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【改稿版】マリオネットララバイ  作者: 丹㑚仁戻
【後篇】第二章 希望の代償
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〈8-6〉お前も気に入らない

『ノエ、私は――っ』


 その瞬間、ほたるの顔から感情が抜け落ちた。それまで何かを伝えようとするかのように苦しげな表情で目に涙を溜めていたのに。そしてそれを決して流さまいと、必死に目元に力を入れているように見えたのに。


「ほたる……?」


 ノエの前にいるほたるは、無表情で彼を見つめていた。


「《またお前か》」


 不意にほたるの口から冷たい声が発せられた。それも、日本語ではない。そして同時に虚ろだった瞳は紫色に染まり、ノエを睨みつけた。


「《ッ、スヴァインか……!》」


 そうと直感しても、ノエには目の前で起きていることが理解できなかった。これではまるで、ほたるの体が彼に乗っ取られているかのよう。

 しかしそんなことができるなどという話は聞いたことがない。自分達ができるのはあくまで洗脳だけで、他者の意識に入り込むことなどできるはずがない。


 まさか自分の知らない何かが秘匿されているのでは――思わずノエがクラトスを見れば、彼もまた驚いた顔をしているのが分かった。


「《こんなことが……》」

「《お前みたいな年寄りも知らないのかよ》」

「《……スヴァインから見れば私も子供だ》」


 苦々しげにクラトスが言う。すると〝ほたる〟は彼に目を向けて、「《発芽させたのはお前か、クラトス》」と嫌そうに吐き捨てた。


「《……ええ》」

「《余計なことを》」


 〝ほたる〟の目が鋭くなる。その瞬間、ノエがクラトスを蹴飛ばした。


「《呆けてんなよ、おっさん!》」

「《っ……》」


 ノエに蹴られたクラトスが腹を押さえる。「《礼は言わない》」不服そうに言いながら顔を上げたが、その目は硬く閉じられていた。

 どうやら間に合ったらしい――ノエは胸を撫で下ろした。今の〝ほたる〟はほたるではない。仮にほたる本人であっても、彼女の持つ序列はクラトスよりも上。その目を直視することは危険なのだ。


 どうするべきか、ほたるを見ながら考える。本来転化したばかりでは力の使い方は知らないはずだが、スヴァインが乗っ取っている以上その考えを持つのは危険だろう。

 ならばほたるより序列の低いクラトスはいないものとして考えなければならない。彼であればもう油断して操られるということはないだろうから、そちらは気にせずほたるだけに集中すればいい。

 この部屋にいるうちに捕らえ、その後で正気に戻せば――ノエが考えていると、〝ほたる〟の顔がゆらりとノエの方を向いた。


「《お前も気に入らない》」


 表情のない顔で言って、消える。「ッ!」次の瞬間にはもう〝ほたる〟はノエの目の前にいた。彼の視界に映ったのは、鋭利な爪を持った手。()()()()()()()()()()()()()()()()()ノエは、それでも咄嗟にその爪を避けた。

 そのままほたるの右腕を掴み、後ろに捻り上げながら回り込む。ほたるの身体を痛めつけるようで気が引けたが、こちらに()()()()()()攻撃をしてくる以上仕方がない。


「《さっさとほたるから出てけよ!》」


 ノエが声に怒りを滲ませる。だがその直後、ノエの手の中でバキッと嫌な音がした。


「《は……?》」


 腕を掴んで拘束していたはずの〝ほたる〟の身体が、ノエから離れる。掴まれていない左手に爪を出し、振り向きざまに彼に振るった。


「《っ……!》」


 ノエの頬に引っ掻き傷が走る。しかしノエは〝ほたる〟の腕を離していなかった。離してはいないが、〝ほたる〟は構わずノエを蹴り上げようとしてきた。

 その動きに合わせてミシミシと骨の軋む音が鳴る。それを手のひらから感じ取って、ノエは避けながら思わず〝ほたる〟を拘束する手を離した。


「《お前、何やって……》」


 震える声で問いかける。その声の先には〝ほたる〟がいた。ノエの拘束から抜け出し、彼の前に佇む〝ほたる〟。掴まれていた右腕はだらりと力なく垂れて、その中の骨が折れていることを物語る。


「なるほど、痛みがない。言葉も日本語(こちら)の方が話しやすいな。制御が不完全なのか……だからこんなにも動かしづらいのか」


 〝ほたる〟が確認するように無事な左手を動かす。その手で折れた右腕を持ち上げ、ゴリゴリと擦り合わせるような音を立てながら骨の位置を調整する。程良い位置で少し動きを止めれば骨は再生し始めたように見えたが、今度は〝ほたる〟の鼻からたらりと血が流れた。


「おい、それ……」


 思わず日本語で語りかけたのは、相手が使う言葉を切り替えたからだろうか。しかしノエには自分の行動の理由を考えることはできなかった。目の前の光景が不可解だったから。


 ()()は怪我をしていないはずだ――呆然としたノエの指摘に、〝ほたる〟は今気付いたとばかりに鼻に手を当てた。


「負荷も酷いな。痛みがないから正しく把握することもできない……このままじゃ子殺しになりかねないか」

「もうやめろ……その子を殺すな……!」


 ノエには何が起こっているのか、正確なことは分からなかった。しかしそれでも、今この状況がほたるの体に負担になっていることだけは分かる。

 だから懇願するように声を発したが、〝ほたる〟はゆるりと顔を上げて、侮蔑するような眼差しをノエに向けた。


「お前がそれを言うのか?」

「何……?」

「こいつの中の種子を起こしたのはお前だろう」


 断定するように〝ほたる〟が言う。その言葉を聞いて、ノエの中で点と点が繋がった。


「ずっと休眠状態のままなら人間として生きられたのに、お前が種子を起こしたからこんなことになった。俺に対抗しうる力でお前が()()を操ろうとしたから」


 ノエの脳裏にほたるに初めて会った日のことが蘇る。彼女が会ったであろう従属種のことを聞こうとして紫眼を使い、しかし種子の抵抗力に阻まれうまくいかなかった。だからより強い力を込めた。結果としてそれでもうまくいかなかったが、あの時ほたるの身には変化が起きてしまっていたのだ。

 休眠状態だった種子が、あの瞬間に目覚めてしまった。自分が起こしてしまった。()()()()()()()()()()()()()()()なのに、他でもない自分がやったから。自分が、ほたるから日常を奪ってしまった。


 唐突に理解した事実にノエが愕然とする。すると〝ほたる〟は「罪悪感があるのか」と嘲るような笑みを浮かべた。


「なら懺悔するといい。人のものに手を出すからいけなかったと」


 〝ほたる〟が左腕を上げる。鋭利な爪を光らせ、「さっさと死ね」とノエに飛びかかった。


「――――!」


 その攻撃は、ノエには容易く避けることができた。遅いのだ。最初よりも明らかに精彩を欠き、彼女が動くたびに赤い飛沫が辺りに飛び散る。鼻だけでなく目や耳からも血を流し、その量は時間を追うごとに多くなっていった。

 もう、体は限界なのだ。それなのに操っているスヴァインがその痛みを感じ取れないものだから、肉体から上がる悲鳴が無視され続けている。「もうやめろ!」ノエは悲痛に叫ぶも、〝ほたる〟に触れることはできなかった。そんなことをすれば先程のように〝ほたる〟は骨を折ってでも拘束から抜け出してしまうだろうと思うと、力尽くで動きを止めることなんてできるはずがない。


「いい加減にしろ! そんな状態じゃ俺を殺せないのは分かるだろ!?」

「お前が避けなければいい話だ。罪悪感を抱いているなら大人しく殺されろ」


 〝ほたる〟の動きは止まらない。時折むせて、その口からも血が吐き出され始めたというのに、〝ほたる〟がそれを気に留める素振りもない。


 ノエは苦しげに眉根を寄せると、己の瞳を紫に染めた。本人が止まらないなら、()()()しかない――そう思って、〝ほたる〟の目を覗き込もうとした時だった。


「殺したいのか?」


 〝ほたる〟がノエを嘲笑う。


「そんなことをしたらこいつは死ぬぞ。今のこの体が混線に耐えられないのは分かるだろう?」

「ッ……」


 その言葉にノエの動きが止まる。今にも死んでしまいそうなその肉体が、急激な負荷に耐えられないことなど考えるまでもない。


 だが、どうすればいい? スヴァインをほたるの肉体から追い出さねば、彼女が死んでしまうのは明らかなのだ。それを黙って見ているか、それともその望みどおりに自分が……。


 ノエが思考に沈みかけた時、クラトスが〝ほたる〟を後ろから羽交い締めにした。直後――


 バキバキッ!


 骨の折れる音だった。〝ほたる〟が無理矢理クラトスの腕から逃れようとしたのだ。


「やめろ!!」


 悲鳴のようなノエの声が響く。止めようとしたのは〝ほたる〟か、クラトスか。どちらかはノエにも分からない。分からないが、とにかくやめてくれと必死に叫ぶ。


 だがそんなノエを、クラトスが「冷静になれ!」と一喝した。


「スヴァインにはもうこの娘は殺せない! 死なせることもできない! なら今は時間を稼げばいいだけだ!!」


 言い聞かせるようにクラトスがノエを叱責する。しかしその隙を狙い、〝ほたる〟がクラトスに牙を剥いた。


「ッ……」


 クラトスはどうにか避けたが、攻撃は一度では終わらなかった。何度も何度も、繰り返し牙が執拗にクラトスを狙う。同時に腕の中で〝ほたる〟は暴れ続け、時折牙がクラトスの肌を掠りそうになる。


 その様を見ながら、ノエは〝ほたる〟を止める方法を思いついた。


 ……だが、できない。一歩間違えばほたるが死ぬ。自分がほたるを殺すことになると思うと、恐ろしくて実行に移せない。


 けれど――


「かはっ……!」


 〝ほたる〟の口から大量の血が吐き出された。飲んでいたものではない。身体のどこかから出血しているのだ。

 このままでは本当にほたるが死んでしまうと思うと腹を括るしかなくなって、ノエは自分の右腕に爪を突き立てた。


「スヴァイン」


 〝ほたる〟の顔がノエを向く。クラトスに咬み付こうとしていた口はゆるく開いていて、そこには鋭い牙が見え隠れしている。

 牙には決して触れないように――ノエは〝ほたる〟の目を青い瞳のまま睨みつけると、その口に自分の腕を押し当てた。


「がッ……!?」


 先程作った傷口から出ていた血が、〝ほたる〟の口に流れ込む。


 ほんの数滴。


 しかし確かに〝ほたる〟がそれを飲み込んだのを確認すると、ノエは押し当てていた腕を離した。


「ぁ……ぐっ……」


 〝ほたる〟の肌に、黒い血管が幾筋も浮かび上がる。酷くむせて、呼吸が苦しげなものへと変わっていく。


「さっさとほたるから出てけよ。俺の血だけじゃほたるは死なねェけど、お前が居座れば死ぬぞ。子殺しになったらお前も困るだろ」


 低い声で、唸るように。ノエが敵意を顕に〝ほたる〟に告げれば、〝ほたる〟は「お前……そうか」と荒い呼吸のままニヤリと嗤った。


「お前は俺が直接殺してやる。それまでこいつから離れるなよ。探すのが面倒になる」


 〝ほたる〟の顔に狂気が浮かぶ。だが次の瞬間、糸が切れたように崩れ落ちた。

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