〈1-1〉お前には殺しの嫌疑がかかっている
その場で神納木ほたるが理解できたのは、自分に向けられた悪意だけだった。
広い円筒状の空間、壁側には手すり。オペラの観覧席のように、中央部分を一望できるフロアが何層にも積み重なっている。
何階まであるのかは、ほたるのいる場所からでは見て取ることができない。照明はほたるのいる最下層しか照らしておらず、高いところまでは光が届かないのだ。
ただ、目が。無数の目が。三六〇度、足元以外の全ての方角から自分に向けられていることはほたるにも分かった。
しかし、顔は見えない。人の形をした影は、影と同じ色の布で顔を覆い隠してしまっているからだ。
だからほたるが感じているのは視線だった。そこに込められた感情が、悪意だった。
唯一照らされたこの場所はさながら舞台のよう。けれどそこに喝采はない。喜びもない。まるで晒し者にされているかのような感覚が、ほたるの身体を強張らせる。
「――神納木ほたる」
前方からのその声はほたるの緊張を和らげることはなかった。むしろ周囲の様子を探っていたほたるの目を威圧感で以て引き寄せて、彼女から呼吸の自由を奪う。
「お前には殺しの嫌疑がかかっている」
その言葉の意味を、ほたるには理解することができなかった。
§ § §
「うわ、こんな時間」
スマートフォンの画面を見たほたるは苦い声を漏らした。液晶に表示されている時刻は二二時三五分、いつもよりも三〇分も遅い。それもこれも変に質問する奴のせいだ、とほたるは三〇分前のことを思って顔をしかめた。
二二時で終わるはずの塾の講義。その終わり際に重箱の隅をつつくような質問をし出した、名前も知らない他校の生徒。講師も講師で何故か乗り気で、追加の講義は実に三〇分にも渡る延長戦となった。終バスの時間があるからと挙手をした生徒がいなければ、もしかしたら今もまだほたるは教室にいたかもしれない。
ありがとう、知らない人。そして反省しろ、重箱質問男子。
脳内で悪態を吐いて、足早に帰路を進んでいく。たった三〇分遅くなるだけでもほたるにとっては死活問題だ。朝は弱いのに、明日も七時前に起きて学校に行かなければならない。いつも塾のある日は帰って入浴を済ませたらほとんど自由な時間を取れないまま就寝しなければならないのに、三〇分も遅くなってしまえばもう睡眠時間を削るしかなくなる。
ほたるは頭の中で帰った後の動きを整理しながら、同時に帰宅が遅くなることを母に連絡しなくては、とスマートフォンを手にとってアプリを立ち上げた。〝あ〟の文字に親指をかけ、しかし左にスワイプしかけたところでその指と足が止まる。
「……ここ通っちゃう?」
目線の先には暗い小路。夜は危ないからと、遠回りになる大通り沿いを通って帰って来るよう母に言われているから普段は使わないが、ここを通れば一〇分近く時間を短縮できることをほたるは知っていた。避けるのは夜だけで、昼間は何度も通ったことがあるからだ。
「危ないかなぁ……でも事件があったって話も聞いたことないしなぁ……うん、迷う時間が勿体ない!」
えいや、と小路に向かって歩を進める。このショートカットコースと早歩きを使えば、失った三〇分の半分は取り戻せるだろう。そう思うとほたるの足はどんどん速くなっていって、街灯の少ない小路の景色がするすると切り替わっていった。
タッ、タッ、タッ、と夜の静けさの中に軽快な足音が響く。やはり身体を動かすのは気持ちが良い。勉強のために部活を辞めたが、元々は陸上部。走ることは好きだ。久々に体育の授業以外で足を動かしたお陰で、重箱質問男子に抱いていた苛立ちも薄まっていく。
けれどそんなほたるの足は、小路を半分ほど進んだところで速度を落とした。
人がいたからだ。道の真ん中に、ぽつりと立つ人がいる。
遠目で見て、男。狭い道なのに立ち止まっているが、煙草やスマートフォンを手にしているようには見えない。だからこんな場所で男が立ち止まっている理由はその姿からは分からなかった。
そしてその男が、ほたるの方を向いている。こんな夜道で、一人。
「っ……」
ヤバい人かもしれない――ほたるの足音が小さくなる。だが、完全には止まらない。下手に止まって向かい合えば因縁をつけられるかもしれないと思ったからだ。不自然な動きも極力避ける。相手が変質者か何かであれば、何がきっかけで目をつけられるか分からない。
すれ違いやすいように、早歩きで。反対側よりも僅かに広い男の左手側に寄りながら、自分はここを通りたいだけで、あなたの邪魔をする気はないのだと主張する。目を合わせないようにしつつも、全身の神経を尖らせて相手の動きに注目した。
そしてどうか何も起きませんようにと願いながら、男の脇を抜ける。
何も起きなかった。
ほたるが男の横を通り過ぎても、心做しか急いで男から距離を取っても。
ただの思い過ごしだったと、ほたるの肩から力が抜けた。安堵と、そして相手への申し訳なさと。勘違いしてしまった気まずさを誤魔化すように歩を早め、改めて走り出そうと顔を上げた。
だが――
「ッ!?」
男がいた。ほたるの目の前に、たった今追い抜いたはずの男が。
「な……」
思わず立ち止まったのは、男との距離が二メートルもなかったから。
両手を広げればどちらも壁に当たってしまうほどの広さしかない道は、誰かとすれ違えばよほど何かに気を取られていない限り気が付くだろう。だがほたるには自覚がなかった。神経を研ぎ澄ませて男の動きは意識していたのに、自分が追い抜いた自覚はあっても、追い抜かれた記憶は全くない。
だからほたるがすべきは現状の正しい確認と、そして逃げること。しかし、そのどちらもできなかった。男の目に意識が全部持っていかれたからだ。
ギョロリと見開かれた目は、暗がりでも分かるほど血走っていた。黒尽くめの服装、落ち窪んで影になった目元。そんな中で目玉だけが宙に浮いているようで、しかしその目がしっかりとほたるを見つめているものだから、ほたるも目を逸らすことができない。
まずい。まずいまずいまずい!
恐怖と警鐘。ここから逃げろと本能が叫ぶ。明らかに正常とは思えない目つきが、ほたるの全身を粟立たせる。
固まる身体を叱咤し、来た道を引き返そうと踵を返す。その時だった。
「痛っ……!?」
腕を引かれ壁に押し付けられ、そしてその直後、首筋に痛みが襲った。あまりに突然の出来事に理解が追いつかない。それに、ほたるの思考を妨げているのは驚きだけではなかった。
濃い、血の匂いがしていた。それも鮮血というよりは、時間の経った、腐ったような血の匂いだ。
そして首元の鋭い痛みは、刃物によるものではない。ほたるがそうと判断できたのは、自分の首に男の腕ではなく頭があったからだ。
噛まれている。見知らぬ男に、不審者としか思えない男に、首を。
「い、嫌!!」
怖気が走った。恐怖と嫌悪が綯い交ぜになって、密着している男の胸を思い切り押し返す。
だが、ほたるの手にはあるはずの感触がなかった。
「え……?」
男を押した手が空を切った。そこにはもう男がいなかったからだ。
ではどこにいるかと言えば、ほたるが見つけたのは自分から数歩離れた場所。男は一瞬でそこまで飛び退いたのだ。
人間では有り得ない移動距離と速度にほたるの頭が再び混乱する。それに男はほたるの手を避けようとしたというよりは、その前に何かから逃れようとしていたように見えた。ほんの一瞬の出来事でも、男が動き出したのはほたるの腕が動き出す直前。ほたるが男を押し返そうと決めて、その指示が腕に伝わる間のこと。
そしてほたるのその考えは正しいと、男の反応が物語っていた。
「ぐッ……っ……お前、シュシモチか!!」
酷く苦しみながら男が言う。喉を押さえ、呻き声を漏らし、しかしそこから怒りや焦燥が伝わってくる。
ほたるには男が何を苦しんでいるのか分からなかった。そして、男の発した単語も。一方で無意識のうちに思い出したのは、映画やドラマで見る毒を盛られた役者の演技。
まさか毒か。それとも演技か。理解できないままほたるが呆気に取られていると、自分の手を見た男が「クソッ!!」と一際大きな悪態を吐いた。
肌色をしていたはずの男の手は、顔は、暗がりでも分かるほど真っ黒に染まっていた。
「畜生、誰の……! なんで俺がッ……クソッ……クソォオオオオォォォォオォォオオ!!」
まるで断末魔の叫び。その声の重みにほたるが身を強張らせた直後――……男の身体が、霧散した。
「え……?」
人間が霧のように消えた。服ごと消えて、残っているのはその霧の名残だけ。黒い煙のようにも見える靄が空気中を漂って、今までここに何かがあったのだとほたるに教える。
「なに……何何何!?」
処理しきれなくなった現実に、ほたるの身体は勝手に動き出していた。全速力でその場から逃げ出したのだ。
本能が安全な場所を求めたのか、その道は自宅へと続いている。暗い小路を全速力で駆け抜け、閑静な住宅街に入り、近所迷惑になることなどお構いなしにほたるは乱暴な足音を響かせ続けた。
やがて見えた、自宅。ドアの前まで来ると大急ぎで鍵を取り出して、震えるせいで何度も失敗しながらもどうにか鍵を開けて中に身体を滑り込ませる。
大急ぎで鍵を閉め、チェーンもかける。ドンドンドンッと足音を鳴らしながら階段を駆け上り、自室に戻ったほたるは荷物を放り出してベッドの中に飛び込んだ。
頭から布団をかぶり、震える。制服が皺になるとか、体が汗だらけだとか、今はそんなことはどうでも良かった。
怖い。何が起こったのか理解ができない。あれは夢だったのかもしれないと藁にも縋る気持ちで首元を触れば、ぬるりとした感触と痛みが現実逃避するほたるを責めた。
カタカタと身体が震える。男にされたことを思って首を洗いたくなったが、ここから出るのが恐ろしくてたまらない。
しかし同時に、母のことが心配だった。今の時間なら家にいるはずなのに、何も声をかけられていない。とはいえ、翌日の出勤時間によってはよくあることだ。早めに寝ないと差し障るから、この時間には眠っている日もある。
けれど、それでもほたるが塾で遅くなる日は起きて待っている。だからもしかしたら、母はまだ帰宅していないのかもしれない。だとすれば危険だ。何が危険かはほたるにもはっきりとは分からなかったが、得体の知れない出来事が起こっているならとにかく気を付けるに越したことはない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、アプリを開く。近所に変質者がいる。怖くてチェーンをかけてしまった。震える指で文字を打ち、どうにかその事実だけを送る。
そこからどうすればいいかは、まだ分からない。考えられない。とにかく母の返事を待ってから考えようと、スマートフォンを握り締めたまま身を縮こませる。
そうしていつの間にか眠りに落ちていたほたるを起こしたのは、母ではなかった。