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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【後篇】第三章 砂上の幸福
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〈9-2〉だって……ずっとそこにいる

 目覚めたほたるが最初に見たのは知らない天井だった。打ちっぱなしのコンクリートの天井だ。


 ここはどこだろう。


 ただその疑問だけが頭に浮かぶ。知らない場所にいるという不安は何故かなく、どちらかと言うと落ち着くような気さえした。

 けれど、この場所に心当たりは全くない。コンクリートの天井なんてノクステルナで見たことがない。むしろほたるの暮らしてきた世界にありそうなものだ。しかし外界に戻った記憶などないと思いながら少し目を動かせば、壁のところに現代的なデザインの棚を見つけた。これもまた、ノクステルナらしくない。

 よく分からないままもぞりと起き上がれば、酷い怠さがほたるを襲った。だが同時に、心を落ち着かせる匂いも感じた。


「この匂い……」


 思い出しかけた時、ほたるの頭に記憶の波が押し寄せた。


 吸血鬼になったこと、ノエが現れたこと、クラトスに騙されていたこと。そんな自分の愚かさに打ちひしがれ、ノエに謝罪しなければと思った瞬間、身体の自由を失ったこと。


『なら懺悔するといい。人のものに手を出すからいけなかったと』


 ノエを責めて。


『お前は俺が直接殺してやる。それまでこいつから離れるなよ』


 彼を殺そうとした。


「ッ……」


 激しい痛みの中、悲鳴すらも上げられなかった。ノエを傷付けたくないのに、身体が勝手に彼を殺そうとした。謝罪を伝えたいこの口は、殺意しか伝えてくれなくて。


「なんでっ……!」


 私の身体なのに――ほたるが両肩を抱きかかえる。


 恐ろしかった。身体の自由が全くなかった。前回はそれでも自分が思考したという自覚があったのに、今回はそれすらもなかった。

 自分がノエを殺そうとするのを、ただ見ていることしかできなかった。

 もう、種子はないはずなのに。種子がなくなれば解放されると思っていたのに。


 吸血鬼になったから? 発芽させただけでは、あの支配からは逃れられないの?


 ほたるの全身が震える。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、改めて思い知らされる。

 後悔の念に苛まれそうになった時だった。ほたるの耳が、小さな足音を拾った。


「起きた?」

「ノエ……」


 その瞬間、ほたるの震えが治まった。目を向けた先にいたのはノエだったからだ。彼は部屋着のような、楽な格好をしている。それだけでここは安全なのだとほたるは実感して、震えが治まるどころか身体から力が抜けるのを感じた。

 一方でノエもまた、安堵したような表情でほたるを見ていた。部屋の入口の横に立つ彼は壁にもたれかかっている。ノエはそのままの体勢で小さく息を吐くと、「丸一日寝てたよ」と話し始めた。


「まだ頭が働いてないかもしれないけど、一応説明するね。ここは外界の俺んちで、ノストノクスも知らないから誰も来ない。でも閉じ込めてるワケじゃないよ。出たかったらいつでも出ていいし、俺も止めない。ただ今の時期は白夜で外に出れないから、ほたるの行きたいところに俺が鍵を使って送ることになる。それから――」

「待って!」


 ほたるが思わずノエを止めたのは、彼がその場から動かないからだ。最初の位置のまま、必要事項のようなものを一気に話す。その姿はまるで、これ以上近付くことはないと言っているかのよう。

 彼にそうさせているのは自分だと思い至ると、「ごめん、なさい……」と口にするほたるの唇は震え始めた。


「ほたる?」

「ごめんなさいっ……今までずっと。ノエのこと信じないで、疑って、クラトスの言うとおりにして……っ……ノエはずっと、約束守ってくれてたのにっ……わた、私が、怖がって裏切って……っ」

「そんなこと、」

「そうなの! ノエがお父さんみたいにいなくなったら怖いから、だからっ……それだけ、謝りたくて……本当にごめんなさい……」


 ノエが見限るのも仕方ないと、自分でも思う。どれだけ歩み寄っても拒絶して、その上この身を守るための言いつけすらも守れないような奴は、もう駄目だと、いい加減にしろと諦められても仕方がないと思う。

 そして、ノエがその気持ちを隠す理由はもうない。何故ならもう自分は人間ではないから。この体の中の種子を取り除くという言葉をノエが守る必要はなくなったから。


 自分が人間でなくなれば、ノエの仕事も終わり。彼は約束を果たした。だから、正しい距離に戻っただけ。


 そう、理解していても。


「ちゃんと、出てくから……自分で出てくから……だから……」


 嫌いにならないで――その気持ちが、消せない。


 どの口が言っているのかと思われることは分かっている。これまで散々迷惑かけて相手の気持ちを無下にしてきたのだ。それなのに自分だけがそんなに都合の良いことなんて言えるはずがない。

 だから言いたくない。言いたくないのに、嫌わないで欲しいと願う気持ちが止められない。


「急いで出ていかなくていいよ。好きなだけいていい。追い出さないから大丈夫だよ」


 そのノエの声はほたるのよく知っているものだった。優しくて、寄り添うようで。その内容もほたるを受け入れるかのようなものだったが、ほたるはふるふると首を振った。


「だめ、出てく。今日か、明日か……できるだけ早く出てく」

「行きたいところでもあるの?」

「っ、ない、けど……でももう、ノエが私に優しくする理由ないから……これ以上迷惑かけられないから……っ……泣いてるのも、気にしなくていい。ただ出ちゃってるだけだから、可哀想じゃないから、無理して優しくしなくていい……」


 ぼろぼろと流れる涙を必死に押し留める。泣き落としみたいな真似はしたくない。ノエの優しさに付け込むようなことはしたくない。

 けれど拭っても拭っても涙は止まらなくて、ただただほたるの焦りを強くしていく。


「それって、理由がないと俺がほたるに優しくしないって言ってるのと同じだけど」

「ちがっ……ごめ、なさ……違うの……違くて……っ」

「うん」


 思わず顔を上げたほたるに、ノエがゆっくりと頷く。どんな言葉でも聞いてくれそうな彼の姿に、ほたるの自制心が力を弱める。


「……これ以上、嫌いにならないで」


 震えた、消え入りそうな声だった。それでもノエには確かに聞こえたらしい。彼は少しだけ目を見開くと、「俺がほたるを嫌ってるの?」と困ったような笑みを浮かべた。


「……違うの?」

「そう見える?」

「だって……ずっとそこにいる」


 その距離こそが自分達の間にあるものではないのか。そう込めてほたるが言えば、ノエが「あァ、これ」と思い出したような顔をした。


「ほたるは俺のこと怖いでしょ? だから近付かない方がいいかなって」


 優しくノエが笑う。ああ、まただ――ほたるの中に罪悪感が募る。


 言わなければ。伝えなければ。怖がっていたのはノエ自身ではなくて、自分が頭の中で勝手に作り上げてしまった彼なのだと。父と同じように自分を捨てるかもしれないと思い込んで、それが怖くてノエのことも恐れていたのだと。


「こわ……くない。ノエのこと、怖くない」

「凄く嘘っぽい」

「嘘じゃない!」

「そっか。でも今から怖くなるよ」

「え……?」


 ノエの言葉がほたるを混乱させる。一体どういうことだろうと彼を見つめれば、ノエは「どこまで覚えてる?」と首を傾げた。


「……多分、全部」

「なら俺の序列が嘘っていうのも覚えてるよね」


 ほたるは言葉で答えることはできなかった。代わりにこくりと頷いて、覚えているとノエに伝える。するとノエはすっと目を細めて、ゆっくりと口を動かし始めた。


「俺の本当の序列はスヴァインと一緒。つまりほたるより高くて、ほたるが自分の血が毒になるって俺を気遣ってくれてる時もずっと嘘吐いてた。その上俺はこの血をほたるに飲ませたよ。牙の毒なんか比べ物にならないくらい苦しませるって分かってたのに」


 その言葉にほたるの頭に操られている間の記憶が過った。ただ見ているだけだったから、どこまで理解できているかは分からない。けれど、確信がある。


「それは……スヴァインを追い出すためでしょ?」

「うん。でもほたるとの約束を破ったよ。怪我させないって言ったのに、怪我どころか毒まで飲ませた」

「破ってない。……裏切ってない」


 何故ならノエがそうしたのは、自分を助けるためだったのだ。それを裏切りだと思えるはずがない。

 ほたるが強く言えば、ノエは小さく「ありがとう」と笑った。けれどほたるがその表情に安堵するより先に、「だけど、」という声が続いた。


「ほたるがこうなったのは全部俺のせいだよ。スヴァインが言ってたでしょ? 俺がほたるに会いに行ったから種子が目覚めたって。多分正しいよ。ほたるの種子がずっと休眠状態だったなら、俺の行動がきっかけになって目覚めたんだと思う。俺がほたるからただの人間として生きる道を奪ったんだよ。……母さんのことも」

「違う!」


 思わずほたるが声を張り上げる。「お母さんを殺したのはスヴァインだよ」強い声で続けたが、ノエの表情は変わらなかった。


「でもきっかけは俺だよ」

「だけど……違うもん……」

「吸血鬼になったのも俺が信用できないからだったのに?」

「っ……」


 問われて、ほたるの眉根がぎゅっと寄った。いつの間にか止まっていた涙がまた涙腺に溜まり始め、咄嗟に目を逸らしてやり過ごそうと試みる。その涙が完全に去る前に、「そんな顔しないで」とノエが苦笑した。


「ほたるが俺を信用しきれないのはしょうがないよ。俺どう見ても不審だったじゃん。それで説明もしないんだから、人並みに警戒心があれば当然疑うよ」


 そこで言葉を切って、笑みを弱める。眉尻の下がった表情は後ろめたさを感じているようなもので、その顔を向けられたほたるの胸がキリキリと締め付けられた。


「それに、クラトスが言ってたことも正しい。ほたると二人の時に何を話したかは知らないけど、でも俺がほたるに信用されるために嘘を吐いたっていうのは本当。わざとほたるを困らせて、弱ったところを利用したっていうのも本当。手に火傷したでしょ? あれもわざとだよ。約束は本気でしてたけど、それ以外はほたるにたくさん嘘吐いたよ。勿論、約束した後も」


 ノエの口元に薄っすらと笑みが浮かぶ。いつものへらりとした笑い方だ。けれど、いつもよりも暗い。

 それが意識してなのか、無意識なのかはほたるには分からなかった。分かるのは、ノエのこの話に嘘はないということだけだ。


「でも……約束は破ってないでしょ……? 毒はもういい。それ以外には……」

「ないよ。流石にあの約束は俺なりのお返しみたいなものだったし」


 その答えにほたるの口からほっと息が漏れる。ノエは約束を破っていない。裏切っていない。確かに嘘を吐いて人を騙そうとしたかもしれないが、それだけではないのはもう知っている。

 だから、そんなことはもういいのだと言ってしまいたい。それなのに言えないのは、こんな話をするノエの真意が分からないからだ。


「……ノエは、私に恨んで欲しいの?」


 ノエの話しぶりは、まるで自分を責めろと言っているかのよう。だからほたるが問えば、ノエはゆるりと首を振った。


「恨むのもそうだけど、それ以上に俺なんかを信用しちゃ駄目って話かな」

「なんで……?」

「俺はいつかほたるを殺すから」


 柔らかい笑みでノエが答える。その表情と言葉がちぐはぐで、けれど言われたことはほたるの胸に突き刺さって。ほたるが呆然としていると、ノエが話を続けた。


「今すぐではないよ。でもいつかそうしなきゃならない時が来るかもしれない。そうなったら、俺は迷わずほたるを殺すよ」


 穏やかな声だった。少し前までだったら、ほたるはこんな話をこんなふうにできるノエを恐ろしく思っていたかもしれない。

 けれど今はもう違った。恐ろしくはない。恐ろしくはないが、不安でいっぱいになる。ノエのその言葉が嘘ではないと、彼が本気でそう言っていると思えてしまうから。


「どうして……」


 そんなことを――ほたるがこぼせば、ノエは「俺がほたるに吸血鬼にならないでって言ったの覚えてる?」と同じ声で続けた。


「……うん」

「ほたるが人間でいることが、俺がほたるを殺さないで済む唯一の理由だったんだよ。でももうそれもなくなった。だからもう、俺を信用しちゃ駄目。俺にもうほたるとの約束は守れないから」


 だからこれは覆せないのだと。これまで守ってくれた約束すらも、もう終わりだと。

 ノエの言葉が物語る現実に、ほたるは何も返すことができなかった。


「ここにいるうちに一人で生きていく方法を教えるよ。その間は俺もほたるとの約束を守る努力はする。さっき好きなだけいていいって言ったけど、やっぱり撤回させて。準備ができたらなるべく早く出ていきな。その後はもう、俺に見つかっちゃ駄目」


 それは、もうノエは近くにいてくれないということ。背を向けられたわけではない。もういらないと捨てられたわけでもない。ほたるの方が去れと彼は言っているのだ。

 ついさっきまでまでほたる自身もやろうとしていたことなのに、いざ改めてノエに言われると頭の中が真っ白になる。


 だからだろうか。ノエは「何か飲み物持ってくるね」と言ってその場から立ち去った。階段を上るような音がして、その後にドアが閉まると彼の足音は聞こえなくなった。


 どこか、離れたところに行ったのだと。その間に受け入れておけと言われているような気がするのに、ほたるは何も考えることができなかった。

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