第2話
大きな音と共に現れたのは、見たことが無いほど大柄で、真っ黒なフードを被った人間だった。いや、正確には長い猫のような尻尾を持った獣人の男だった。
獣人は人間とは違う特徴を持っているためすぐに判別ができ、そして人間が最も美しいとされている種族であるため、人々は人間以外の種族を忌み嫌っている。城内に入ることが許されるはずもないため、ここにいるということは侵入者であるということだ。
「お、お前!ここで何をしている!」
王子が声を上げた瞬間、獣人の男が掌を王子に向けたのが見えた。あれは魔法を発動する時の動きだ。
「殿下!」
私は咄嗟に王子の前へ出て掌を突き出し、保護魔法を発動する。すると私と王子を包むようにドーム型の光が出現して、凄まじい突風から身を守ることが出来た。
風魔法…大した魔法じゃないけど、人間を吹き飛ばせるほどの威力となると話は別だ。こんな奴の侵入を許すなんて、警備は何をしているの?いや、もしかしたら存在感を消すような高度な魔法が扱えるのかもしれない。獣人は元々魔力量が多いと聞くし。そうなると私でも対抗できるかどうか…。
「ほう?」
獣人の男から感心したような声が聞こえた気がした。咄嗟に魔法が扱えるような貴族は確かに珍しいとは思うからその反応は普通なのだろうけれど…こんな状況でつい喜んでしまった自分が悔しい。
「危険だアリシア!そなたは下がっているんだ!」
「相手はかなりの魔法の使い手です。援護が来るまでは殿下のお命は私が守ります!」
「アリシア…」
王子に腕を掴まれたけれど、今はそんな事は気にしていられない。私は思わず声を張り上げて王子を黙らせてしまった。しかしそんなやり取りをしている間にも相手は保護魔法を破ろうと魔法を仕掛けてくる。私の魔法は次第に押され始めていた。
このままじゃ守りが破られる。こちらからも攻撃を仕掛けなきゃ…でももしその隙を狙われて王子や私に攻撃が当たったら?
「よく耐えるじゃねェか。なら、これはどうだ?」
獣人の男が不敵に笑ったあと、突風の代わりに氷の矢が放たれた。その鋭利な矢が私の保護魔法に更なるダメージを与える。
「うっ…ううっ」
これ以上はダメ…一体どうしたら…。
そうだ!
「殿下!私の後ろに隠れていてください!」
「あ、ああ!」
王子が私の後ろに下がったのを確認すると、私は意を決して保護魔法を解除する。そして氷の矢が私に届く前にすぐさま風魔法を使ってその矢を吹き飛ばした。吹き飛ばされた矢が今度は獣人の男に向かって無作為に飛んでいく。
「貴方の攻撃、お返しするわ!」
「…おもしれェな」
しかし、その攻撃を今度は獣人の男が保護魔法で防いだ。そう来るだろう事を予想していた私は次に火魔法で男の保護魔法を攻撃する。保護魔法は魔法を通す事はないけれど、代わりに空気も遮断してしまう。密閉された空間に外側から熱を与え続ければ中の温度はどんどん上がっていき、蒸し焼きになるのだ。そう長くは持たないはず。
そして思惑通りすぐに保護魔法を解除した男が逃げようと飛び上がった瞬間、ここぞとばかりに広範囲の雷の雨を降らせた。空中で保護魔法を使う事は出来ない。直撃すれば無事では済まないかもしれないけれど、こっちだって命がかかっている。私は持てる限りの魔力を使って雷を降らせ続けたけれど、やがて力尽きて座り込んでしまった。
「アリシア!」
「で、んか……お怪我は、ありませんか?」
「私は無事だ。それよりそなたの方が…!」
王子は本当に心配そうに私を支えてくれ、それを見ていたらなんだか初めて王子の心が見えた気がした。この人はきっと純粋な人なのだ。周囲からの自分への評価を信じて疑わず、それ故に見目の良いその他の人間と同じように努力をすることもない。けれどこうして他人を気遣ったり、傷付いた人間を目の前にすれば本気で心配することが出来る人。純粋なのだ。良い意味でも。悪い意味でも。
「私はだいじょ…きゃっ!?」
「アリシア!?」
心配してくれた王子に初めて心からの笑顔を向けようとした時、突然お腹の辺りに何かが巻き付き強い力で引っ張り上げられた。王子から引き離されて慌てて後ろを見上げると、さっき倒したはずの獣人の男が私を抱え上げていた。
な、なんで…あの雷の中を無傷で抜け出せるはずがないのに。どうして。
「なにを驚いている?あんなもの浮遊魔法でどうとでもなるだろう」
男の言葉に恐る恐る下を見下ろせば、いつの間にか私は地面から屋根の辺りまで浮き上がっていた。確かに浮き上がることができればあの雷の中でも空中を逃げ回ることができるだろう。だけど、物や他人を多少浮かせることが出来ても、自分自身を浮かせ、まして空中を移動するだなんてことは魔力量もさることながら、相当な技術が必要になる。それこそ、魔術の極地に至ったと言われている大賢者しか扱えた者の記録が残っていないほどに。
「そ、んな…自分に浮遊魔法をかけるなんて…貴方は一体何者なの…」
震える声でそう問いかけたが、男は何も答えずにただ静かに私を見下ろした。フードの影から覗く切長の赤い瞳に睨まれて思わず息を呑む。
勝てない…こんな人に敵うはずがない。
抵抗は無意味だと理解した私は大人しく男の動向を見守る事にした。しかし、そんな状況下でもまだ諦めずに声を上げる人間がいた。
「アリシアを離せ!この醜い獣人め!」
「殿下!」
地上から私たちを見上げる王子の側には護衛騎士達が到着しており、侵入者である獣人の男を攻撃する体制を整えていた。だが一足遅い。
「この者を刺激してはいけません殿下!どうか早く安全なところへ!」
「そなたを置いてはいけぬ!」
確かに私は第一王子の婚約者となった身だ。重要人物である事は確かだけれど、王子の命には代えられない。この場で最も守られなければならないのはリヒュート王子の命だ。護衛騎士が周りを固めてはいるけれど、この獣人の男はきっとここにいる護衛騎士の誰よりも強い。はやく安全な城内に隠れてほしいのだが…。
「女に守られてばかりの腰抜けにいくら吠えられても怖くねェよ」
「なんだと…!」
「事実だろう?」
怒りを顕にする王子に対して余裕そうに振る舞う獣人の男。そして何を思ったか、男は徐に被っていたフードに手を伸ばして、フードを外した。
「そんなに言うならここまで取り返しに来たらどうだ?この顔を見てもそんな勇気が残ってるならな」
「なっ…」
その場にいた全員が驚愕に息を呑む。
さらりとした黒髪。健康的な浅黒い肌。ほっそりとシャープな顎。スッと通った鼻筋。切長の涼しげな目元から覗くワインレッドの瞳。薄く形の良い唇。頭から生えている猫の耳はそれらと相まって心をくすぐられる。なんて…なんて…!
「なんと醜いのだ…」
「えっ」
「こんなに醜い者は生まれて初めて見た」
「ええっ」
王子の言葉に思わず混乱して場にそぐわない声が漏れる。しかもそんな反応をしているのは王子だけではなく、騎士の中には口元を押さえてえずいている者までいる。嘘でしょ…?
「お前のような者がアリシアに触れていいはずがない。さっさと彼女を解放しろ!この化け物!」
「うるせえなァ…どうせ何も出来やしねェくせに」
狼狽えていた様子だった王子だけれど、すぐに持ち直したのかまた獣人の男に食い下がる。そんな王子に向かって男が手を突き出すと、先程私たちに向けて放っていた氷の矢が今度は地上に降り注いだ。騎士達が咄嗟に保護魔法で王子を守ったけれど、きっと長くは持たないだろう。
私は慌てて俵のように私を持ち上げている男の腕に縋りついた。
「お願いやめて!」
「……」
すると僅かに男の瞳が揺らぎ、唇が引き結ばれたのが分かった。もしかして…動揺してる?それなら、なんとかなるかも。
私はなるべく可愛く見えるように男を見上げ、切なげな表情を浮かべた。最後に瞬きをして少しだけ涙を浮かべれば、絶世の美女の可愛らしいおねだりポーズ…になっているはずだ。たぶん。
「やめてください…これ以上誰も傷つけないで。お願いします」
こんなお願いの仕方は過去にも一度しかやった事はない。魔法の練習のしすぎで寝込んでしまった時に、両親が心配して魔法の練習を辞めさせようとした時だ。どうしてもエファーになりたかった私は今と同じように両親にお願いをして、なんとか危機を免れた。でもそれ以来両親が私の言う事をなんでも聞くようになってしまったので、これはもうやらない方がいいと思って封印していたのだけど。今はそんな心配をしている場合じゃない…いやむしろ、今こそ使う時なはず。
そう祈るように男を見つめていると、男はあっさり攻撃をやめて腕を下ろした。良かった…と、ほっとした瞬間、今度は男に抱え直され俵のように扱われてたところからお姫様抱っこにされる。先程よりもグッと顔が近づいて思わず顔が赤くなりそうになってしまった。しかも、この人最初に見た時から思ってたけど筋肉がしっかりついてて、こうしてお姫様抱っこされてると安定感がすごい…って何考えてるの。
「この女はもらっていく」
「えっ、ちょっと待っ…きゃあっ」
男の言葉に制止の声を上げようとしたけれど、その前に独特な浮遊感と共に男が動き出してしまった。王子が何か叫んでいるけれど、その声もどんどん遠のいていきすぐに聞こえなくなった。思ったよりもスピードが出ているのか、耳元で轟々と風の音がする。もし振り落とされたら、魔力がほとんど残っていない今の私では自力で無事に着地することは難しいだろう。
そんな恐怖から私は気づかないうちに男の胸元にしがみ付いてしまっていた。
「……」
◇◇◇
瞼を開くと、石造りの見知らぬ天井が見えた。
ゆっくりと体を起こしてみると、私は庶民が使っていそうな簡易的な木造のベッドに寝かされていたようで、体にかけられていた薄手の白い毛布がパサリとお腹の辺りに落ちた。周囲を見渡してみると、小さなテーブルと椅子。そして暖炉が見えた。掃除はきちんとされているようだけれど、お世辞にもいい暮らしをしているとは言い難い。きっと一般的な庶民よりももう少し貧しい生活をしているだろう。
「ここは一体…」
思わずそう呟いた時、部屋にある唯一の扉が開き、あの獣人の男が何か荷物を持って入ってきた。ハッとしてベッドから降りると男と向き合う。
「貴方、私をどうするつもり?ここはどこなの?」
「…お前、確かアリシア、だったか?」
「そうよ」
「先に俺の質問に答えろ。そしたらお前のその質問にも答えてやる」
男はそう言うとゆっくりと近づいてきて、大きな体を折り曲げてその顔を私の顔にグッと寄せてきた。先程も見た端正な顔立ちが真っ直ぐに私を見つめており、今の状況も忘れてなんだか照れてしまいそうになる。
「お前…何故俺の顔を見て平気でいられる?」
「えっ」
「俺のこの姿はさぞ醜いだろう。我慢をしているなら、そろそろ限界なんじゃないのか?」
男はまるで私を挑発するようにそう言うけれど、我慢なんてとんでもない。私から見たこの男は、今まで見たどんな男性よりも顔が整っていた。前世で言うところの海外モデルや俳優のようで、所謂イケメンという部類に含まれるはずだ。しかし、彼の容姿については先程リヒュート王子も言っていたように「醜い」と評するのがこの世界での常識なのだ。何を言っているのか分からないだろうと思う。私も最初はとても混乱させられた。
実はこの世界は前世と比べて大きく違う部分が“美醜に囚われすぎた価値観”の他にもう一つある。それは“美醜観の違い”だ。
女性に対する美しさの基準は前世とほとんど変わらず、違いと言えば髪や目の色が明るい事くらいである。ところがそれが男性となるとかなり違ってくる。リヒュート王子はこの国でもトップクラスに見目が良いと言われているので、彼を例に挙げて説明しようと思う。
まず身長が低くく、まるっとした体型であること。次に目は細く糸目であること。鼻は丸く、口はたらこ唇。肌は白ければ白いほど良いとされていて、リヒュート王子はちょっと心配になるほど青白い。そして女性同様、髪色や瞳の色は薄い方が良く、彼はプラチナブロンドの髪にライトブルーの瞳だった。いつもほとんど閉じられていて瞳はあまり見たことがないけれど。
この美醜観の違いを知った時はそんなまさかと思ったけれど、実際リヒュート王子に似た外見の男性は女性達からとても人気だし、反対に前世で言うところの“イケメン”達はまるでモンスター扱いで、酷い時はあまりのショックに嘔吐したり気絶してしまう人もいるのだ。流石にその反応はどうかと思うけれど、わざとではなく反射的な反応のようなので、本人達の努力でどうにかなる問題ではないそうだ。
つまり、今の話の流れからすると、目の前にいる獣人の男はこの世界ではかなり外見にハンデがあるのだ。しかもそれはそれは大きなハンデだ。ただの人間だったとしても相当生きづらいだろうに、そこに更に獣人というおまけが付いてしまっている。精神的に鍛えられているはずの騎士達が一瞬全員顔を逸らしてしまうほどなのだから。
ということはだ。そんな男を前にして叫びもせずケロッとしている私は相当異端だということになる。いきなり前世の記憶があるせいだと説明しても納得してもらえるとは思えないし。今からでも気分が悪いフリでもしてみようか。…でも、そんなことをすれば私があんなに嫌がっていた、人を外見で判断する人達と同じになってしまうんじゃないだろうか。少なくとも、この男から見た私はそういう風に映るだろう。
「どうした?ほら、無理するな。どうせここには誰もいないんだ。思い切り泣いてもいいんだぜアリシアちゃん?」
「私…」
「ん?」
「私、実は…」
男がどこか楽しそうに薄く笑って私を挑発するけれど、私は気にせず彼を見つめたまま声を発する。
「私、他人の外見にはあまり興味がないの」
「は?」
「生まれつきそうなの。だから貴方がいくらその顔を武器に私を脅そうとしても無駄よ。全然怖くないわ!」
よし。言い切った!
私は内心ガッツポーズをしながら達成感を噛み締めていた。我ながらなかなか良い案だったと思う。だって実際、この世界の人達に比べたら他人の美醜には鈍い方だと思うし、私から見たら外見的な魅力がまるでないリヒュート王子との結婚だって一応納得出来ていたわけだ。間違ってはいないと思う。ただこの獣人の男の顔は真逆の意味で武器になってしまう可能性があるので、正直あまり近付けないでもらいたいところだ。
「本気で言ってるのか…?」
「本気です。それより、私は質問に答えたんだから、今度は貴方が私の質問に答える番よ」
「……」
私は至近距離にある男の顔に向かってビシッと人差し指を向ける。本当はこんなはしたない事はいつもだったら絶対しないし、威圧感たっぷりだった涼しげな目が大きく見開かれて無防備な表情を晒している所がとっても可愛いだなんて思ってしまっているけれど、今この場で主導権を取られるのは避けたいのだ。
すると、さっき私が言ったことが余程の衝撃だったのか、男は体を起こすとフラフラと私から離れて力なく壁に手をついた。その様子を注意深く観察しながら、私は返事を待たずに続ける。
「ここは貴方の家なのかしら?」
「…ああ、そうだ」
「そう。一体どこまで私を連れてきたの?」
「シュナウドの森だ。お前たち人間が黒の森と呼ぶ場所だ」
「黒の森…」
私に背を向けた状態で項垂れる男は、そんな状態でも一応問いかけには答えてくれた。それにしても黒の森だなんて…ラゴールの領土の外じゃない。しかも森の中は瘴気が濃くて普通の人間は近づくことすら出来ないはず。きっとしばらく助けは来ないだろう。
でも不思議…瘴気に当てられているはずなのに思ったよりも体が軽い。お城であんなに魔力を消耗したのに。
「それで…私をどうするつもりなの?」
「…どうするって。そんなの金に換えるに決まってるだろ」
「…っ」
「買い手が見つかるまでここに居てもらう」
男はそう言うとドサッと何かが入った麻袋を机に置いた。
「昼飯だ。毒は入れてないから安心しろ」
そしてそのまま話は終わりだとでも言うように扉を開けて外へ出ていこうとするではないか。売られるというならその前にここから逃げなくては。そのためにはまだ情報が足りない。私は慌てて声を上げた。
「ま、待って!貴方の名前は?」
「……」
咄嗟に思い付いた質問にしてはちょっとどうかと思う。こんなの「名前なんて知ってどうする」と言われて終わりだ。しくじったと思いつつ、今更引っ込める事も出来ないので大人しく男の反応を待つ。すると、男はチラリと私に視線をやった後、一言だけ言った。
「…ロイド」
そして扉が締まり、魔法で施錠されたのが分かった。鍵をかけた者以外が開くことは難しく、無理矢理開けようとすれば施錠した者にそれが伝わってしまうというものだ。
獣人の男…ロイドが置いていった麻袋からは安物のチーズと硬い黒パンが顔を覗かせていた。