わたくし、今から義妹の婚約者を奪いにいきますの。
「きゃあああ! クリスティナお義姉様、大丈夫ですか?!」
悲鳴を放つ義妹レジーナの横で、私は顔に浴びた薬液に、絶叫を上げていた。
◇
ライネス公爵家の長女、クリスティナ・ライネス。
私は大勢の使用人に囲まれ、貴族家の厳しい教育を受け、身分に相応しくあれと求められながら、日々を過ごしてきた。
私の母が亡くなると、父は外で作った義妹を公爵家に入れた。
愛人との間に、子があったらしい。
私に比べると、義妹はずいぶん甘く緩く育てられていた。
将来、王家に妃として売り込むために、商品価値を上げる必要があった私に対し、義妹には公爵家で婿を取らせる予定だったからだろう。
しかしレジーナは、その差を不満に思っていたらしい。
そして、留学していた王太子殿下の、帰国祝いパーティー前に事件が起こった。
私は屋敷のメイドに、強烈な薬液を浴びせられたのだ。
私の顔は無残にも焼けただれ、二目と見られない容姿となった。
凶行に及んだメイドは、取り調べ前に自害したらしいが、だからと言って私の爛れた皮膚が戻るわけではない。
この時の私は、王太子妃候補として名が挙がっていた。
そしてライネス家は、この縁談を是が非でも纏めたがっていた。
けれども私の顔は崩れ、到底人前には出れない状態。
王太子殿下の妃候補として、父はレジーナを伴い城に上がり、殿下と義妹の婚約がまとまった。
一方私は、公爵家にとって価値のない荷物となり果てた。
表向きは病気療養として領地に送られることになったものの、実際は人目について噂になることを恐れた父によって、公爵邸の片隅に押し込められた。
本当に領地に送られていたら、また気分も違っただろうに、陰鬱とした物置のような、暗く狭い部屋に閉じ込められ、父は私を労わるでもなく、責めた。
"お前に隙があったから"。
"せっかく金と時間をかけて育てたのに、肝心な時に役に立たん"。
"レジーナがいたから何とかなったものの、予定が丸潰れだ"。
"こうなったのはお前の責任"。
心ない言葉の数々。
そこに私への情は一切含まれてないと気づいた。
必要だったのは、公爵家を有利に出来る駒だっただけ。
さらに最悪だったのは、私が追いやられた部屋は屋敷の外れにあり、使用人たちが庭の隅で話す内緒話が、耳に入る位置だったという事。
そこで私は、件のメイドが脅されて私に薬液をかけたという事実を知った。
脅した相手は、今回美味しい地位を得たレジーナ──。
調査の過程で父はそれを知ったが、醜聞を恐れて揉み消したらしい。
起こったことは過ぎたこと。
今は王太子妃の地位を確保することが先決だと。
父が私を非情に責めたのは、責任転嫁して、自分の罪悪感を減らそうとしたのかも知れない。
メイドは本当に自害だったのか。
(もう誰も信じられない)
私は己の身の上を嘆き、激怒し、荒れに荒れた。
その結果、屋敷の者は私を敬遠して、今では運ばれてくる食事を細々と、ひとり食べる始末。
王太子殿下の婚約者として、華々しく社交界に出ているレジーナとは対照的に。
「悔しい、悔しい、悔しい……!」
本来その場所は、私のものになるはずだったのに!!
狭い部屋の壁に、私の涙が吸い込まれて、幾日が過ぎたのか。
ある日。
「その悔しさ、晴らしてみたいとは思わないか」
低い声が、私を誘った。
◇
(誰?)
見回してみても、人影はない。
「空耳……」
「じゃないねぇ。ここだ」
声のほうに目をやり──、私は絶句した。
「ヘビが、喋った?」
そこには一匹の真っ黒いヘビが、鎌首をもたげ、赤色の双眸で私を見ていた。
いつの間に部屋に入り込んだのか。
「ふふっ、駄目だわ、私。ついに末期ね。孤独のあまり、幻聴まで聞こえ始めたなんて」
「空耳でも幻聴でもない。オレは今、肉声でもってアンタに話しかけている」
いささか憤慨したように、小さなヘビは言った。
短気らしい。
あっけに取られていると、シュルシュルと身をくねらせ、私の足元までヘビが近寄る。
「きゃあああッ」
慌てて足を、椅子の上に引き上げた。
「へえ。こんな小さなヘビが怖いのか」
「人語を話すような得体のしれないモノは、ヘビでも蜘蛛でもなんでもごめんだわ!」
揶揄うようにヘビは言うが、話さなくてもヘビや蜘蛛は大嫌いだ。
「ヘビや蜘蛛より、アンタのその顔のほうが、いまは見苦しいと思うけどね」
「……デリカシーのないヘビは、話す価値もない存在として、踏みつぶすことにしているわ……!」
初対面のヘビに、最も触れられたくないことを言われ、私の臓腑に怒りがこもる。
「ああ、いいね。その冷ややかな瞳。オレはアンタのそういう目が好きで──うわっと!」
私が踏み抜いた足はヘビに躱され、床からはダァンと音が響くのみ。
「ちっ」
「"ちっ"? いま舌打ちした? 公爵令嬢が?」
「"令嬢"なんてもう過去のことよ。私はこのまま一生、誰に認められることもなく過ごすんだから」
「それ、飲み込めるの」
「は?」
「突然の理不尽だったんだろ? アンタの気持ちは、それを受け入れられるのかい?」
「受け入れられるわけないでしょう! けれど見た目がこうなってしまった今、どうしようもないじゃないの!!」
中身はなんら変わりないのに!
かつて誇った美貌以外、私は何一つ変わってないというのに!!
ヘビを相手に、思わず吐き散らす。
「アンタの顔、元に戻せると言ったらどうする?」
「……何を言っているの。秘密裏に呼んだ名医にもどうにもならなかったのよ。これ以上戯言を言うようなら……」
"私の手で、全身を引きちぎってやるわ"。
どのみち喋るヘビなど、真っ当な存在ではない。魔に属する禍ものだ。害なす前に、屠るのみ。
私の殺気に、ヘビは言った。
「本当さ。オレと契約をしたら、オレの能力でもって、アンタを以前通りの姿に戻せる」
「──!」
(私を、以前通りの姿に? この焼けただれた顔が、元に戻る?)
その言葉はあまりにも甘美な誘惑を持って、私の心を揺さぶる。
「契約……。ヘビ、貴方って魔族?」
「いやいやいや、ハ、ハ、ハ」
「乾いた笑いでは答えになってないけど、図星なのね。でも契約するにしても、今の私に公爵家の力はないわ。持っているものは、この肉体と魂だけよ」
「充分さ、高潔なお嬢様。オレが欲しいのはアンタの魂。アンタの望みが叶った暁に魂をくれるなら、オレはアンタのやりたいことを全面的に手伝ってやる」
なんせ毎日こぼれる嘆きの声が、それはそれは素敵に響いていたからなぁ。
ヘビは縦長の瞳孔を、糸のように細めた。
私はヘビとの契約に頷いた。
境遇のことだけではない。引きつり痛む顔面に夜も眠れず、限界が近かったのだ。
ヘビは私の顔を治す。
そして私が"やりたいこと"を完遂し、私が満足したら、私の命が尽きるのを待って、私の魂を好きにする。
それまでは私に力を貸す。
"魂を引き渡すのだから"と、私は現世における優遇をさんざん約束させた。
「契約成立だ」
ヘビがカプリと私に牙を突き立てる。
「っつ!」
小さな痛みが身体に走り、しばらく経つと。
「か、痒い!!」
全身を掻きむしりたくなるほどの痒さに見舞われる。
「掻いちゃいなよ」
「…………!」
ヘビの言葉に促されるまま、腕に爪を立てるとズブリと皮膚がズレた。
「!!」
そのまま浮かび上がった皮が、ぺらりとめくれると、下には以前以上に白く輝く肌がのぞく。
「これは?」
「オレの権能。脱皮って、知ってるだろ? それがいま、アンタに適用されている。さあ、そのまま全身を脱いでしまえ」
「…………っつ」
人ならぬ有り様に恐れ戦きつつも、"皮膚の代謝は人にもあること"と自分に言い聞かせ、ぺりぺりと皮を剥がしていく。
そして全身を脱ぎ終えた時には、私の顔は以前のままに。
傷ひとつ、ほくろひとつない滑らかな肌に戻っていた。
脱いだはずの皮は、いつの間にか消え去っている。
「本当に……、夢じゃない……」
感極まって鏡を見ていると、ヘビが楽しげな声を出す。
「さあ、部屋から出よう! まずは何をする? アンタを閉じ込めた連中に地獄を見せる? 父親や義妹を同じ目に、いいや、もっと凄惨な目に遭わせるか? 目を繰り出し、足を砕いて手を折って……」
ヘビが嬉しそうに提案してくる。
私はそんなヘビの言葉を遮った。
「今夜は確か……。王家主催のパーテイーがあるの」
「へえ?」
「毎年恒例の夜会で、私もまだ健在だったから、ずっと以前に招待状も貰っていて……」
「ふぅん?」
「私、それに行きたいわ!!」
「ほう?!」
「王太子殿下の婚約者はレジーナに定められたけど、でも、私はずっと王太子妃になるために育てられてきたの」
「王太子ィ? この国の王子エルナンは、凡庸な男だって聞くぜ。どうでもいいような相手じゃないか。それより大事なのはまず復讐だろ?」
ヘビの言葉に、私は首を横に振る。
王太子が凡庸かどうかは関係ない。
私は、王太子妃になりたい。
だって幼い頃からそのために、遊ぶ間もなく努力してきた。
ぽっと出の義妹に、みすみす妃の座を渡したくない。
ましてや手段を選ばず、邪魔者を蹴落とすような性格のレジーナを王妃にしてしまったら、将来国が乱れ、民が苦しむことになる。
私は。
学業や礼法を学ぶ中で、ひとつの夢を抱いた。
私が権力を握ったら、この国をもっとより良いものにしたいと。
「ま、待て。つまりアンタが悔しがっていたのは……」
「そうよ! 私の力を、人々のために使うことが出来なくなってしまうからよ! 閉じ込められてしまっては、世に何の貢献も出来ないまま、終わってしまう」
「待て待て待て、そうじゃないだろ。煮えたぎる思いで復讐を果してこそ、ドロッドロの人間の本懐じゃないか」
なぜかヘビが慌てている。
「復讐は後回し。私は野望のために動く」
「お、おお? 野望──ってまさか、"国を豊かにしたい"とかいう」
ヘビの疑問に頷いて肯定する。
そうだって言ってるじゃない。
「王太子妃になるために、まずは義妹から婚約者を奪うつもりよ」
「ああ、そうだなっ。まずアンタの義妹の罪を明らかにして、復讐に持ち込まないとだよな?」
「復讐はだから……。まあ、成り行き次第ね」
「成り行きィ? そんなオマケみたいに! アンタの人生を奪ったんだぞ? オレが来なければ、アンタは醜く痛む顔を貼り付け、一生閉じ込められてた」
「ええ、感謝するわ。魔族のヘビさん」
「ち……ちっがーう、感謝じゃない。オレが欲しいのは感謝じゃなくて、怨念こもったアクションなんだ!!」
何故ヘビが苦悩しているのかわからないけれど、夜会に出るなら準備を急がないと。
王太子殿下に挨拶して、誘惑して、義妹から婚約者の座を奪る。
巷で、"顔と生まれが良いだけの凡愚太子"と揶揄られようと、エルナン王子は絶大な権力を持っている。
国の隅々まで政策を行き届かせる、力と財力を!!
「くそぅ、こんなはずじゃ……。このままじゃあの御方が言った通りになる。だが見届けないと……」
「ブツブツと何を言っているの? メイドを呼んで仕度をするわ。新しくドレスを仕立てることは出来なかったけど、一度も着たことないパーティー用があるし」
「ええい! オレも連れていけ!!」
そう言うとヘビは、くるりと私の腕に巻き付いて、指まで伝い、行きついた時には小さく細い、指輪となった。
黒い地金に、赤い石が光っている。
「??!」
『オレも行く。こうやってつながってれば、アンタと心で会話が叶うから、喋る必要はないぞ』
契約相手を見張るためだろうか。ヘビは私について来るという。
私は了承して、夜会のための準備を始めた。
父も義妹も先に会場入りしていて、もう屋敷にはいない。
小部屋から出てきた私を見て、使用人たちは驚き、すっかり治っている顔に息を呑んだ。
「奇跡だ……!」と泣いて喜んでくれたけど、その奇跡が魔族との契約だと知ったら、きっと皆恐れるだろうから、絶対に秘密。
使用人たちが私を気遣って、触れないよう遠巻きに心配してくれていたことを、私は知っている。
だてに十八年間、一緒に暮らしてきたわけではないのだ。
"夜会に出たい"と伝えたら、家令はすぐに仕舞いこまれていた招待状を取り出し、メイドたちは着替えと化粧を急ぎ、玄関前には豪華な馬車が用意された。
父や義妹には、現地で合流、事後報告という形になるが、まあ、いいだろう。
私は私の持っていた未来を、取り戻しに行くだけ。
(私、今から義妹の婚約者を奪いにいきますわ)
そして王太子妃になって、この国に尽くす。
指輪に合わせた赤いドレスを翻し、完璧な装いだと確認すると、私は王宮へと向かった。
◇
豪奢な王宮は、夜会にあわせて絢爛に飾り付けられていた。
貴婦人たちの華やかな装いが、広間を花咲かせたように彩り、紳士たちが誇らしげに胸張る正装姿は、目に眩しく頼もしい。
「ライネス公爵家、クリスティナ様ご入場──!!」
張り上げられた声に、貴族たちが振り返る。
私の怪我は伏せられ、ただ病気とだけ広まっている。人々は、私の病が改善したのだろうと微笑んだ。
途中、父が私に気付いて手に持つグラスを取り落としかけ、輪の中で談笑していた義妹は、目を見開いて停止した。
義妹の隣には、彼女と婚約を結んだエルナン王太子殿下。
(エルナン殿下、で、間違いないのよね?)
銀色の髪に、金緑の瞳。
何度か、遠目から拝見したことがある。
私のデビュタントは十六だったが、殿下は二年程ご留学されていたから、接触は今日がほぼ初めてになる。
凡愚で知られる殿下は、以前見た印象とはずいぶん違っていた。顔かたちは同じなのだけど、纏う空気は自信に満ち、ひとめで高貴な身だと分かる威厳。
(ご留学で、お変わりになられたのかも)
隣の義妹とは、あまり釣り合ってないように思う。
公爵家次女は、何となく安っぽく映った。
顔は整っているものの、化粧が厚くごまかしが大きい。
最高級のはずのドレスは、強調するように胸元が開き、不必要に飾り立てた装飾や宝石がけばけばしい。品格、というものをどこかに忘れてきたようだ。
(ま、いいわ)
私は今日、"婚約相手は妹よりやはり、姉がいい"と彼に思ってもらうためにやってきた。
レジーナが見劣りしてくれるなら、好都合だ。
(さあ、誘惑開始よ)
指の魔族は、指輪らしく沈黙を保っていた。
私の目的には手を貸してくれる契約だったのに。
自力で頑張るから別に良いのだけど、指輪がどんどん冷たく感じていくのはなぜだろう。怯え青ざめているような、そんな気配を感じる。
気にせずに殿下の前に進むと、私は挨拶をした。
紹介を介さず失礼かとは思ったけれど、彼の婚約者の姉という立場を利用したのだ。
「王太子殿下にご挨拶申し上げます。レジーナの姉、公爵家が長女、クリスティナ・ライネスと申します」
にっこり作った微笑みを、思いのほか好意的な笑顔で迎えられ、気がつくとダンスを申し込まれていた。
抗議した義妹は、「すでにファーストダンスを終えただろう」と殿下に突き放されている。
(もしかして、あまり親密ではない?)
願ったりだ。このダンスで殿下の心を私に惹きつける!
そんな私の意気込みを知らないだろうに、殿下が私を見る目が、とても優しい。
もっと値踏みされるものと思っていたのに、これは想定外だ。気恥ずかしくなって、つい目をそらす。
(しっかり、私! 殿下を誘惑するんでしょう!)
演奏が始まる。
小部屋に閉じ込められていたからダンスの練習は出来なかったけど、長年身体に染み込んだステップは、私を軽やかに踊らせた。
エルナン殿下はそんな私をよりよく見せるようにと、意識しながらリードしてくださっている。
絶妙な呼吸感。技巧を要するステップを難なく織り込みつつも、極めて優雅。激しく名手だ。
私たちが舞うたびに、広間には感嘆のため息がこぼれた。
噂は、噂でしかなかったようだ。
知性煌めく殿下の眼差しを受け、私の胸が大きく高鳴る。
相手を見て落とし方を決めようと思っていた私は、安易な色仕掛けでは彼は落ちないのではと思い始めていた。
曲が終わり、殿下と私は互いに礼で敬意を示す。
(さあ、このまま殿下の心を一気に私に傾けるのよ!)
効果的な話題を想定しなから私が気合いを入れ直した時、ふいにエルナン殿下が小声で言った。
「貴方の窮状に気づくのが遅れてすまなかった。現状を正しても良いだろうか」
(????)
言葉の意味を理解する前に、思わず私は頷いていた。
久々のダンスで身体が火照って、のぼせていたからかもしれない。
私の了承を得ると、殿下は声を張り上げた。
「皆に聞いて貰いたいことがある! 私は今日、レジーナ・ライネス公爵令嬢との婚約を破棄し、このクリスティナ・ライネス嬢と新たに婚約を結び直すこととする!!」
誰一人、予想してない宣言だった。
◇
「そんなっ。エルナン殿下、一体どういうことですの? よもやその女狐に何か吹き込まれましたか!!」
姉を"女狐"呼ばわりしながら、レジーナが進み出てきた。
「口を慎むと良い、レジーナ嬢。きみが卑劣な手を使い、クリスティナ嬢に危害を加えたことは、すべて明らかになっている」
「なっ……、なっ……、根も葉もない言いがかりです、殿下! 何の証拠があって──」
「証拠なら揃っている。きみは逆らえないメイドを使って、クリスティナ嬢に酷い火傷を負わせたそうだな。他にも彼女を貶めるため、様々な画策をしていた。そんな女を、このまま王太子妃にするわけにはいかない」
(えっ……?)
どうして殿下がそのことをご存知なの?
父である公爵が箝口令を敷き、屋敷の中で伏せられた話なのに。
(お父様が殿下に訴えてくれた?)
慌てて父を見ると、真っ青になって震えている。
秘密が露呈して、焦っている姿にしか見えない。彼が仕組んだことではないようだ。
その後、誰もが驚くまま、殿下は明確な筋道で以て、レジーナが犯したという罪を公表していく。
私が知らない方向にまで、義妹は悪どく手を伸ばしていたらしい。
喚くレジーナは取り調べのため兵に連れられ退場し、父は"監督責任を問いたい"という名目で、私とともに別室に招かれることになった。
宴を続けるよう言葉を残した殿下は、公爵家と共に夜会を中座した。
それからは、流れるように話が進んだ。
殿下の指摘で私は初めて知ったのだが、父がレジーナの行いを伏せてまで公爵家から王太子妃を出したかったのは、父が入手した鉱山に理由があったらしい。
鉱山につぎ込んだ資金が赤字を生み、大貴族の体裁を保てない程の借金を負っていた。
しかもその鉱山というのが、王家に届け出が必要な金鉱山。
呆れたことに父は、それを隠して利を得ようとし、失敗して、王家の財力とパイプを頼るために娘を妃にする必要があった。
この事実は重く、けれど"国王夫妻には都合よく筋書きを変えて伝える"という条件を父に提示した殿下は、ライネス公爵にいくつもの約束を飲ませた。
外戚としての発言力を削ることもそのひとつ。
私と王家に関して、父は一切の口出しをしないこと。
さらに近々引退して、中央から退くこと。
その他王家にとって程よく公爵家の力を調整したうえで、家柄や教養に文句なしの私を王子妃に迎える。
話はそれで、纏まった。
("凡庸"ってどういう意味だったかしら)
私が首を傾げるほど、エルナン殿下の手腕は隙なく鮮やかだった。
そしてレジーナは身分剥奪の上、貴族に危害を加えた罪人として、刑に処されることになった。
平民が貴族に手を出した場合、命で贖うことは必定。
彼女は犯した罪に見合う罰を、受けることになる。
殿下の意向で期せずして、私を苦しめた相手への意趣返しが決まっていく。
途中でふと気づく。
(まるで氷だわ)
ヘビが変じた指輪は、話し合いが進むにつれ、キンキンに冷えてきた。
心の中で何度かヘビに呼びかけたが、応答はない。どうしたのか。
私の魂は、ヘビとの契約上にある。
"私が満足したら"という条件だが、私の満足は王太子妃がゴールではない。
国が豊かになり、民が笑顔になって、初めてその第一歩。
つまり私の寿命尽きたとしても、私の満足は無いつもりなのだが。
今後のことが取り決められ、後日正式に布告されるという話が決まると、父は力なく退室し、私と殿下は二人きりになった。
「貴方の意向も聞かず、婚約者にと急いてしまって失礼しました。すぐにお詫びと正式な申し入れに伺いますから、許してください」
そう言いながら殿下は私の手を取り、口づけを落とす。
(ど、ど、ど、どうしよう。どうしてこんなに良くしてくださるの? 私が誘惑するつもりが、まだ何もしてなかったのに)
すべてが望む方向に進んでいく。
私の心臓がバクバクと煩いのは、何を隠そう男性に免疫がなかったからだ。
家で机に向き合った青春に、それらしい機会が訪れたことはない。
「おや、この指輪。サイズが合っていないようですね」
殿下は私の手を目線の位置に引き上げたまま、ヘビの指輪に目をとめた。
(? サイズはぴったりなはずだけど)
ヘビは私に合わせて巻き付いた。
「不躾を承知で、預からせていただいても? こちらで直し、また、新しい婚約指輪も用意したく思いますので」
言いながら、すでに殿下は私の指輪をそっと引き抜いていく。
この場で"いいえ"と唱えようものなら、殿下に恥をかかせてしまう?
(でも、その指輪は魔族のヘビ)
別の意味で緊張が高まる。
跳ね続ける私の鼓動をよそに、指輪は最高に冷たくなり、けれど彼は温度に気づかないのか、平然とソレをポケットに仕舞った。
(えええええええ)
ほぼ初対面でレディの指輪を抜き取るなんて、許されるの? 王子殿下だからありなの?
私はぐるぐると回る思考に答えが出せないまま、殿下に丁重に見送られ、気がつくと公爵家に帰りついていた。
家では父の書斎に呼び出され、けれども力ない詰問は、殿下から渡された書状で突っぱねた。
父が家長として私に干渉する力は、殿下との約束の中のひとつで消されている。
顔が治ったことは、不思議な奇跡と片付けた。
実際、不思議な人外の力ゆえだ。
使用人たちは私の部屋を元通りに整え、久しぶりに懐かしい自室のベッドで私は身体を伸ばした。
(目まぐるしい一日だったわ)
ふうと息をついて目を閉じたけれど、今日という日はまだ終わっていなかった。
「ひでぇ話だ」
そう言いながら、黒いヘビが部屋に来たから。
◇
「ヘビ! あなた、あれからどうなったの!?」
私はあわてて寝台から身を起こす。
「ああん?」
私に目を向けたヘビは、心なしか疲れているようだった。
「おめでとう、お嬢様。アンタの魂は、オレの手を離れた。くっそ、賭けに完敗するなんて」
どういうことだろう? 契約が無効になったのだろうか。
意味が解らなくて尋ねたら。
「そうだよ。アンタには詫びなきゃな。ある事情により、この契約は無効にさせて貰う。こっちの都合だから、アフターケアはつける。アンタが満足するまで、サポートがつくから」
「???」
ますます、意味がわからない。
契約が無効になったということは、私の魂は将来とられなくて良いという事。
なのに、さらにアフターケアですって?
それは魔族の在り方とは反するんじゃないかしら。
重ねて聞いてみると、渋々ヘビは経緯を話した。
「まず、オレがアンタに目をつけて、いそいそと契約に赴こうとした時だ。アンタに話を持ちかける前に、オレはある御方に絡まれ……、もとい、提案されたのさ。"賭け"をしようって」
賭けの内容は、私が元の姿を取り戻した時。
私がヘビと契約を結ぶ前提で、もし、"怨嗟に駆られた私が、真っ先に復讐に走ったなら、ヘビの勝ち"。
けれど"私が別のことを第一目的とした場合は、相手の勝ち"。
元の姿を取り戻した私が一番に望んだことは、復讐ではなく、"王太子妃になること"だった。
いずれ実権を得て、国や民に尽くすこと。
「ほんと、どんな聖人だよ。有り得ないだろ、人間だろ? 天使様じゃないんだぞ」
ヘビがブツブツと悪態をついている。
「つまり賭けは、あなたが負けて、相手が勝ったというわけね?」
「そうさ! 向こうが勝ったら、アンタの魂に関する権利を、オレが手放すことが賭けの内容。オレが勝ったら、向こうの手持ちをいくつも貰えるはずだったのに……!」
人間の魂で、どうにも遊んでくれてるらしい。
「結果はご覧の通り。アンタが復讐を選ばなかった時点で、賭けはオレの負け。契約は反故とばかりに、早速夜会にしゃしゃり出られて……」
「え?」
「つっ! 今の無し!」
焦ったように、ヘビがキョロキョロと辺りを見回している。
「とにかく、こっちの事情で契約を切るわけだから、アンタにはオレの賭け相手からサポートがつくから」
「サポートって?」
「契約にあったろ? アンタが満足するまで、アンタのやりたいことに力を貸す、って」
「え、ええ、まあ。でもあなたの賭け相手って、私、誰だか知らないのだけど」
それでどうやって、サポートするのかしら?
もっとも魔族のサポートなんて要らないから、もう契約まるっと無効でいい。
魂を取られずに、顔を治して貰った。
私にとっては有難い、の一言だ。
「知らなくても、万事上手くいく。どっかの王子サマが仕返しを肩代わりしてくれたみたいにな。オレの賭け相手は、オレたちの世界では大公級の大物だから」
ドキリ、と胸が鳴る。
(仕返しを肩代わりしてくれた王子様……、エルナン殿下)
王太子妃という事は、殿下の妻になるということで──。
私の染まった頬を、ヘビはしばらく眺めていたが、やがて「やってらんねぇ」と言いながら回れ右をした。
「じゃあな。せいぜいお幸せに」
「あっ」
顔を上げた私の前に、もはやヘビの姿はなく、部屋はただ、夜の静寂に包まれていた。
こうして私は、後日公爵家を訪れた王太子殿下によって豪華な婚約指輪を贈られ、正式に婚約式を挙げた。
その際一緒に返してくれた、黒い台座の赤石は、当然ヘビが変じた指輪ではなく。
何がなんだかよくわからないまま、それでもやたら私に甘いエルナン殿下に大切にされて。
私がやりたいと願うことは、彼からの絶妙のフォローを受けて、安心の中、国のために邁進することが出来た。
大物魔族のサポートとやらは、結局分からずじまいだったけど、もともと彼らは気まぐれな存在。
いつか相手が姿をあらわす日が来るまで。
私は、気にしないでおくことにした。
*
*
*
*
*
──遡ること、夜会の後の王城で。
人払いされた王太子の自室では、明かりも灯さず、エルナン王子がテーブルの上の指輪を見ていた。
「いつまでそうしているつもりだ。賭けは私の勝ちだ」
小気味良さそうな声は、指輪に話しかけたものだった。
ゆるり、と、指輪がその形を崩していく。
「いつの間に、成り代わられたんです? 今朝までは確かに、暗愚な人間の王子だったのに」
ヘビの姿に変わった指輪は、遠慮がちに、しかし不満を声に乗せて相手に応じた。
「では、その間だろう?」
優雅に足を組みかえて、王子が平然とヘビに返す。
「本物のエルナンはどうなったんですか?」
問いながら、テーブルからするりと床へ降りたヘビは部屋を見回し、「ああ」と納得の声を上げる。
部屋隅には、黒く蠢く塊が横たわっている。
「"自分より優れた妃は不要だから"。そんな理由で裏から手を回し、犯行をそそのかすようなクズには、人間の皮も身分も過ぎたものだ」
「っああー。じゃあ、まさか、レジーナが義姉に薬液をかけたのは……」
「薬液の出どころは、決して気取られないよう細工してあった。要らぬところばかり、頭が回るようだ」
「はぁん。で、人間のフリをなさってらっしゃると。お好きですねぇ」
「王太子の権力を使うのが、手っ取り早かったのに加え……、ダンスも楽しかったしな」
思い出したようにクックッと王子が、いや、王子の姿をした何かが、笑う。
「あの女、今世では"クリスティナ"ですっけ。ホンっトないですよ! いくら前身が"天の娘"だからと言って、人界にまみれて長いのに、何で"復讐"よりも"世直し"優先なんすか」
「だからお前の手には負えぬと言った。数千年かけて私がいまだ堕とせない、興味深い対象なのだから」
会話相手の半ば恍惚としたような表情に、ヘビがこぼす。
「執着すごくて病ん……でふっ」
全てを言い終える前に、黒ヘビが蹴り飛ばされて壁に激突した。
ビタンと床に落ち、ピクピクと痙攣するヘビの口から、泣き言が漏れる。
「嫌だもう……。この国の令嬢と王子、足クセが悪すぎだろ……」
「お前の口が悪いのが、一番の原因だと思うがな。さ、クリスティナの皮を出せ。盗っただろう?」
「っええぇ……。火傷付きですよ? ハッ、まさかアレに被せて、娼館にでも投げ込むんで?」
部屋隅の黒い肉片は、十分に生きている。
「まさか。大切なクリスティナの皮を、あんな蛆虫に使うわけがないだろう。この場で処分する」
どこからか取り出された皮が、不自然な火に包まれて消滅していく。
「勿体ない……。オレ遊びたかったのに」
「だから回収したんだ。彼女のものは、視線のひと投げ、吐息のひと息まで私のものだ」
「ヘンタ……ゴブォホッ」
「ようやく今世の転生体を見つけた。お前のおかげだ。それは感謝しよう」
ヘビを足下に踏みつけて、満足そうに王子が言う。
「そう思うなら、もっと丁寧に扱ってくださいよ……」
やがて労われたヘビが、黒い塊を下げ渡され、近くレジーナの魂を狩りに行く許可を得たこと等は、すべて夜の闇に溶け消え、人間に知られることはなかった。……のだが。
王太子妃が真面目な善き女性だったため、以後、人の国はかつてないほど栄えたのだった。