ノストノクスや他の吸血鬼に見つからないようにするということは、ノクステルナには戻れないということ。ならば電気のない生活はきっともう終わりだ。ここで必要な知識を身に付けるまでノエと生活して、そしてその後はどこかで一人、ひっそりと暮らすのだろう。


「っ……」


 思い出して、ほたるは鼻にツンとした痛みを感じた。


 やはり、心細い。帰る家がもうないことは分かっていたのに、それでも平気でいられたのはノエが傍にいてくれたからだ。

 それなのに、そのノエともう二度と会えなくなる。完全に一人になってしまうと思うと苦しくて仕方がない。


「……私のせいなんだから」


 だから、泣くな。辛いと思うな。ノエはこちらが人間として生きられるように努力してくれていたのに、それを台無しにしてしまったのは自分自身なのだ。


 ノエは今、どんな気持ちなのだろうか。これまで人間のまま帰そうとしていた相手が、自分から人間をやめてしまって。

 酷い裏切りと感じているかもしれない。こんな奴のためにはもう何もしたくないと、怒りを感じていたっておかしくないだろう。それなのにノエは、こちらを責めない。それどころかずっと、自分が無事で生きていけるように考えてくれている。


 それがどうしようもなく、悲しい。


「なんで……」


 ノエがこちらを責めないのは、ただ優しいからだけではない気がする。

 彼はきっと全てを諦めているのだ。仲間を持つことも、誰かに与えた思いやりが自分に返ってくることも。誰かに恨まれ、裏切り者と謗られることも、全て。


 どうしてノエが諦めなければならないのだろう。人を傷付けるのが仕事だとしても、やりたくてやっているわけではないはずなのに。


『だって不自由でしょ、俺ら』


 ノエが時々口にしたこの言葉は、恐らく彼の本心だ。全部諦めて、誰のことも仲間と思わずに生きてきて。そうしなければならない状況にいたから、ノエは不自由だと言ったのではないか。


「なんで……!」


 なんでノエが諦めなければならないのだろう。


「なんでっ……」


 なんであんなにも優しい人が、誰かを殺さなきゃいけないんだ。


 ほたるは悔しさに拳を握り締めると、勢い良く浴室から出ていった。



 § § §



「――ノエ!」

「わっ、びっくりした」


 階段を走り下りて行ったほたるがドアを開けると、ソファに座っていたノエが大きく目を見開いた。ここは寝室の手前の部屋。内装からしてリビングだろうか。いつもよりだいぶくつろいでいたらしいノエは裸足で、黒いソファの上に寝そべるようにして座っている。

 そんなノエにほたるが「やっぱりおかしい!」と言いながら近付いていくと、ノエは「あー……」と気まずそうな顔をしながら座り直した。


「やっぱ気絶してるほたる勝手に風呂入れたのは駄目だった? ごめんね、一応下着の上からお湯かけるだけにしたんだけど」

「……え?」

「それじゃないの?」


 きょとんとノエが首を傾げる。一方で自分の話そうとしていた内容とは全く違う話をされたほたるは数秒その内容を咀嚼して、意味が分かると同時にバッと後ろに飛び退いた。


「ッ――――!!」


 パクパクと口を動かし、声にならない声を上げる。

 これほどまでに驚いたのは、てっきり服を着たままどうにかされたのだと思っていたからだ。随分手間をかけさせてしまったなと、湯船の中で想像して申し訳なさすら感じていた。

 けれどほたるは肝心なことを忘れていたことに気が付いた。考え事をしていたから、完全に意識していなかった。


 風呂に入る前、自分は下着を脱いだだろうか。


 その答えが浮かぶと同時にほたるの顔はカッと赤く染まって、目には羞恥の涙が溜まった。


「し、した、下着……! き、着てなかっ……!」

「びしょ濡れだから脱がしたけど」

「ッ、見たの!? 全部!?」

「……そういえば見えたね」

「馬鹿ァ!!」


 思い切り叫んでその場に座り込む。先程までの気まずさはどこかへ飛んでいったが、しかしそれ以上の恥ずかしさがほたるの顔を膝に埋めた。


「……ごめんね? 流石にあれだけ血塗れだと拭いてどうにかなる状態でもなくて」


 ソファに座ったまま、ノエが気遣うように声をかける。


「いやでもほら、下心はないから。ほたるの裸見ても特に何も思わないから」

「それはそれで屈辱っ……」

「えー……」


 ほたるの反応にノエは困り果てた顔をすると、ぽりぽりと頬を掻いた。彼の目に映るほたるは壁際で丸く縮こまり、全く動く気配がない。あの時はほたるの体調ばかり気にして流石にそこまで考えていなかったと、ノエは「あー……」だの「いやァ……」だのといった声を漏らすと、「慰めになるかは分からないんだけど」と恐る恐るアルマジロのようになったほたるに声をかけた。


「まだ毒が回ってたから、それで酷いことになってた印象しか残ってないよ」


 だからあまり見ていないよと言外に込めて。

 しかしそれを聞いたほたるは全く別の受け取り方をしていた。薄っすらと記憶にある、毒に侵された自分の身体。気絶する直前に手がちらりと見えただけだが、まるで映画に出てくるゾンビのように、この皮膚の下には黒く毒々しい血管がはっきりと浮かんでいたのは覚えている。


 それを、ノエはたくさん見たのだ。その原因が分かった上で彼はこの身の惨状を目の当たりにしたのだ。


「……ノエは、」

「うん?」

「それ見てどんな気持ちだったの……?」


 ノエが自分をスヴァインから守るためにそうしたことは知っている。だからこのことをノエが気に病む必要はない。けれどノエの声からは後ろめたさが感じられたから、ほたるはどうしても気になった。


「申し訳ないことしたなって。背中も傷痕残ってるし」


 想像したとおりの答えにほたるの顔がくしゃりと歪む。なんだったら背中の傷のことまで出され、余計に胸が締め付けられた。


「……やっぱりおかしいよ」


 ノエは私を守ろうとしてくれただけなのに――何故彼ばかりが罪悪感に苦しめられなければならないのかと、浴室で浮かんだ疑問が戻って来る。


「なんでノエばっかり我慢しなくちゃいけないの?」


 ほたるがのそりと顔を上げて問えば、ノエは「我慢?」と不思議そうに問い返した。


「だってそうじゃん。私はノエにたくさん甘やかしてもらったけど、ノエのことは誰が甘やかしてくれるの? アイリスの仕事だってしたくてしてるんじゃないんでしょ? それなのに誰も仲間だと思わないようにして生きて、人を殺して。私がどこかで無事に生きてるならいいって言ってたけど、私だってノエには無事でいて欲しいよ。無事っていうのは怪我もそうだけど、嫌な思いしないで過ごしていて欲しいってことだよ」

「それは……」


 頭の中にあった疑問が溢れ出す。ノエは自分を守ろうとしてくれた。自分がどれだけ我儘で幼稚な態度を取っても、責めずに許してくれた。たった一月にも満たない期間しか一緒にいない自分に対してそうなのだから、きっとこれまで多くの人にも同じような態度を取ってきたのだろう。

 それなのに、ノエが誰かにそうされているところはまだ一度も見たことがない。彼が大人だからだとか、たった一月ではそんな場面はないだろうだとか、それを説明するような理由は浮かぶ。

 浮かぶが、それでは説明できないのだろうと直感していた。何故なら、実際にノエが誰かに守られていたことはないはずだから。一月でも一年でも一〇年でも、それはきっと同じ。


 でなければノエは、誰も仲間だとは思っていないだなんて言えないだろう。


「ノエ、私に嫌なもの見せたくないから一緒にいたくないって言ったよね。嫌なものって自分で言ってるじゃん。ただ私と一緒にいたくなくて言ってるだけかもしれないけど、でもノエが私のこといつも気遣ってくれるの知ってるよ。そのノエが嫌なものって言うなら、本当に嫌なものなんだと思う。でもさ、じゃあなんでノエはそれを見なきゃいけないの? なんでノエは自分のことは気遣わないの?」


 これだけ優しい人は、誰かにも優しくしてもらっていいはずなのに。恐らくノエの態度が周りにそうさせないのだ。適当で、誰のことでも平気で裏切ると。そういう性格だとノエ本人が見えない壁を作って拒むから、ノエは誰の優しさも受け取れない。受け取らない。

 それはもしかしたら、周囲に仲間意識を持たないための手段なのかもしれないけれど。それでも、どうしてたった一人で苦しまなければならないのかと、どうしてそれを選んでしまうのかと、怒りにも似た感情が湧く。


「……自業自得だからだよ。俺はアイリスに同胞殺しをしろって言われた上で吸血鬼になることを受け入れた。あの頃は自暴自棄だったのもあるけど、それでも俺自身がそうするって決めたことは間違いない。それをもう嫌だって放棄するのはおかしいでしょ?」

「すればいい」

「そしたら殺されるだけだし」

「ノエの代わりの人に?」

「そ。分かってるじゃん」


 困っていたように笑っていたノエは、その言葉とともにいつものへらりとした笑みに戻った。それがほたるには無性に腹立たしくて、そしてやはり、悲しかった。


「……ノエが続けるのは、他の誰かがやらなくていいように?」


 そのほたるの問いに、ノエの喉がコクリと動いた。

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